「信仰と愛に生きる教会」 望月 修

 知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる。(コリント8・1b)
 パウロが手紙に書いていることは、こんにちと時代が違うだけでなく、教会の置かれた環境も、抱えている問題も、随分異なっています。しかし、同じように信仰に生き、教会を形づくっていることから言えば、この手紙は、私たちの教会に対しても語っているのです。
 この手紙の8章で取り上げている問題は、「偶像に供えられた肉」(1a)を食べてよいか否かをめぐってです。私たちには、どちらでもよいことのように思われるかもしれません。しかし、その背景を知ると考えさせられます。
 当時、市場に出回る肉は、食肉業者によって、必ずと言ってよいほど、何らかの神々、偶像に供えられたものでした。悪霊の存在を素朴に信じ怖れていた人々は、食べ物を介して人間の体に入り込む悪霊を取り払うために、神々つまり偶像に食肉を供え、清めの儀式を行っていたのです。こんにちで言えば、食品検査の手続きに当たるかもしれませんが、教会の特に貧しい人たちは、この「偶像に供えられた肉」を食べざるを得ませんでした。そうでない肉を手に入れようとするなら、自分たちで動物を確保し処理しなければならず、かえって高くついたからです。そこで、「偶像に供えられた肉」であることを承知しながら、つまり、「良心」(7)に何らかの呵責を覚えながら、その安く手に入る方の肉を食べていたのです。
 ところが、そういう人たちのことを、信仰の知識がないからだと言って、軽蔑する人たちもいました。それらの人たちは、自分たちは信仰の知識を持っていると言って、「わたしには、すべてのことが許されている」(6・12、10・23)と主張しました。彼らは、これみよがしに、平気で、偶像に供えられた肉を食べていたでありましょう。
 そういうことを考えますと、これは、ここで取り上げられている具体的な問題に限らない、教会における信仰者の在り方そのものに関わる問題であることに気づかされます。
 そのようなことの中で語られたのが、冒頭の「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」です。信仰における知識を否定するのではありません。むしろ、信仰の知識は必要です。しかし、その知識よりも、更に大切なのは愛です。それも、「造り上げる」ような愛です。
 「造り上げる」というのは、徳を高めることです。他の人や教会の徳を高める愛が大事なのです。少なくとも、信仰の知識がない、合理的に考えられないと言って、他の人を軽んじたり蔑むなということです。
 私たちは多くの信仰の知識を持っているかもしれません。しかし、その知識が神を心から愛することになっているかです。神をほめ讃え礼拝するために、そういう信仰の知識を用いているかです。それだけでなく、同じように信仰生活をしている教会の仲間の救いに役立つように生かしているかです。
 それもこれも、自分のように取るに足らない人間が、神に選ばれ愛されているかを、十分に分かっていないからでしょう。分かっておれば、同じように、神に選ばれ愛されている仲間を、どうして軽蔑できるでしょう。
 「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです」(11b)。キリストは、自分のためばかりでなく、私たちが軽んじたり疎んじたりしがちな他者のためにも死んでくださったのです。私たちの主と崇めるキリストは、すべての者の罪を贖うために、犠牲の死を遂げられた救い主です。誰もがキリストに救っていただかねばならない罪人であり、キリストの支払われた犠牲によってしか救われない人間です。この事実をしっかりと信じ、お互いの救いのために仕え合う教会となることです。


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