「死者の復活」 望月 修

 キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。(コリント15・17)
 キリストの復活を信じるとは、キリストが死者の中から復活させられた事実に基づいて、この私たちも復活させられることを信じることです。この福音を信じる者は、神によって、キリストと同じように復活させられるのです。  ところが、それに対して、キリストの復活は信じるけれども自分たちの復活はないと考えたのが、コリントの教会の一部の信徒たちでした。「キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか」(12)。復活を信じると言っても、いろいろな信じ方があったようです。
 こんにちも、事情はそんなに変わらないかもしれません。わけても、復活を精神的な意味に解して、例えば、罪人が回心することや、心を入れ替えること、また、その結果、今までの生き方を捨て新しい生き方をすることだと捉えている人は思いの外います。このような理解の背後にあるのは、我が国でも素朴に信じられている、肉体は滅んでも霊魂は滅びない、という考えです。信仰者の中にも、愛は永遠であることは信じても、体の復活を信じようとしない人たちがいるものです。
 しかし、それは本当はおかしいのです。教会に「告げ知らされた福音」(コリント15・1)を正しく信じることです。信仰はいろいろあっていい、というわけにはいかないのです。
 それなら、復活をどのように信じるかです。ここに登場するコリントの教会の一部の信徒たちは、キリストの復活を信じないというのではありません。キリストが復活したことによって自分もまた復活させられることが信じられないのです。
 聖書の別の所には、「ヒメナイ」と「フィレト」が、「彼らは真理の道を踏み外し、復活はもう起こったと言って、ある人々の信仰を覆しています」と指摘され、「その言葉は悪いはれ物のように広がります」(テモテ2・17-18)と紹介されています。
 体の復活を信じていなくても、信仰生活はできるようにも思われます。また、体の復活を信じるまでに至らなくても、伝道はできるとも考えられます。しかし、福音の信仰において大事なことは、私たちが復活させられるためにこそ、キリストが死者の中から復活させられたことです。  そこで、パウロは、復活を宣べ伝えない、また、復活の信仰のない信仰生活は「無駄」だと断言します(14)。この字は空っぽという意味です。体の復活を信じていなくても、それなりの意味や価値がある、と考えられるかもしれません。いや、できるだけ復活に触れず、復活以外にもキリスト教はこんなふうに貢献して来たし、このように役立つ、というように伝えることもできるでしょう。しかし、それは空っぽだ、というのです。
 そればかりではありません。「キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります」(17)と告げています。
 キリストの復活は、私たちが罪から解放されるためでありました。復活は、ただ体が復活することでなく、罪を赦された私たちが罪から解放されて生きるために、神が成しとげてくださる救いです。復活させられたのは、十字架について死なれたキリストであったことを見落としてはなりません。
 私たちの現在纏っている体は、罪に支配されています。罪から解放されるために、この体は朽ちることになります。しかし、この体が朽ちたあと、罪に支配されない新しい体、キリストの復活の体を私たちは纏うことになるのです。私たちに告げ知らされた福音です。


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