「私たちに告げ知らされた福音」 望月 修

 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。(コリント15・3−5)
 新約聖書に多くの手紙を残したパウロが、「最も大切なこととして」伝えたのは「福音」でありました。その福音の内容をここで明らかにしています。
 この手紙を受け取ったコリントの教会は、違った教えや信仰がはびこり混乱していました。福音が見失われてしまったのです。しかし、こんにちの教会でも起こり得ることです。
 私たちも「受け入れ、生活のよりどころとしている福音」(15・1)です。パウロは言います。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」(2)。
 福音を信じて救われるのです。「しっかり覚えていれば」というのは、伝えられたままに堅く保つことです。ある人は「軽々しく信じるな」とさえ訳しています。福音を信じなければ滅びるほかないのです。私たちにも告げ知らされた福音をこの機会に改めて確認し、信仰の原点に立ち戻ってみる必要があります。
 まず、「キリストが、聖書に書いてあるとおり」と述べています。福音と言っても、「聖書」に書いてあることです。別の手紙では「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので、御子に関するものです」(ローマ1・2−3a)と述べています。福音は、聖書に明らかにされます。分かりきったことかもしれません。しかし、それなら、聖書は、福音をどのように証ししてい るかです。そのことを教えられる必要があるのです。
 四つのことを、挙げています。第一は、「キリストが、罪のために死んだこと」です。「罪のために」ということが大事なのです。キリストの死は、罪を犯した私たちに対する神の怒りを身代わりとなって受けた死でありました。罪は、神の御子が死ななければ、償うことのできないものです。御子の十字架の死がなければ、私たちの罪は赦されないままであり、神との関係を回復することができな いのです。
 第二は、「キリストが、葬られたこと」です。葬られたことが、どうしてそんなに大切かと思われるかもしれません。しかし、キリストは本当に死なれたのです。つまり、償うことのできない罪があるために滅んで行くしかない、その私たちの死を、キリストが代わって死んでくださったのです。それは、神から見捨てられた死でした。十字架の上でキリストは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マルコ15・34)と大声で叫ばれて死なれました。神から見捨てられた死を、キリストが死んでくださったのです。そのお陰で、私たちの死は、神から見捨てられる死でなくなったのです。
 第三は、その「キリストが、三日目に復活したこと」です。このことで信じるべきことは、キリストの復活を信じる私たちもまた神によって復活させられることです。神の御前で罪人でしかない私たちが、その罪を赦され、神の御前で生きることができるように、私たちも復活させられ、永遠の命を与えられるのです。
 これらのためにこそ、キリストは、罪のために死なれ、葬られ、復活させられたのであって、この救いを信じることが福音を信じることであります。
 第四は、復活の証人たちがいることです。復活されたキリストは、数多くの弟子たちに御自身をお現しになられました。その彼らが、復活の証人となりました。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。」パウロのみならず、代々の教会がこの福音を受け継いで来たのです。この福音によって私たちは救われるのです。


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