「あなたのために祈った」 藤井 清邦 神学生(東京神学大学大学院)

 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」するとシモンは、「主よ、ご一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」(ルカ22・31-34)
■どうして試みが
 「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」ルカ22章31節
 現代の私たちは、最後の晩餐の夜のペトロのような試練に直面することはないかもしれませんが、やはり私たちにも、皆それぞれに人には言えないような試み、痛みの中、麦がふるいの上でふるわれるような事が時として起こります。私たちは疑問を抱きます。
 聖書の神は、私たちを愛し、いつも共に居てくださる神である筈なのに、どうして私を、このような試みに、あわせられるのだろうか?なぜ苦しみを背負って生きていかなければならないのかと問う訳です。けれども御言葉にその答えは書いてありません。

■ヨブの試み
 ヨブもペトロとよく似た体験をします。サタンに試みられるのです。しかし神は、ヨブを「私のしもべヨブ」と呼ばれます。同じように、私たちも、洗礼によって確かに、天の父の「子」とされた存在であります。ところが、そういうヨブやペトロ、私たちが試みにあう。神様を信じて生きているのに、どうしてこうも試みがあるのか、神はどこに行ってしまわれたのかと思います。けれども、ヨブはその試みの只中であっても「神のしもべ」であることに変わりない。又ペトロも、キリストの弟子であることに変わりなく、私たちも、それでも神の子であることに変わりないのです。
 試みの中にあってもただ一つ確かなことは、神が試みをお許しになられたのではありますが、その愛する者を、決してその手から離されたのでも、見捨てられたのでもないということです。

■救われるべきは自分だった
 主イエスはペトロに、あなたがたは試みられるが、「あなたの信仰がなくならないように祈った」と、仰います。ところがペトロは「主よ。御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言います。何とも勇ましい言葉です。しかしペトロは、自分が主イエスを助け、救おうと思い、自分の方こそキリストに助けられ、救われなければならないことを忘れていたのです。そこが大きな間違いだったわけです。このペトロの勇ましい告白は、ものの見事に崩れ落ち、僅か数時間後に三度主イエスを否みます。
 キリストを信じ、従うというのは、自分の忠誠の問題ではありません。ペトロの人生、キリスト者、更には主に召しだされた者の歩みというのは、自分の力ではなく、主イエスのとりなしによってこそ立ち続けることが出来るものなのです。

■どん底の恵み
 ペトロは、まさか自分がここまで落ちるとは思っていなかった。言ってみるならば、人生のどん底を体験したわけです。キリストを裏切り、ヨブの場合とは違う人生のどん底を体験したのです。しかし、そのどん底でペトロは気づいたのです。もはや自分は、神の前で、愛されるに任せ、赦されるに任せ、救われるに任せるほか、何も出来ないことを知るわけです。それが宣教者ペトロ、神に召し出されたペトロの新しい土台となったのです。
 イエスのために死ぬことさえいとわないと言ったペトロでしたが、実は主イエスの方こそ、ペトロのために死んで下さった。信頼し、身を任せるべきは、ほかならないこの私自身なのです。
 クリスチャンとは、何の試みも痛みもないそういう安穏な人生をいく人々のことではありません。たとえ、そういう試みや問題の中にあっても、今日のペトロのように、主イエスの祈りに支えられ、たとえ倒れても、失敗しても、再び立ち上がっていく。失敗したとしても、話しはそれで終わらないのです。キリストのとりなしの祈りによってそこから立ち上がり、「立ち直ったなら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と、主がそういうペトロに、私たちに新しい務めを委ねてくださるのです。
 「あなたのために祈った。」わたしたちの歩みは、このキリストの祈りに支えられ、再び立ち上がる希望を頂いた歩みなのです。

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