「天の王座に着く私たち」 望月 修

 憐れみ豊かな神は、わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって、罪のために死んでいたわたしたちをキリストと共に生かし、ーあなたがたの救われたのは恵みによるのですーキリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせてくださいました。(エフェソ2・4−6)
 「エフェソの信徒への手紙」は、教会について語られている手紙です。しかし、それは、私たちに与えられているキリストによる救いから当然生じてくる教会について語っているのです。
 私たちがどのような救いを信じているか、そのことがはっきりしていなければ、教会を正しく理解できないでしょう。キリストに対する明確な信仰があるところで、教会は教会となるのです。
 そこで、「あなたがたは、以前は自分の過ちと罪のために死んでいた」(2・1)と告げる必要があったのです。今ある私たちの生活や人生の延長の上に救いを考えているのであれば、教会は正しく理解されないからです。
 私たちが「死んでいた」のは、「過ちと罪のため」であります。「過ち」には、道から外れるという意味があります。人間が歩くべき道を踏みはずして倒れてしまうことです。「罪」は、的をはずすという意味があります。人間が神と正しく向い合っていないことです。神に対するそのような在り方が、外見は生きていたように見えても、実は死んでいた、というこなのであります。
 しかし、私たちが罪を犯すのは、自分たちの過ちや罪からだけで説明し尽くせません。それ以上の力が罪に働きます。「この世を支配する者、かの空中に勢力を持つ者、すなわち、不従順な者たちの内に今も働く霊に従い」(2)と説明を加えていることです。
 この手紙が書かれた当時の人々は、この世には神に背く大きな力があって、それが人間を虜にして人間を動かしていると考えていました。こんにちの私たちにそのまま通用しない考えかもしれません。しかし、罪の力の強さを知る者は、それが人間を引きずり回すような大きな力であることを認めざるを得ません。
 したがって、「空中に勢力を持つ者」とか「不従順な者たちの内に今も働く霊」というのも、罪に働く力の無気味さを言い表しているのです。それらは、神に対して不従順な者たちの内に今も働いている霊的な力と言わねばならないのです。
 これらの霊的な力の虜となっていることでは、ユダヤ人と異邦人の区別はありません。「わたしたちも皆、こういう者たちの中にいて、以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していたのであり、ほかの人々と同じように、生まれながら神の怒りを受けるべき者でした」(3)というのです。一人の例外もなく、神に背く欲があり、理性や知性と言えども神に背いてしまうのです。だから、「生まれながら神の怒りを受けるべき者」なのです。
 しかし、それだからこそ、どの人にとっても、キリストの救いが必要なのです。人間の罪についてこのように語るのには、目的があったのです。
 冒頭の言葉は、神による救いを証ししています。神が「憐れみ豊かな神」であることは、それに価しない者を愛する神だからです。しかし、そのような神の愛は、どうしたら分かるでしょう。
 「わたしたちをこの上なく愛してくださり、その愛によって」です。この愛は、すでに起こった出来事としての愛です。キリストの十字架と復活に明らかにされた愛を指します。その愛に、限りなく完全に神の愛は現されたのです。
 しかも、このことは、どこまでも「恵み」によることです。この部分は特別であるような書き方をしています。それは、この恵みによってこそ、神は私たちを「キリストと共に生かし」、「キリスト・イエスによって共に復活させ、共に天の王座に着かせて」くださるからです。
 教会は、キリストと共に「天の王座」に連なるまでに救われた、新しい神の民なのであります。

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