「輝かしい恵み」 望月 修

 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霍的な祝福で満たしてくださいました。(エフェソ1・3)
 「エフェソの信徒への手紙」には、教会がキリストに対する信仰から当然生まれてくるものとして、また、キリスト教の奥義として存在することがたいへん力強く告白されている、と言われています。信仰生活の具体的な場所として教会が与えられています。その教会について、この手紙を通して正しく教えられたいと思います。
 冒頭に挨拶があることは、この手紙も変わりありません。ところが、それに続けて直ちに、「わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように」(3a)と書き始めていることに驚かされます。それは、まるで堰を切ったかのようです。
 「ほむべき」という字がいちばん最初にあります。神によって自分は救われているという確信がなければ、このようなことが口をついて出ることはないでしょう。
 「神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霍的な祝福で満たしてくださいました」(3b)とその理由を書いています。キリストによって、天のあらゆる霍的な祝福で満たされているのです。ペトロは、それを「天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産」と言い表しました(1ペトロ1・4)。地にあるものすべてをもってしても、これ以不のものはない、神のみが与えることのできる最大級の祝福です。これにまさる救いはないのです。
 私たちは、教会において、このような祝福を受けることを確信させられます。だから、礼拝をもって、神をほめたたえるのです。
 しかし、更に大切なことは、神が、この私たちを教会に召し集められたという事実です。「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4)と告げていることです。
 教会へは、その時々の自分の判断や気持ち、都合で来ていると考えがちです。しかし、「天地創造の前」から、神に選ばれていたのです。信じ難いかもしれません。しかし、私たちの判断や気持ちだけが、教会に来る理由であるならば、教会ほどあやふやで無責任な集会はないと思います。人でなく、神の思いによって集められているからこそ、見た目には、どんなにみすぼらしくても、これほど確かな集会はありません。
 「神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、お選びになった」と述べます。気まぐれで移ろいやすい私たちでなく、神の揺らぐことのない愛と堅い決意に基づく救いであります。だからこそ、私たちのような者であっても安心して救われるのです。これほど確かな救いはありません。
 そのような神が、「イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです」(5)。この部分の各節には、繰り返し「キリスト」とか「御子」が出て来ることに気づかされます。救いはキリストにおいてなされ、神の子とされることが、神に選ばれていることなのだ、ということを示そうとしているのです。
 私たちが「神の子」とされるのは、「この御子において、その血によって贖われ、罪を赦され」(7)るからです。それは、私たちが神の民とされることです。私たちは、教会を形造ることで、この事実を言い表します。
 「神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです」(6)。これらのことは、神のまったくの恵みによることでした。この手紙を書いている者には、この恵みに対する溢れる喜びがあります。それは、心の奥深くからほとばし出る喜びです。その喜びが、抑えても抑えきれないほどの感謝となって、神をたたえることとなったのであります。



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