「愛に根ざす教会」 望月 修
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聖書の中にある手紙は、教会に宛てられたものですから、祈りが認められるのも当然かもしれません。「エフェソの信徒への手紙」にも、神を讃える頌栄とともに祈りがそのまま記されている部分があります(3・14−20)。 そこでは、「こういうわけで、わたしは御父の前にひざまずいて祈ります」と述べて祈り始めています。手紙を書く手を置いて祈ったのでしょう。イスラエルの人々は立って祈るのが普通でしたから、特別な思いがあったにちがいありません。 主イエスも、その御生涯の頂点を迎えられた時、ゲツセマネの園で「ひざまずいて」(ルカ22・41)祈られました。心を尽くして祈ることが、自然にそういう姿勢になったのであります。 どちらも、祈りの相手は「御父」である神でありました。神を「御父」と呼ぶことに慣れた私たちにはめずらしいことでないかもしれません。しかし、昔、イスラエルの人々は、神の名をみだりに唱えることをしないために、とうとう神の名の読み方が分からなくなった、と言われています。大事なことは、心の底から、神を「御父」と呼びまつることができるかです。 この「御父から、天と地にあるすべての家族がその名を与えられています」と、信仰の説明をしているようにも思われますが、信仰を告白しているのです。それは、すべての者たちは、この神の支配のもとにあるのだ、ということです。教会の祈りは、このような信仰に立っています。 ここでの祈りの内容は、三つに分けることができます。「霊による」こと、「信仰による」こと、「愛による」ことです。 「霊による」ことには、「その豊かな栄光に従い」とありますように、父なる神の豊かな栄光が背景にあります。神は、神としての力と栄光において、殊にその恵みにおいて豊かであるのです。そのことは私たちに対する尽きない憐れみと限りない忍耐として表れ、この私たちを諦めることなく救いへと導き、祝福にあずからせようと働きます。 しかも、その力は、信仰によってキリストに結びつく私たちの全存在におよび、私たちの「内なる人を強めて」くださるのです。 ですから、キリストに対する信仰が求められます。神の力は、信仰に働き、ついには私たちの「心の内にキリストを住まわせ」るまでに至るのです。信仰によってキリストに結びついている私たちの内に、キリストが住み着いてくださるまでに、キリストによって生きることができるように、と祈らざるを得ないのです。 そうなると、どうなるでしょう。「愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者」されるのです。「根ざし」というのは、植物を例にとった言い方です。また、「立つ」というのは、建物になぞらえた言い方です。祈らなくても、愛を慕わしく想うことは、そんなに難しいことではありません。しかし、愛が根のように自分を生かしてくれるものとなり、愛を土台として自分が支えられる、という生活を実現させることは難しいのです。 私たちの心には、根深い自己愛や偏った愛が堅い岩のように居座っています。そのような愛に代わって、キリストの愛が根付き、私たちの生活の土台となった時、私たちは心から安らかになります。 愛は、人から、愛のないこを指摘されたり、非難されたり、あるいは愛するように命令されて、生じるものではありません。キリストに対する信仰と信頼から生まれるのであって、祈りを欠いて与えられるものではありません。 教会は、このような霊の働きとキリストに対する信仰と愛を絶えず祈り求めます。それは、愛を喜び、愛に生きることを知った幸いな者たちだからです。 |
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