東讃真部(鍋)一族の伝承

讃岐まなべ会 会報第4号に、東讃地方に於ける「まなべ一族」の活躍が掲載されています。
このなかに参考資料とし、木田郡三木町の真部清水 氏宅に伝わる「真部家姓氏録」が記されています。
 発行責任者の真鍋行雄 氏は、この冒頭に次のように述べられて本文に入られています。
「(前文略)東讃まなべ一族の本家は鶴羽の真鍋家と云われていたが、鶴羽村の真鍋は天正時代活躍した弥助祐重以後と見られ、それより古い伝承が長尾町内に残っていたとは大きな収穫と云えよう。又まなべ一族が橘氏の出と云われていたが、はっきりした様である。真鍋(部)同族の者にとって、このような家系に生まれたことに誇りをもち、お互いのきずなを深めて行くことこそ、祖先に対する供養となることを自覚せねばならない。」

 

       真部家姓氏録


真部氏(橘氏後裔)系流について

 宮内庁調書
 西暦年
 人皇第三十代 敏達天皇  難波皇子 大俣王  栗隈王  美努王 
 葛城王(橘諸兄) 〔賜橘姓〜正一位左大臣]   奈良麻呂 
 島田麻呂

 吾が祖真部氏は、人皇第三十代 敏達天皇 第八皇子 難波王 大俣王 栗隈王
美努王 葛城王に至り、時の帝 聖武天皇の時(天平八年)葛城王は臣籍に降り橘姓を賜りて
橘諸兄と改められた。
帝は橘姓を殊の他賞でられて、次の如き御製を賜った。

  橘は 実さえ花さえ  その葉さえ 枝に霜ふれど 弥栄葉(トキハ)み樹
                                 古事記  万葉集
葛城王 皇子奈良麻呂は、帝の叡慮に答えて、次の歌をお返し賜った。
 
  奥山に 真樹の葉しめぎ 降る雪の ふりは益すても 地に落ちめやも

橘姓は、吾が国古来より源氏 平氏 藤原氏 橘氏の四姓氏の一つで由緒最も大なる姓氏とされた。

 橘諸兄は、以来臣下に在りて天平時代の燦然たる次代の最高執政者となり、諸国に国分寺庁(古衛府、今の県庁)を造り、筑紫の国に鎮西府及び太宰府を創設。吾が国の国防に力を入れ、又 続いて仏教を宣布。 奈良の東大寺 更に文化の粋を極めた彼の大仏開眼、平安城を整備、天平飛鳥文化を築きあげる大業をなされた。
 諸兄朝臣は、左大臣として恥じない功を、聖武・孝謙帝二代に亘り政務を御補佐し奉る。
そして 天平 宝宇元年正月六日、七十四才で薨じられた。
後この代(世)迄、井手前左大臣と慕われ、輝かしい一生を閉じられた。その墓は、現 大阪府泉南郡和泉の南端輪に在り。

 以来しばらく橘はふるわず。藤原氏の時代になり、橘氏族は各地の国司郡司となって中央より地方廻りとして下向。 

 弘仁六年(815年)二代 舎人内大臣 橘清友郷の娘 嘉知子は才媛にして、時の帝 人皇五十二代 嵯峨天皇の皇后となり、世にいう 仁明天皇の御母君 壇林皇后として、仁慈賢徳 類まれな方と誇高し。
 それより二十数年にして皇后の御兄 橘氏公 が従二位右大臣として、天下に活躍されて陽の目を見。橘の香り栄えるかに見えたが、藤原政権に執って変わられ、天安元年(857年)正月過ぎて藤原良房朝臣太政大臣となり。 天安二年に摂政関白につかせられて以来、 藤原氏 源氏 平氏 交々に天下を掌握し武家政治に至る。
 古来 吾が国 四姓即ち 源 平 藤 橘の中 橘姓氏のみ、地に隠れて ひたすら皇氏に尽くす埋木で、今日に至るものの如し。
 
 思うに武家政治に入りたる平氏は、宰相清盛 皇事を至すも権勢におごり、皇室をないがしろにし身一門西海に滅ぼす。次に名乗りを挙げし源氏、これまた皇室をないがしろにし、肉親血で洗うが如き権力抗争にて鎌倉三代にして滅ぶ。平家の末孫北條が天下をとるも源平の裔 足利 織田そして豊臣に至りては匹夫より出で天下人となる。
古人曰く清盛極悪と言え共、秀吉の悪には及ばずと。天安元年十五の時 藤原良房 は人臣として初めての極める太政大臣となり、続いて翌年癸寅十一月に遂に摂政関白となられ権力並ぶ者なき時代に入った。この年より諸国に疫病疱瘡大いに蔓延、その上凶作続いて世は不安の念におびえ動乱の兆しとて恐れ、その上地方の豪族又は下向せる国造宮司の中に中央の律令厳しさに反逆、衛府国司の暴政に苦しみ善政を申し立てても用いられず。依って各地に賊徒はびこり、特に関東 瀬戸内海 山陽 東海道に出没 政庁まで襲う。依って各国の国司郡司の地方執政宮の強化、人事の刷新を図ると共に、賊徒取り締まりの強化のため追捕使 追索使そして警護使を編成。各々の中央の高官 公郷並びに武士共を、下向せしめられた。 

 吾が橘家からも遠祖の人々が多くこれが任につき、大いに賊徒を平らげ善政仁慈を施し名を挙げられた。しかし中にはその意図半ばにして賊徒のため戦死をされた者も多く、それ等の人次の如し。

天慮七年(944年)五月  橘美濃介遠保公 何れも国司として
天暦九年(955年)九月  橘駿河守忠幹公 下向任地にて
天正元年(978年)十月  橘備前守時望公 賊徒に殺されしと

天徳三年(959年)五月四日 時の朝廷右大臣藤原師輔郷は左大臣 藤原実朝郷に進言し、帝 人皇六十二代村上天皇に橘の尽忠報国の功を上奏。帝におかせられては いたく殉職された橘家をかなしまれ、その功を褒賞されて申される。(天慶四年六月)先年に普く天下に狼藉を働き多くの追捕の武者共を殺めた海賊の首領藤原の徳友を討ち取り、この右近の馬場にて上覧報告。 橘ノ介のこと、今日の前に見る心地す天晴れなる者よ。とて賞美されて之が功を永く讃えんかしとて 紫宸殿の右近の馬場に橘の樹を植えられた世に謂う、右近の橘。 今に残る、正に栄誉尽之。


  見るたびに 其の名を今に しのぶなり 乱れし世にて 残すかたみに
                                       橘五郎助光
  橘の むかしの薫 しのばれて 涙があめと 流れて止まず
                                       真部助芳 

 時は下って永暦元年(1160年)公郷政治久しきに亘り治世地に落ち、北面の武士興り源平入り乱れて闘い王宮全く奮わず。藤原一門 朝廷内における基礎は固まり。
文化の開花はあったが、栄華は多くの犠牲の上にあり。宗教文化がこれに加わり、富と力と欲望に飽くことのない貴族のおごりに租に比べて税は重く。律令制の施行は町民や農民の生活を不安定にし、一家をなし逃亡や流浪が多くなり、都に流れ来り、餓死するか盗みを働くしかない時代となった。

 治暦四年には二條城内裏、延久に入って祇園精舎、承暦二年には石山寺、同四年の二月には皇后高陽院殿の焼失。続いて興福寺、清水寺。そして嘉保元年十月には皇后堀川院が焼失。長谷寺 六波羅密寺。 再建ようやくなった皇后高陽院、続いて皇后大炊殿。

全く治安の乱れた京洛の地となり、地方も同じ賊徒のはびこりで世も末かと思われ、人々を救済する法域が争乱となり京都の都は火魔にあい多くの人々が災難に会ったのである。世に言う平治の乱である。(1159年)
この乱にて源氏の武士は敗れ去り、平氏の時代になった。

この不測の時期に於いて、橘氏族は諸国の国司 郡司として任地で治安に治政に尽くしたのである。新興の土地の豪族が力を得て官吏の指令をきかず、律令政治の形骸を維持して行くには大刷新が行われない限り治安は善処されなかったのである。

 永暦元年(1160年) 吾が遠祖 橘左大臣弁祐王公は讃岐国の天皇領である山田郡司として下向一家を連れての赴任である。

  讃岐国東方四郡の守護は、世々橘家の郡司が殆ど定例人事になっている。西方七郡の郡司は、藤原家が任地である。更に讃岐国の国司として、藤原中納言秀能朝臣が国衛府(国分寺)で任につかれている。その衛府の下司として、橘一門の公清公及び弟の公盛公も勤任。郡司の衛府は牟礼の古衛府で、巡視観察が日常であった。この山田郡は世々皇領として要城として、屋島牟礼に衛府をおかれた。


 続日本書紀曰
承和三年(837年)三月十九日 外従五位下大判事明法博士讃岐公永直右小史兼明法博士
同姓永成等合廿八姻改公 賜朝臣永直是讃岐国寒川郡人今興山田郡人 外従七位上同姓金雄等二烟改本居貫附右京 三條二坊永直等遠祖景行天皇第十七皇子神櫛命也
 植田氏族 神内氏族 三谷氏族 十河遺族内神内 三内 十河三家譜各中絶而難分別 姑之俟後智者神櫛皇子是讃岐国造之始祖
 とあり

 山田郡は即ち王命をもって、郡中に千、百を分かち。其の境界を正しゆして、他所に混り乱れ争ふ事なし。溝水停らずして、耕作の業時を失はず。五穀豊穣して耕作するもの安寧で繁昌し、耕作の業時を失わず。人みな野心なく素朴で世々国司郡司の皇命徹底する国なり。

 寿永二年(1183年)の夏より平家是を頼みて、屋嶋に壇ノ浦と言う所を皇居の地と定め、郡司に命じて是を経営す。

源平の盛衰興亡を賭けた合戦の時

  讃岐国天領山田郡の住人は、好むと好まざるにかかわらず王事安徳天皇(平氏)にくみして参加す。寿永三年(1184年)冬十一月讃岐国屋嶋より摂州一ノ谷に移り、皇居を定めた。其の地勢を見るに、険阻の山波を後にし、平地を前にし重山を左に、右に海を擁し其の境内長遠にして生田の森に至る。その行程三里にして、溝整をかまえ逆茂木を植えて楼台を構え、逞しき将兵を選んで守備をなす。 平新中納言知盛、本三位中将重衡大東大将軍として全軍を統括す。
 南海軍記、源平盛衰記に曰く、讃州国住人真部五郎助光は西国随一の武者にして、守する丘は精兵にして大平の高楼を守る。 その時平家の総勢十万余騎、寄手の源氏の大将九郎判官義経及び源三河守範頼総勢六万余騎。その先陣を承るは武蔵の住人将士河原太郎高直続くは弟次郎盛直は名乗りをあげて逆茂木をよじ昇り一番乗りて斬り込んだが、西国随一と音に聞こえた武将真部に何なく首討ち取られしぞ哀れなる と軍記に語ってあり。之が河原兄弟の塚が現在神戸三宮神社の境内に祀られてありと。
 橘五郎助光は山田郡司橘左大臣弁祐王朝臣の後裔にて大夫領公業郷の五男であるが、公郷の身で武門の下にて戦うは家門一統の恥なれば家内の姓氏真部を名乗って参戦、以来源平の合戦より応仁の乱を得て南北戦の幾多の戦塵に浴す。
 そして戦国の世となり織田、長曽我部、豊臣、三好、徳川の武家政治になり、四国そして讃岐国は戦乱に明け暮れ二百余年。
 古記に面白き事記しあり戦乱のおこるは天の時候に因る也と。日本国乱れる時は大唐にも乱あり、日本治まれば大唐も又治まりたりと聞く。
 爾来橘家は王事に尽くして来で一門にして、その末葉に至るまで尽忠をなす。
 彼の建武の中興の基をなし、吾七度生まれ来たって朝敵を亡ぼさんと数十倍の敵中に斬り込み、鬼人の如と敵を蹴散し華々しく花を散らした摂津河内守楠正成その子の帯刀左衛門正が一門も末葉同族なり。
 兎哉風雲星霜千幾百年、国家の興亡と共に薫り来る橘の樹は、今真の香りを放つを待つ。かって戦国の世 嘉禎三年(1237年)、南朝方にて徹底北條、足利に反対し逆らった橘家は、時の執権北條にうとまれ九州の辺土の国司。そして派遣された橘薩摩守公業公は肥前杵嶋郡の永島庄に城を築き、永住を決意し一家を連れて下向された。

 その途中讃州山田郡向城にも立寄られ、中央北條政権の事吾が国の政治等語って立たれ、彼の地の地頭として下向。善政我が身を次として国事領民の事を取り計らい、公業公微践を救い、諸人に隔心なく親しみかば、国中みな帰服し平穏となる。

 然るに橘豊前守公師の時代に、隣国の有馬左衛門尉義直なるもの隣接の肥前の地頭職 龍造寺薩信と対決せんとして、橘の居城 潮見城を突如として襲撃。三千騎を以て攻めたが、城方はよく防戦し容易に落ちず。有馬義直は一計を案じその謀にかけて城は無通(解)開城して有馬氏に掌握されたり。
 その謀事について、戦記は斯くの如く曰く
 城主橘氏は代々山麓にある潮見神社の氏子たりしが、神社の神子をおどして白装束せしめ。内城に潜入せしめて、神子は自分は潮見大明神の使いなり。大明神におかれては多年橘氏を守護し今日迄来るに、武器を執り楯をかまえて戦をなし多くの人命を殺生なすなど、我れ神通力をもってあだなす敵兵を城より千里外に追い払う存念なり。城兵は速やかに武器を捨て兵共城外に出すべしぞ。叫ばしめられしに、城主公師公を始め城兵は驚き騒しが信じなかった。公師公の祖家に携わるもの祖神の宣託を疑ふ勿れとて、武器を城外に運び出て楯を収めて落城しぬ。
 
この件事実なりや。戦国に生きるにしくは、余りにも円やかなる心根なり。されど理由なき戦をして多くの人命を損ずる如きは本意とせず、真に美しき時代の戦場での美談と申すべきや。大局より観ずれば、君臣相養い相長じて国盛えるにあり。神意を説きて死生の問題に立ちて超然たらしむるは、禅旨を修め無私の境に入ればなりと。名流公郷と戦国武将の差を、この一事で見るを得たり。
                                  (新日本書記)

 今はただ恨みもあらじ諸人の   命にかはる我が身と思へば

 されど、一旦王事の事となれば、吾七度生まれかはりて朝敵を討ち滅さん。一門郎党ひっさげ、鬼人の如き働きをした南朝の忠臣楠氏。橘の香しき勲は、楠公と共に讃えざらむや。

 戦国も収まり、天正十五年(1588年)八月豊臣の武将 生駒雅楽頭 讃岐国の領主として入封。四国各諸国に豊臣に領地没収され、さまよう浪人そして家族、流れ歩いて他国に行く者又来る者真に憐れみを極めたり。それらの人々の中より由緒ある家氏士族一部召抱えられ、零落すと言えども連綿として其の裔を残す。曰く往事の老人の言として、 三世仕を求めざれば、姓氏を絶し凡夫となる。
 家産のある者は田野に交って身を隠し、蓄積なき者は主を求めて諸国を放浪す。名門名流皆深山幽谷に入りて隠士となる。          



 讃州 大内 寒川の二郡は寒川左馬允次郎世々この食邑なれ共、三代実録曰 貞観六年八月十七日辛来右京の人 散位正五位上讃岐朝臣高作大史 正六位上讃岐朝臣時人等賜姓 和気朝臣彼等其先 出自景行天皇皇子神櫛王命也。 天正十三年豊臣秀吉四国征伐後、国司に追い立てられ浪人となり、その家族散逸す。寒川郡奥山郷大窪寺の下額村の主 額孫右衛門と言う者、香川郡仲間村に来たりて田畑を耕し居住せしかば、寒川左馬允次郎そこを頼りて居住。寛永十九年八十四歳薨ずる也。
 寒川三木郡司 安富民部少輔元綱は、細川管領の旗本の武将として世々鴨城に居住。初代讃州に下りし時は、安富筑前守盛方は関東下総の住人鎌倉権五郎の裔 細川頼之管領の部下で、三木郡を賜う。後(天正十一年)鴨部の雨瀧の城に入るも、長宗我部軍に攻められ小豆島に引き取る。豊臣方に組みし淡路由良城に安宅木甚太良を改めた時、由良城にて戦死。その裔長じて豊臣家臣黒田勘解由孝高に仕え、知行三百石を可賜え由。その裔今に存す。

 讃州綾北南香河郡司 香西備後守元資は、勝賀山城に居城(香西 植田 寒川)。遠祖は日本武尊綾公の裔として由来高し、王代の間は綾大領として、六位 五位の間なり。天正十三年豊臣秀吉四国征伐の折、遂に家名絶し所領没収浪々の身となる。豊臣秀吉公凡夫より出で、我に姓氏なき故に旧家名流古家を亡ぼし所領を奪い、我が身による部下に与えてその志を得たりとす。是によりて、逸材も奇才も尊い王家も廃亡する家多し。香西伊賀守の家門も応仁年間(1467年)細川管領勝元の旗本四臣の内一番精鋭たりし。四臣とは、香川肥前守元明 奈良太郎左衛門元安 安富民部少輔元綱 香西備後守元資の四武将を言うなり。四国 近畿 備前 備後 九州征伐時にも細川を援けた名だたる武将であったが、国守より飯料として田を賜り一族奥中山に入り居住。その一門 植松彦太夫 香西佳清兵衛も世定まる時は、天領でありし小田郡前田村に帰り裔を保てりと。
 讃州の国 鵜足郡司 奈良太郎左衛門元安は、足利将軍に尽くし関東より細川管領に従い入封し、以来細川管領の旗本四臣の一となり武勇勝れたる家系なり。
 天正十一年(1584年)長曽我部元親、阿波の勝端城を攻む。勝端城は三好存保(十河)は、織田信長に破られた上方の将兵。四国で長曽我部勢に破られたる将兵は合わせて三千五百名にて、勝端城を守り中富川に押し出して迎え打ったが之を打ち破る。この陣に讃州 奈良太郎兵衛門元安 二百五十人を三手に分けて物集 進士を左右にし闘ったが戦死。子 太郎左衛門 他従は讃岐に引具して鵜足郡津之郷辺に居住し、生涯を送り裔を残す。

 讃州国那珂郡は、往古より藤原家 橘家 伴家の公家の采地なり。郡中十郷なり。
保安年中(1120〜1131年)中御門 藤中納言家成郷 讃岐守として当地に下向。当国の綾大領 貞宣の娘を娶り資高生む。この資高が羽床氏の始めにて、その末葉として 平田 玉井 竹内 成宗豊田 柞田 紫野 宮川 森田 松本 茶水 武本 谷本 有岡 福家 大地 飯田 木村等の枝葉をうみ広繁し裔栄ゆ。

 橘家については尊卑分脈並諸家和譜拙記に依れば、吾が国皇胤系図の如く始祖 橘諸兄は和銅元年(708年)一月二十五日 人皇三十一代 敏達天皇の皇子 難波皇子命五世葛城王命(として)お生まれになり、紫宸殿にて文武百官集い、帝にお悦びの宴を催されし際、帝の盃に何処からか薫しき橘の花ぞ浮かばれる。帝叡感浅からず、勅(ミコトノリ)曰く、
 奇なるよな 是以為汝姓賜橘称根朝臣今日改名諸兄と
長じて参議侍従長者左大臣 正一位となりて、聖武 孝謙の両帝にお仕えして執政し来たり。
其の子奈良麻呂も参議太政大臣正一位に補せられ位人臣を極められ、以来文武の要職につかれ、後裔中 参議兵部大輔右近衛大将の武公出でしより、諸国の争乱鎮撫追討の為国司郡司の衛につきたまう。延嘉 承平 天慶の頃より讃州国司として橘讃岐守従四位下後盛公、続いて左近衛少輔讃岐守従四位下清信公。下って永暦元年(1160年)今から839年前、橘左近衛少輔祐主公は讃州の天領である山田郡木太郷 向城に下向、世々居住され畳溝堅固文武の道にはげまれ仁政を施し平和な王国に床しき日常なりしが、寿永元暦の源平の戦いに帝を護衛し奉り一ノ谷の合戦に参加。戦場に臨むに当たり、身は公家の身が武門の下につき見苦しき屍を戦野にさらしては家門の恥なり。とて、妻方の姓氏 真部を名乗りて戦場に出て、平の各合戦 応仁の乱そして戦国の乱世に一貫して仁義の節に尽忠。功を立て、西国一の武将とうたはれにけり。その内各合戦には、必ず華々しき働きをして名をあげたり。
 曰く 真部五郎助光 真部五郎祐孝 真部五郎祐満 真部五郎祐則 真部弥介祐重 真部助兵衛守政 真部弥介守資 真部太之介祐利 真部左兵衛祐忠 真部右兵衛祐義 等々何れも武勇の士
知仁の士。戦記には載らず。

 橘家訓に曰く

 君主の道を失って己が利を恣にする時は、天命に逆らいて久しからずして亡ぶ。
 道に因って身を亡ぼす者は、佳名を後世に伝ふ。
 利に因って身を亡ぼす者は、汚名を後世に残すなり。
 人生50年と言えども、明日の亡ぶるを知らず。
 名は、永久にして天地と共に存す。
 よろしと子孫は、これを思うべし。  と


 橘家は讃州にて采(配)地 那珂と任地 天領なる山田郡に移住し、その枝葉を繁る者は大響 楠木
内海 三條 甲斐 篠原 新居 松井 大河原 柏原 萩原 丹下 百々 小寺等の各門葉を分かつと言え共、天正 中期 末期 より録を離れ諸国に散逸す。
 その中にありて子孫真部弥介は往事の功績に対して250石を賜り、寒川郡奥山邑の讃岐 阿波国の国境にある大窪越関所の伺察使(代官)と被命。その後職は讃州の特産の白米塩三盆白紋等の持出監視取締物件流失防止と不審者取締りをなし、世々奥山に移住し近隣を併せての里正(庄屋)として名をとどむ。

 特記として

 天保十二年(1842年)今から百五十七年前子孫の真部宇須右衛門祐武は、松平藩公に召されて藩の武道師範役 剣術鹿島神刀流の一派 電光石火の早業から雪荷流、弓術は日置流、仰せつかり五代祐貞奉録し、世々高松上ノ邑 現高松市栗林町に居住す。

 それ世乱れ戦国を見るに、盛者必衰は常にして栄枯盛衰亦常なりと謂えども、治世の知能 乱世の知能 その趣異なり。治に乱を忘れずは、昔よりの格言なり。生家零落すると言え共、天運循環勲不復子孫後裔人あって名を掲げること有之。

   知らぬ世をつたえても偶ふかな
                   昔よ何のゆかしくなるなるらん
   見るたびに其の名を今はしのぶなり
                   乱れし世より残すかたみ成り

  
  

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