「私たちの主イエス・キリスト」 望月 修

 ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。(コリント12・3)
 聖書が証しする神は、三位一体(御父・御子・聖霊)の神です。しかし、御父や御子ほどに、聖霊について正しく信じられていない、というのが実状ではないかと思います。
 「兄弟たち、霊的な賜物については、次のことはぜひ知っておいてほしい」(12・1)。パウロがこのように語るコリントの教会には、自分たちは特別な賜物を持っていると主張する人々がいました。しかし、それは正しい信仰によるのでなく、むしろ独り善がりで身勝手な言動によって、他の信徒たちを軽んじたり、躓かせていたのです。
 彼らの主張や生活態度は、そのほとんどが、実はその当時流行していた思想や生活スタイルから来るものであったらしいのです。
 信仰生活が陥りやすい過ちの一つは、信仰がいつのまにか独善的になることです。その原因は、もともと信仰が偏ったものである場合が多いのですが、世の中の流れに汲みすることにもあります。
 いずれにしても、誤った信仰は、礼拝の秩序を乱し、聖餐に正しくあずかれなくさせ、教会を混乱させました。
 冒頭の言葉は、そういうコリントの教会を反映しています。霊的な賜物ということで、何か特別な賜物を考えるかもしれません。しかし、それは、誰もが、「イエスは主である」と告白し、神を正しく礼拝させることにあります。
 このことは、取り立てるほどのことでない、と思われるかもしれません。しかし、この場合の「主」というのは、当時のローマ皇帝の正式な称号でした。つまり、このように告白することで、主イエスこそ世界の真の主であって、ローマ皇帝以上の御方である、という信仰を言い表したのです。
 ローマ皇帝は絶大な権力を持っていました。人々も自分たちの生活が維持でき曲がりなりにも平和に過ごせるのは、この皇帝の支配が行き届いているお陰だと思っていました。だから、皇帝が神のように崇めらてもおかしくない時代でした。そのような中で、世界を本当に支配しているのは、主イエスである。主イエスこそ、私たちに本当の豊かさと平和をもたらす御方、神なのだ、と告白することでした。
 しかも、この主は、「仕えられるためではなく仕えるために」、十字架におつきになられ、死者の中から復活させられた主であります。つまり、あのローマ皇帝のようにでなく、私たちを罪から救うために、「多くの人の身代金として自分の命を献げるために」来られたのです(マルコ10・45)。
 そのような信仰を告白させるのが、この霊的な賜物であって、聖霊による他このように告白することができないのです。
 「主である」というのは、世界の主であるだけでなく、この私の人生と生活の主でもある、ということです。暗がりを手探りで歩くような人生です。これを乗り越えることができても、今度はこれが、というように、苦労が尽きない生活です。悲しみも耐えません。しかし、そのような私たちの人生と生活の主は、この私でなく、実は主イエスである。そうであることに、本当の慰め、生きる勇気と希望があります。そればかりか、私たちの死においても、主イエスは主であり続けます。
 ここに、わざわざ「イエスは神から見捨てられよ」とあるのは、肉体を取られ十字架につかれたイエスなど、神でない、それでは救われない、と主張した人たちの合い言葉であったらしいのです。
 しかし、教会は、そのような囁きがそこかしこから聞こえて来る中で、この主が、教会に頭として与えられていると告白しました(エフェソ1・22)。
 このような聖霊の働きと力とを、正しく信じ、しっかりと受け止めたいと思います。


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