「神を恐れ、畏れなさい」 山内 眞 教師(東京神学大学学長)

詩編 23編1〜6節 ローマの信徒への手紙 3章9〜18節
80年の恵みの歴史
 今朝の礼拝は、仙台広瀬河畔教会創立80周年の記念の礼拝であることを覚えつつ御言葉に聞きたく存じております。
 80年の教会の歴史は、返りみますととりわけ激しい時代を突き抜けるようにして進んでこられたこともあり筆舌に尽くしがたいものがあると拝察いたします。それはトータルに見ますれば紛れもなく恵みの歴史であって、そのことははっきりしていることです。それ故にこの日私どもに求められておりますのは、その恵みを覚えてまず主なる神に感謝を捧げるということでありましょう。そしてその大いなる感謝の思いをいわばバネとして恵みに応えて、各々の信仰、教会の姿勢を立て直し福音の原点に回帰して信仰の基本体を堅くするところへと導かれたい、そのようにして今後の教会の歩みを示されたいと願うのです。

神を畏れる信仰者の歩み
 今朝ご一緒に読みました、「ローマの信徒への手紙」には「神への畏れがない」(18節)と明記されております。要点だけ申しますと、伝道者パウロはここでは主なる神に対する畏れがない、だから人間は罪人なのだと主張しているわけです。他方、例えば「使徒言行録」をみますと、そこには最初の使徒教会の人達について、信仰者は主なる神を畏れて歩んでいると記されております。こういう御言葉に接しますと、私どもはパウロ及び信仰者の人たちは他の人とは違って、主なる神を畏れつつ歩むものであると理解していたと知らされるわけです。主なる神に対する畏れがあるかないかというところに、信仰者とそうでない人々の違いがそれに限られたことではないにしろ、そこに顕著、鮮明であるということです。

新約聖書と「おそれ」
 「おそれ」と訳されている同じ言葉は、新約聖書ではだいたい50回近く用例がありますが、大まかに申しますと二通りの意味合いに使われているということができます。一つは恐ろしいとか怖いとかいう意味、もう一つは、敬い畏むという畏敬の意味でありまして、二つの意味がしばしば重ねられて使われています。「神への畏れがない」と訳されいるこの箇所などは二つの意味が重ねられている代表的な例であるといえます。そのために外国語の訳をみますと、一方では恐いという言葉で訳され、もう一方では畏む意の畏れが使われ訳されているのであります。日本語の聖書でも同じです。今朝読みました新共同訳では畏むという文字が使われておりますが、つい先程まで用いておりました教会訳には、恐れという文字で訳されているわけです。
 「ペテロの第一の手紙」(1章17節)には、あなた方は人をその仕業に応じて公平に裁く方を「父」と呼んで信じているのだから、この世にいる間は神への恐れの心を持って過ごすべきである、とあります。厳しい文言ですが、アモス・イザヤなど旧約聖書の審判預言者、あるいは新約聖書で言うなら、悔い改めを迫るあのヨハネのような人にふさわしいのであって、新約聖書ではこのような厳しい言葉は、例外的ではないかと思われる方も多いと思います。しかし、新約聖書にも意外に多く、たとえば、パウロには恐れおののきを持って務めよという言葉があります。さらには主なる神は終わりの日に隠れたことを裁かれるという言葉がございます。これは胸に響くそれだけに忘れがたい聖句の一つであります。私はこういう言葉は、学生諸君に勉強する机の前に大きく書いて貼っておくのが良いと思うと言っています。

主による恵みの現実
 信仰者の歩みはキリストの尊い十字架の恩寵、恵みによってがっちりと強く支えられています。よく知られている通り、よみがえりの主の導きと守りの中に置かれています。のみならず、御霊の力強い導きのもとにも置かれています。これは間違いのない信仰の現実であります。
 教会でよく知られている絵画の一つに、ケン・ブラウンの「神の足跡」という絵があります。それは浜に記された足跡を描いたもので、背後にストりーがあります。その大筋は次のようなもので、ある人がこの地上の生涯を終えて、天上でキリストと対話をすることが許され、キリストと自らが辿った地上の足跡を振り返っている。しかし、よく見ると自分の足跡に並行してもう一つの足跡が続いている。あの足跡は誰ですかとキリストに聞くと、あれは私の足跡なのだとお答えになる。そこで、主があの時もこの時も実は歩みを共にしてくださっていたことを知り深く感謝する。しかし、ある地点から足跡が一つになっているので、キリストにあの地点までは一緒に来てくださったけれども、あとは離れていかれましたねと尋ねた。するとキリストは、そうではない、あそこから後は私があなたを背負ってここまでやってきたのだと応えられた、という話です。
 このストーリーは、私どもが賜っています恵みについて大切なことがらを教えています。聖書の宗教は、聖書の言葉が意味深く有意義であることは確かですが、それで尽きているのではないのです。主が伴い、望み、担い、引き受けたもう、紛れもなく私たちも知っている実質を持っている。そこに聖書の信仰の真実があると深く思わしめられるのです。まことにこれはありがたく、これに勝る喜びはないのであります。他方、そうした比類なき恵みの現実を与えられている私どもも、その恵みにふさわしく歩んでいく、すなわちパウロの言葉で申しますと、自分の意向に頼むことを止め、一転して御霊の導きに服して歩んでいく、キリストのご意向、主の御旨を第一にして、自分史の中に具体化していくことが恵みに浴している者として求められている。このことははっきりしています。

パウロの手紙の命令法と直説法
 人々は終わりの時に厳粛で避けがたい審判者との出会い、チェックポイントがあるとの恐れをキープしていくことが求められているのであります。確かにパウロにはキリストの取りなしにより神の怒りから救われるであろうという発言があり、かなりの数記されています。実に深い慰めに満ちた御言葉であるといわざる得ません。最後にはこの御言葉によりすがることになるのかもしれませんが、その一方で信仰者であっても神に退けられることがあり得ると力説していることを、私どもは軽くみるわけにはいかないのであります。時々そのことに深く思いを至すことが大変重要であります。
 パウロの手紙には同じ主旨の発言が文法でいうと命令法と直説法の二つの用法で書かれています。たとえばバプテスマを受けたことを、キリストを着たのでと、救われる理由を直説法で述べている。一方、キリストを着なさいという命令法で勧告を書いています。直接法に平行して命令法でも記すのはパウロに特徴的なことですが、この修辞上の特徴はいったい何を示しているのでしょうか。このことは重要な点ですので、簡潔にまとめておきたいと思います。

困難な神の恵みの生活化
 信ずるものはもっぱら主なる神の哀れみと恵みによって救いに預かっている。それは自分で獲得したのではないということ。実は今日は、宗教改革を記念する聖日にも当たっています。マルチン・ルターが打ち出した信仰義認の教義、救いは信仰と恵みによるのであって技によるのではないということを覚える日なのであります。しかし、我々は、恵みによって与えられた救いをキープしているかどうか、あるいは神の恵みを生活化することで、信仰をよく堅持しているかどうか、そこに問題がある。直説法が命令法に続かないでいるところにある。実際にそこに憂いを覚え、困難を覚えない信仰者はいないと思います。
 主イエスの話の中に、極わずかの借金を返さなかった者を腹を立て牢獄に入れてしまったしもべが、ご主人から私があなたを憐れんだように何故仲間を憐れまなかったのかと厳しく叱られたという、たとえ話があります。しもべのけしからん態度は、たとえ話だと一言で片付ける訳にはいかないと思うのであります。信仰者であっても、生活観、世界観、品性や感性は、信仰を持つ以前とほとんど変わらない。変わらないものはまれであるとは言えないのです。パウロはまとめて我欲と申しますけれども、肉の思いにいつの間にか服属し、世俗化している者は、まれではないわけです。

問題の起きる原因
 主イエスの御昇天と主が来たりたもう再臨の時の間に挟まれた中間の時におかれています我々は、キリストの大いなる勝利の残党のごとき悪魔的な諸力がそこかしこから脅かし隷属を迫る中にあるのであって、そこのところに大方の問題の起きる原因があります。マルチンルターは机に向かっている時にサタンが現れたので、インク壺を投げたと言われていますが、サタンがなお突如と現れてくる、危機的な瞬間が、世界史においても個人史においても、起こってくる場合があります、私たちの弱さのために、罪の手に掌握されることもあり得ることなのです。そのあたりに問題がある。それゆえにパウロには命令、勧告の発言が多いのです。パウロの書きました文章の80パーセントがそういう性格のものといわれています。
 それでも教会生活をしている私たちは、信仰が与えられていない人に比べ肉なるものに自己投入することは少ないはずであり、当然そうなるはずでしょう。しかし、御霊に積極的に自己投入しているかというと、いまひとつはっきり答えにくいということが、あるのではないでしょうか。なるほど、肉には服していないが霊には十分に自己投入していない、どっちつかずの状態にあるから、始終狼狽え、右往左往し、そして多くの場合自家撞着的なことが起こってくるわけです。

主の恵みを無駄にしない
 新約聖書の最後にある「ヨハネの黙示録」には、「私はあなたの技を知っている、あなたは冷たくもなく熱くもない。むしろ冷たいか熱いかであってほしい。生ぬるいので口から吐き出そう」とありますが、生ぬるい状態にある場合には、主から見ると恵みに応えるのではなくして、恵みを無駄にしていることになります。パウロは私はキリストの恵みを無駄にしないと、何度も語っております。背後から射してきて、私たちを暖かく何重にも包んでいる十字架の恩寵の光に浴している者にふさわしい歩みをしているかどうか。と同時に、私たちの生き方は、前方の終末の方から私たちを隈なく照らすその光に耐えうるものであるか自己検討を迫られているのです。

真に恐れるべきもの
 現代人の根本感情は不安と恐れであると言われているのは、私どもが承知しているとおりであります。人間のいろいろな理想、イデオロギーなど存在の根拠と目されてきたものが、ことごとく壊れていき、はじけたのは金融界のバブルだけでなく、家庭もはじけ、学級も崩壊し、社会そのものが危機に瀕している。そうした中で人格の崩落が著しい。そこに不安と恐れの原因があります。それは私たちは例外であるとは言い難い。昨今、人間は本当に恐れるべきものを恐れているかどうか。誰でありそれをしっかりと知っているかどうか、そこのところが実は問題なのです。その根本的な問題が解決されない限り、どういう風に生きていくかという問題から始まって、広く文化や技術の問題、また人間の歴史に関係する民族などの諸問題にしても、人間の分別にだけ頼っていたのでは、なかなか進捗しないし、根本的な解決をみないという反省をこの恐れという言葉から教えられます。この世界を創造し、すべて私どもに委ねた創造主が同時に審判者、アドナイの主であるということを深く自覚するようででありたいと思います。

畏敬の念の不在によって
 畏敬ということも、「おそれ」の言葉として省みたい。畏敬とは造り主なる神の前に立って、造られたもの、被造物が抱く感情であり、思いです。もっと一般的に言いますと、主なる絶対他者といわれる方に直面した場合に人間が抱く感情です。神殿でザカリヤが御使いに合った時の「おそれ」、羊飼いが御使いの歌を聴いたときの彼らの「おそれ」、イースターの朝墓の前に立った婦人達の「おそれ」、それらはただ単に恐かったというだけではすまされない。独特の心情、感情であります。恐いということも含むでしょうが、聖なる方に対する畏敬の念を持つ優れて宗教的な感情であります。そのような意味の畏敬の気持ちというものは我々の内に生きているだろうか。もしそういうものが希薄であるとすれば、我々と神様との交わりはどういうものになっていくだろう。造られたものとして造り主を畏敬する気持ちが少ないとすると、何か僭越なことが起こっているのではないか。まことに出過ぎたことが現れてくるのではないか。そういうことがなければ、非常に観念的なことにもなってしまう。一種緊張感みなぎる思いを伴うキリストとの生き生きとした連帯も交わりも、畏敬の念が伴っていないところでは、全然成立してこない。広く申しまして、信仰生活、教会生活の内実は稀薄になってしまうのであります。  今、観念的と申しましたが、私はこのことをよく考えてみたいと思います。日本のキリスト教を考えると、観念化現象は非常に問題です。あるいは聖書を重んじているといっても、それは文字を重んじている宗教になっているのではないか。非常に主知主義的な傾向が強い。あるいは畏敬の念がないと、教会は、結局、ヒューマニズムに引っ張られてしまい、場合によっては、ヨーロッパのように化石化が起こり、教会が非宗教化、世俗化してしまうということです。

信仰生活が形骸化しないために
 我々信仰者は四六時中と言わないまでも、少なくとも何かことあるごとにキリストあるいは神様に思いを馳せる。それが私どもの歩みの特徴であります。こういうことが許されているということは、実に計り知れない豊かな恵みであります。またそうあることが大切であるということも言うまでもないことです。一意専心という言葉がありますが、煩わしいことが呆れるほどに多く、また世俗の大波が絶え間なくどんどん押し寄せてきている、その中にあってキリストに集中していく思いにおいて熱心であるべきであると思います。 しかし、そのときに覚えておかなければならないことは、その生活が形骸化しないということです。恐れ、畏敬の念が伴わなくなると、それは一見敬虔そうに見えて甚だしく不敬虔なものになる危険を生じさせてしまうというのは、自らの経験からも知らされているところであります。「おそれ」のないところでは結局は人間の恣意的な、あるいはそういう思いが全てを支配することになってしまいます。初期の信仰者の歩みについて、彼らは死を恐れて歩んでいると最初に申しましたが、是非私どもも同じように神を恐れ、かつ畏みつつ歩みを特徴化していくことを願わずにいられません。

主を畏れるは知恵と分別の初め
 主なる神に対して「おそれ」の念が不可欠であるということは、広い意味での人間としての知的な営みにもそのまま当てはまることです。旧約聖書の「箴言」に主を恐れ畏しこむことは知恵と知識の初めであると二箇所に書いてあります。また別の箇所には造り主としての聖なる方を分別の初めと書かれています。初めという言葉が何回も出てくるのですが、元々の言葉の意味は、すべてを成り立たせ全体を方向付ける土台という意味であります。造り主であり、審判者である聖なる神に対する恐れ、畏敬の念こそが一切の知識、知恵、そしてその体系の基礎であり分別の初めであるという箴言の言葉を、今朝もう一度思い起こしておきたいわけです。
 私は神学教育に携わっており、神学生によく学び取ってもらわなければならないこと、教えるべきことは、山ほどあり、非常に大切なことは教場で教えにくいわけですけれども、しかしながら神学校の礼拝、またそのキャンパスにおいて、主なる神に対する恐れと畏敬の念が深く根づくということ、それが全ての学びのベースであるということを学生諸君に知ってもらいたい。大げさな言い方になりますが、神学教育が成功しているかどうかはそこにかかっていると認識しているのです。
 それは神学生だけのことではなく、人は皆人生という学舎で生涯学んでいるのでありますから、そこでは全ての知恵と知識、そして人生そのものを正しく方向づけ、秩序立てるその基礎が必ず求められる。私どもは時々他の人についてあの人はオリエンテーションが悪いというときがあります。人生の方向付けは何によって決まるのかという問題です。主なる神に対する恐れと畏敬の念が初めであるという聖書の言葉はもって明記されねばならないということです。

「おそれ」の共同体として歩む
 新約聖書には「おそれ」という文字が正確には47回用いられています。今朝はこの言葉が孕んでおります豊かな含蓄のうち、畏敬と恐れこの二つに注目してご一緒に反省を試みました。是非私どもの群が今後も「おそれ」の共同体としていよいよ堅く立たしめられるようにと願います。
 宗教改革の記念日と申し上げましたが、スコットランドの宗教改革者ジョンノックスの墓石に「ここに神を畏れた人が眠る」と刻まれていました。それを今思い起こすのです。私どももまた教会全体としてもそういう風に要約されるような歩みを全うしたいと思うのです。また、神様に対する恐れも畏敬も全くなくそれ故にあらゆる混乱、混迷、混沌に陥り、その中を右往左往しているこの社会、この町、この世界において「おそれ」の共同体を拡大していくこと、それがすなわち我々の使命、ミッションなのだということを80周年を迎えるに当たり、確認したいと思います。

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