「俺、も、ヤだ…」 ジープの後部座席で、がっくりと脱力して悟空は固いシートにもたれかかった。 隣では悟浄が一人クスクスと笑っている。 ミラー越しに見える運転席の八戒に至っては、鼻歌でも歌い出しそうなほど上機嫌で いつもよりもずっとにこやかに微笑んでいた。 不気味だ。不気味すぎる…。 一体、なんなんだよぉ〜 内心で悲鳴を上げつつ、悟空は大きく溜息をついた。 こんなのは、自分達らしくない。 いや、何も彼らの日常が、己に与えられた過酷な任務を全うすべく、しかつめらしい 面持ちで粛々と西を目指す日々だ、なんぞというつもりは毛頭ない。 三仏神の命を受けた三蔵だけは違うのかも知れないが、残りの三人に至っては、使命 も責務もどこ吹く風。 それぞれに思うところはあるのだろうけれど、誰かに命じられたわけでも強制された わけでもなく、自分自身の意志でこの旅に同行することを選んだのだ。 そんな彼らだからこそ、もっと暗く深刻になってしかるべき旅路も、刺客さえ来なけ れば、物見遊山と勘違いしかねない気楽さだ。 日々くだらないことで言い争い、他愛もないことで大騒ぎをするのが常である。 同行者の機嫌が良いのが珍しいというわけでは決してない。 問題なのは、機嫌の良い人物とその理由だろう。 一体、何があったというのか。 悟浄と八戒の上機嫌に対して、目の前の助手席に座る三蔵の背中からは、どす黒いオ ーラがおどろおどろしく立ちこめている。 悟浄と八戒が楽しげであればあるほど、三蔵の発するオーラが禍々しさを増してゆく ように見えるのは、決して気のせいではないだろう。 悟浄がアヒルではなくなって、やっと普通の生活が戻ってくると安堵したばかりだと いうのに、あれは夢だったのだろうか。 悟空は大人三人組が醸し出す異様な気配にうんざりしながら、見上げた空の青さに思 考を放り投げた。 「あ〜空、青い〜。雲、白い〜」 くだらないことを声に出しても、いつもならすかさずはいる悟浄の茶々が、今日はな い。退屈を持てあました悟空は、ちらりと横目で隣の男の様子を窺った。 子供扱いされるのも、からかわれるのも腹が立つけれど、全く相手をしてもらえない のも面白くない。 既に与えられていた食料は食べ尽くした。 何もすることの無く、話すこともない無為の時間は、悟空には拷問に等しくさえ感じ られた。 悟空は何度目かも忘れた溜息を吐いて、退屈を忘れる最後の手段───不貞寝を決め 込んだ。 目的の街に辿り着き、宿を取った後も、大人三人組の様子は変わらず、否、更に拍車 がかかったようであった。 「腹減った〜」 つい先ほど、宿の一階の食堂で夕飯をすませたばかりだというのに、悟空の腹が鳴る。 何しろ、食べながらも思い出したように一人声を殺して笑っている悟浄と、にこやか にジープの相手をしながら今にも踊り出しそうに楽しげな八戒、周囲に暗雲を棚引か せる悪鬼の如き形相をした三蔵に囲まれていたのだ。 どんなに美味しい食事も、ろくに喉を通らなくて当たり前だろう。 珍しく確保できた個室に戻るまで、悟空らしくもなく神経がすり減るような思いを味 わっていたのだ。 一人きりになって漸く人心地ついた途端、身体は正直に空腹を訴える。 悟空がいつもの半分も食べられなかったと嘆きながら、空腹を紛らわせるためには寝 るしかないとベッドに倒れ込んだ時だ。 ベッドの横から、ボソボソと話し声が聞こえてきた。 ベッド側の隣は、悟浄の部屋だ。 「うーん。…溺れた…っていうには……無理………じゃないですか?」 「やっぱ…全身、水浸し……。なぁ…普通の…………混ぜたら………なると思う?」 「……効果が薄くなっ………たとえば…………とか?」 八戒の答えに、悟浄が爆笑した。八戒の笑い声も聞こえる。 意外と笑い上戸な悟浄が大笑いすることなど珍しくはないが、八戒まで声を上げて笑 っているというのが珍しい。 何を話してんだろ? 興味を引かれた悟空は、ベッドの上に座り込んで壁に耳をつけた。 「上半身だけとかなら、まぁ笑えるよな。ケド顔だけっつーのは怖くね?」 「どちらも怖いです。でも、顔だけだと、手が人間のままですから凶暴さは変わりま せんしねぇ…。あ、でも、顔だけ元のままっていうのは、別な意味で怖くないです?」 「わははは…や、意外と違和感、ないんじゃねぇ?」 「そうですか?」 「だってほら…なんか、こう、目の周りの黒い部分ってタレ目っぽく見えるじゃん」 「そう言われればそうですねぇ…。でも、もし逆に下半身だけだったらどうします? こう、まぁるい尻尾が…」 一体、何を想像したのか、悟浄が声を詰まらせて苦しそうに笑う声がして、八戒が悟 浄につられるようにクスクスと笑い出した。 しばらく二人は笑い合っていたが、なんだかだんだん妖しい雰囲気が漂い始めたのを 察して、悟空は慌てて壁を離れてベッドに潜り込んだ。 今度は隣の物音の一切を聞かないように、頭まで布団を引き上げる。 さっさと眠りの淵へと逃げ込もうと目を瞑るが、悟浄と八戒の意味深な会話が気にな って睡魔は訪れなかった。 …目の周りが黒いって何だろう? ……タレ目で違和感がないって? ………まぁるい尻尾って、ジープじゃないよなぁ? 「目の周りが黒いって、タヌキ…?違うよなぁ。何だろう?あ。タレ目って言えば、 三蔵だよな。でも尻尾ないし───あ」 ベッドの中であれこれと考えているうちに、ふと、閃いてしまった。 悟空の頭の中で、凶悪に目つきの悪いタレ目の、そして目の周りが黒い動物が、金髪 で紫暗の瞳をもつ最高僧の姿と重なる。 もしかして、もしかするのだろうか。 どういう経過でそうなったかまでは想像できないが、三蔵の身にも、悟浄と同じ運命 の悪戯が降りかかったのかも知れない。 要するに、水を被ると呪いが発動するというアレだ。 思い浮かべたのは、絶滅が危惧される希少動物で、そんなものが溺れた泉があるかど うかはわからないが、もしも悟空の想像どうりだとしたら─── 「見たい、かも」 しかもだ。二人の会話から察するに、三蔵の変身がなぜか中途半端なもので、水を被 るたびに違う状態になるのだとしたら? それはもう絶対に、見たい。 あのばかでかい悟浄が、一瞬で、悟空にも抱きかかえられる小さなアヒルになってし まうのを見ているのだ。 あの泉の呪いの効果の凄まじさは疑いようがない。 おまけに命に別状はないときているから、そういう意味では安心だ。 三蔵は一体、どんな姿になるのだろう。 できれば、変身の全バージョンを見てみたい。 むくむくと頭をもたげ始めた好奇心にわくわくしながら、悟空は朝を待った。 「こっ…の……バカ猿っ──────!!」 翌朝、三蔵の部屋からは宿中に響き渡る怒鳴り声と銃声が轟いた。 「…なんなんでしょうね、こんな早朝から」 安眠を妨害された八戒が、悟浄の胸元で目をこすりながら不機嫌に唸った。 「年寄りは朝が早ぇってのが相場だろ。若者は、も少し寝とこうぜ」 アクビを噛み殺しながら、宥めるようにそっとうなじを撫でる悟浄の手の優しさに、 八戒の中にわき上がりつつあった苛立ちが霧散してゆく。 「そ、ですね…」 悟浄の腕枕で眠る至福の時を、刺客の襲撃ならまだしも三蔵のヒステリー如きで奪わ れてたまるかと、八戒も静かに目を閉じた。 昨夜も『楽しい三蔵サマ熊猫化計画』を練っていた悪童二人は、騒ぎの原因が自分た ちにあるなどとはつゆ知らず、安穏な眠りの淵へと戻っていったのだった。 ──FIN── |