「平和の福音」 望月 修

 実に、キリストはわたしたちの平和であります。(エフェソ2・14a)
 イスラエルの人々と異邦人は、神との関係をめぐって全く遠く隔たっていました。その両者に平和がもたらされたのであります。しかし、それは、両者がそのままで平和になるということではありません。どちらも、神との間に実現された平和を受け入れるのでなければなりません。
 パウロは、「わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(ローマ5・1)と力強く宣言しました。聖書が告げる平和は、神との間が平和であることです。キリストがそのような平和を実現してくださったのです。だから、「エフェソの信徒への手紙」も冒頭の聖句のように、キリストこそが「わたしたちの平和」であると告白することができたのです。キリスト御自身が平和そのものであることを信じて、この平和を誰もが受け入れることです。
 しかし、この平和を妨げるものがありす。引き続いて、「二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し」(14b)と書いてあることです。
 イスラエルの人々と異邦人とを一つにするためには、そこに「敵意という隔ての壁」があるのなら、それを取り壊さねばならなりません。当時、イスラエルの人々は、神との関係から、異邦人を軽蔑していました。軽蔑されていた異邦人にも彼らに対する敵意が生じたでありましょう。
 この「敵意という隔ての壁」というのは具体的には、何をめぐってあったのでしょう。いろいろな説明がありますが、「律法」のことであると思われます。イスラエルの人々は自分たちだけが律法を持っていると誇っていたからです。しかし、深刻なことは、彼らはその律法を行うことができずに苦しんでいたという事実です。彼らは、異邦人との間だけでなく、律法によって、神との間に壁を生じさせていたのです。
 「律法」は、それを誇るイスラエルの人々に異邦人とを隔てる壁となったのですが、それだけでなく実は律法それ自体がイスラエルの人々にとっても神に対する「敵意という隔ての壁」になっていたのです。その意味で、律法はすべての人間と神との間を隔てるものが「罪」であることを明らかにするものとなりました。
 律法それ自体は決して悪いものではありません。むしろ、神の良き御意志を表すものでさえあります。しかし、人間の罪がそれを行うことをできなくさせ、もとはと言えば人間と神との間を生かすはずの律法を、かえって人間を神に近づけることを妨げるものとしてしまったのです。
 それなら、この妨げを取り壊さなければなりません。しかし、どのようにして、それを廃棄することができたのでしょう。「御自分の肉において」であります。更に「十字架を通して」と「十字架によって」とあります(16)。これらの言葉から、何によったか、ということが明らかになります。
 神の御子が十字架についてくださったお陰で、私たちは神との間が平和となったのであります。キリトこそ全人類の平和の源であると言うことができます。

 「ガラテヤの信徒への手紙」は、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました。それは、律法の支配下にある者を贖い出して、わたしたちを神の子となさるためでした」(4・4ー5)と告げています。

 クリスマスを迎えました。神との平和、人と人との和解、そして世界の平和を造り出す源となられたキリストが、この日お生まれになられたのであります。

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