Quit the loose life

     訣別

 随分くだらない人生を送ってきた。
何も手にする事もなく、何も認められるモノなどない無意味な生活。
誰にも必要とされず、愛されぬまま只、無意味に生きている。
「愛されたい」「認められたい」と思いながらも、妥協を嫌い自分を変える事も出来ない。
そんな俺が愛されず認められないのは当然の事だろう。
今俺が生きている意味は只、家に金を運ぶ為に過ぎない。
誰の為でもなく、只愛せない家族の元へ愛されない俺が金を運ぶ為だけに仕事を繰り返している。
酷く滑稽な暮しだろう。 
 今思えば俺は生まれてから一度も愛された事などなかった。生まれてきた事すら否定された事も有った。
それでも今まで生きてこれたのは俺が強かったからじゃない。自らの命を断つ勇気が無かっただけだ。
俺はどうしようもなく弱い人間だ。
それなのに人に合わせて巧く生きる事もできずに只、自分を押し通し強がるだけで生きてきた。
 それももう限界が来たようだ。
何かを問いかける為に自らに刻み付けた傷も、もう痛みすら感じなくなった。
今は唯、酷く眠いだけだ。
もういいだろう?俺はこんな場所に居たくないんだ。あの向こう側に行きたいんだ。
あの光の向こう側へ、たとえ戻れなくても構いはしない。
元々、俺に戻る場所など在りはしないのだから。
もう、終わりにしよう。最後に一つだけ伝えておく。
Thank you and fuck you

                              全てとの訣別を望む愚者より


って、こんな散文書いてほっぽいといたらかぁちゃんが見てしまったらしく、大騒ぎになった(苦笑)
いやぁ、あんたの気持ちは分からんでもない。確かにこんな文章の走り書き見たら心配もするだろーよ。
しかしだ、いきなり思考が飛びすぎなのだよっ。死にそうかどうかぐらい判るだろーがよっ。
大体、自殺するよーならもうとっくにしてるっちゅーねんっ(笑)
てなわけで、今回は死の・・・もとい、詞の話を一つ。

ASにおいて詞を書いているのは主に俺とさつまだ。昔はちゃぼも書いていたのだが、今は音作りをメイン
にしているのであまり書いていないようだ。
ちなみに俺とさつまは詞の書き方がまったくと言っていいほど違う。
さつまは元々曲を付ける事を前提として詞を書いていた為か、その辺を考えながら詞を書いているが、
俺は元々散文に近いものを書いていたのもあって、前記の「訣別」のように散文を書いてそこから
キーワードを拾って再構築をかけるやり方が多い。その散文のテーマは自己の体験や感情で書く事が多いが
小説や聞いた話などからヒントを得る事もある。
このやり方は、散文を書くのは比較的、楽に流れることが多いが、それを詞に再構築出来ないこともある
という欠点があった。おかげで何編かの散文はそのままお蔵入りしていたりする。
ちなみに「訣別」は判る人には判るだろうがとある小説からヒントを得て書いたモノで自己の感情では
無い事を付け加えておく。

話戻って、散文形式のほかにも幾つかのキーワードが浮かんでそれを元に展開を組み立てる事もある。
やり方としては散文形式の短縮版とも言えるやり方で、いきなり構成から入るので流れに乗らないと
詰まってしまうことが多かった。
しかし、流れに乗ってしまえば時折、詞全体が降りて来ることも在るので、効率がいいと言えばいいのだが
このやり方にも欠点はあった。
一つは感じたままに詞にしてしまう為、内容が直接的すぎるのだった。
散文形式の場合は、一度直接的に書き上げた後で再構築するためある程度ヤバイところは抽象的に差し替え
たりもできるのだが、このやり方だとそれがしづらいのだ。
普通は「直接的でもいいじゃないか?」と思うかも知れないが、俺の場合、そのモデルになった人や出来事
が、すごく身近だったりするのだった。となれば、そんな詞を見せられたほうはたまったもんではないらしい。
そんな理由でお蔵入りになった詞もあったりする。
よくちゃぼやさつまにも「もっとオブラート包もうよ」と諭されたもんである。
まぁ、それは今もあんまり変わっていなかったりするのだが・・・・。

あともう一つの欠点は、俺の詞そのものに対する欠点でもあるのだが安定の中では何も書けないのだ。
元々、俺の詞は大体が最悪の状況下で出てきている。その最悪度合が悪ければ悪いほどいい詞が出たりする。
しかし、俺も人間なのでいつまでも最悪が続くと身が持たなくなる。
人間とは便利に出来たもんで身が持たなくなれば自然と脳が崩壊を止めようとする。
現実からの逃避、記憶の封印やねつ造、感受性の凍結、感情の排除、果てには別の人格を生み出す事などで
精神の安定を計ろうとするのである。
それ自体が人間として「壊れている」状況ではあるが偽りにしろ一応の安定は保てるわけだ。
しかし、それは所詮偽りの安定でしかない為、そんな状況下で詞など書けるはずがない。
そりゃ金の匂いに敏感な胡散臭い音楽家先生ならどんな状況下でも詞を書けるのだろうが、
少なくとも俺には書けなかった。そんなこんなで一時期、まったく詞が書けない時期があったりもした。
以前のバンドについてのコラムの中で書いた「壊れてた」って時だ。

しかし、そんな状況を打破するのもまた、俺の場合詞の力によるところが大きい。
偽りの安定のなかで心殺し、壊れていた俺を蘇らせたのは「BURNandRUN」と「1997」だった。
「BURNandRUN」の詞は散文形式に近いやり方で書き上げた自分に対するメッセージだった。
誰もが持っている強い自分から弱い自分への叱咤であり、自己高揚のセラピーとも言える詞だった。
その詞に同じアンテナを持つちゃぼが反応してあの曲が出来たわけだ。
「1997」は元々ちゃぼが提示していた曲の仮タイトルであったがその言葉から錆付いた日々という
キーワードを感じてそれを元にして組み立てた詞で、自分の過去に対する訣別の意味を込めた詞だった。
この2編の詞を書き上げた事で俺は偽りの安定を打ち破り、現実の不安定の中で今、溺れもがく事が
出来るようになった訳だ。まぁ、それは他人から見れば最悪の暮しだがな。

ついでに、詞の世界観の事についても書いておこう。
俺の詞の世界観は基本的に己の出来事や感じた事がほとんどだが、ある程度のアレンジは加えている。
そのアレンジは俺のアンテナで感知した表現者達に多大な影響を受けてはいるがな。
一番強い影響をうけたのはおそらく尾崎豊だろう。
初めて認められる表現者だったってこともあり、初期のころの詞は彼の影響が多大に出ていた。
彼の死後、祭り上げられていく彼を見て悲しくなり一時期離れてしまったが、彼の存在は今でも俺の感性の
根底を支えている要素に変りはない。
音楽を初めてからはYOSIKIやhide(X Japan)やJ(LUNASEA)や
清春(元黒夢、現SADS)などの影響を受けた詞になってきた。
彼らの表現法などは曲を乗せる事を前提とした作詞に非常にプラスになったといえる。

俺にとって詞というものは俺の言葉であり、俺の血であり、俺の全てにほかならない。
いろいろな表現者たちの影響は受けているが、その中で語られている事が俺の全てだ。
俺を知りたければ詞を読めばいい。
まぁ、多角的に捉えているので読んでも判らないかも知れないがな。
判らないならそれでもいいんだ。判らない人間だと認識してくれればな。
変に判った振りをするのだけはやめて欲しい。
欲しいのは見せかけの理解じゃない。認識した上でのその人なりの解釈だ。
詞とはそういうものだ。
                           あるこほぉる・せんさー  神風

追記・虚言症ぱーとつー(笑)



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