「どん底の救い」 望月 修

 するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(ルカ23・43)
 人々は、主イエスを「二人の犯罪人」と「一緒に」十字架につけました。神の御子が、犯罪人と一緒に死刑にされたのです(32)。
 ところが、主イエスは、「『その人は犯罪人の一人に数えられた』と書かれていることは、わたしの身に必ず実現する。わたしにかかわることは実現するからである」と旧約聖書の「イザヤ書」を引用なさって、御自分が犯罪人と見なされるようになる、と予め仰っておられました(22・37)。それは、主イエスは、私たち罪人の代わりに、神による刑罰を受けることを覚悟なさっておらた、 ということです。
 私たちにとって、このことは、実に驚くべきことです。それと共に、どんなに申し訳ないことか。しかし、また、どんなに幸いなことか、と思います。私たちの失敗、過ち、そして私たちが落伍者であっても、そのような場面に、神のお遣わしくださった救い主がおられるからです。
 この時、一緒につけられた犯罪人の一人は、主イエスを「ののしり」ました。自分が罪を犯したのも、こういう刑罰を受けるのも、運が悪かったぐらいにしか思わないで、神の御前に罪人であることを認めたくなかったのでしょう。御子における神の御業を、ひねくれて見ているのです。
 もう一人の犯罪人はどうでしょう。彼は、神の御子の十字架による救いをはじめて受け入れた、その意味で最初の信仰者でありました。彼は、一方の犯罪人をたしなめます。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ」(41a)。このような自己理解には、私たちが人生で遭遇するどのことも、それが自分の犯したものであれ、他人の犯したものであれ、神に背く罪の実として刈り取らねばならないという理解があります。罪とい うものが、どんなに恐ろしいものであり、誰彼なく蝕むものであるかを知った者の言葉ではないでしょうか。
 その彼が、「この方は何も悪いことをしていない」(41b)と言い表しました。主イエスは、どん底の私たちのところまで、降って来られ、私たちの傍らにいてくださる。しかし、主イエスと私たちとの間に決定的な違いがある。それは、主イエスは、人となられた神の子なのだ、という告白です。
 そこには、罪のない神の御子こそ、私たちのすべての罪を負うことができ、私たちに代わって神の裁きを受けることができ、私たちを罪から救うことができる救い主である、という信仰があります。
 彼は、その信仰に基づいて、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42)と叫びます。この私をあなたの支配下においてください。この私の罪のために死んでくださる、その恵みによって、この私を生かしてください、と魂を注ぎ出すようなこの叫びは、全存在を主イエスに賭けた祈りでもありました。
 「するとイエスは、『はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる』と言われた」(43)。  みずから犯した罪の故に、今まさに惨めな死を迎えようとしている、悔やんでも悔やみ切れない、この者に向かって、主イエスは、「あなたは」と語りかけてくださるのです。そして、「今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださったのです。社会からも、人からも見捨てられた、この者にです。「楽園」にいるとは、神との関係が回復され保たれていることであって、それ故に、罪に苦しむことなく、どんなことがあっても絶望する必要のない、むしろ神を喜び、讃えてよい、そういう立場が与えられることです。
 この主イエスが神によって復活させられたことは、この時の主イエスの約束がこの犯罪人だけでなく、誰にとっても今や事実となっていることを証ししています。


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