「真実な成長」 望月 修

 こうして、聖なる者たちは奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げてゆき、ついには、わたしたちは皆、神の子に対する信仰と知識において一つのものとなり、成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長するのです。(エフェソ4・12−13)
 神の右の座にお着きになられ、神に代わって私たちを支配しておられるキリストは、聖霊において、私たちをその支配の内に正しく保とうとしておられます。
 そこで、教会は最初の頃から制度を整えて来ました。それは、教会に頭として与えられているキリストが正しく崇められ、その支配をその体である教会の隅々まで及ぶようにするためでした。
 聖霊は、無秩序にではなく、むしろ制度を通して働きます。つまり、神は、御自分の御業のために私たち人間をお用いになられるのです。
 冒頭の聖句から、「聖なる者たち」つまり洗礼を受けて教会に連なる信仰者たちを「奉仕の業に適した者」としようとしていたことが窺えます。
 その務めを担ったのは、神の言葉を取り次ぐ教職者たちでした。この手紙では、教職者として「使徒」、「預言者」、「福音宣教者」、「牧者」、「教師」を直前に挙げており(11)、教会が制度を持っていたことを証ししています。
 重要なことは、キリストによる救いの御業が福音として正しく宣べ伝えられるためでした。そのような働きが用いられて、「キリストの体」が造り上げられるのです。
 ですから、信仰者が担うことになる「奉仕の業」と言っても、教会の場合は、神の言葉として福音が宣べ伝えられるためにあるのです。神の言葉に養われる教会は、誰もが魂のまことの糧である神の言葉をあまねく宣べ伝えるために仕えるのです。
 この手紙を続けて読んできた私たちは、これらの働きが、キリストこそ私たちの主であると告白する礼拝のもとで、整えられるものであることが分かります。神を礼拝することにおいて、教職者たちと他の信仰者たちの区別があるわけではありません。
 さて、このような道筋をもって整えられて行く信仰生活の目指すところは何でしょう。それは、教会に連なるすべての者が、「神の子に対する信仰と知識において一つのものとなる」ことです。
 神の子に対する「信仰」ということから言えば、信仰告白において一つとなることが考えられます。信仰は個人の内面の事柄であり、キリストをどのように信じるかは各自の自由ではないか、というようなことが教会の中でもまことしやかに語られることがあります。しかし、大事なことは、キリストがどのような信仰を私たちにお求めになっておられるかです。それを聖書に基づいて明らかにし受け継いで来たものが教会の信仰告白です。
 神の子に対する「知識」においても、キリストについてのいろいろな知識より、信仰をもってキリストを受け入れることが求められます。キリストによって救われ、キリストとの交わりを深め、そのようにしてキリストを深く知ることです。
 このようにして、私たちは「成熟した人間になる」というのです。この場合の「成熟」も、キリストを離れてはあり得ません。しかも、ここでは、もはや一人ひとりでなく、教会が全体として成長するのです。ある人は、一つの信仰によってキリストに結びつく者たちがキリストと一つ体になるのだ、と説明しています。
 そうだとすると、「キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」ということも分かるのです。それは、キリストが御自身の内に持っておられる豊かさであり、私たちはキリストの体である教会としてその栄光にあずかるのです。
 教会はこの世が与える豊かさや栄光とは別のものを目指しています。そればかりか、教会は救い主であるキリストとどんなに深く結びついていることでしょう。神から招かれた(4・1)私たちの栄光と責任とを思わざるを得ません。

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