「光の子として歩む」 望月 修

 あなたがたは、以前には暗闇でしたが、今は主に結ばれて、光となっています。光の子として歩みなさい。 (エフェソ5・8)
 信仰者は、キリストに救われて、新しくされます。その信仰は「キリストの体」といわれる教会において育まれます。だから、教会では、福音が正しく宣べ伝えられることが求められます。また、お互いに、福音を大切にしなければなりません。
 冒頭に掲げた言葉が告げられる直前で、「真実を語りなさい」(4・25)、「聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい」(29)と命じているのも、そのことと関係しています。
 福音が見失われほどに、福音以外の言葉、つまり、「むなしい言葉に惑わされてはなりません」(5・6)と命じるのも、そのためです。
 それにしても、教会の中で、どうして、福音以外の言葉が交わされたり、そのような言葉によって惑わされたりすることが起こるのでしょう。それは、福音が十字架の言葉であるために、力のない愚かなものとみなされがちであることによります。また、キリストの支配を見失ってしまうためでもあります。これらのことが、私たちの語る言葉をめぐって、問われているのです。
 私たちは自分でも驚くほどに自分に拘ります。自分を正当化するためには罪の言い訳さえします。もっともらしい理屈を振りかざしもします。そのようにして、いつのまにか、キリストでなく、自分を主としてしまうのです。そのことが、お互いに語る言葉に表れるのです。  福音の言葉を正しく信じ、キリストを主とする生活が求められます。そういう生活が「光」に照らされた生活であるなら、そうでない生活は「暗闇」に覆われているのです。
 この対比は、極端でしょうか。しかし、福音に生きる信仰者とそうでない者とは、「光の子」と闇の子ほどの違いが生じるのです。
 「以前には暗闇でした」と言われるのは、おそらく異邦人のことであったでしょう。それにしても、「光の子」と暗闇とに分けるのは痛烈です。これほどに対照的な、厳しい区別はないでしょう。
 しかし、「光」と「光の子」とが、注意深く区別されています。「光となっている」とは言いますが、信仰者がそのままで「光」であるのでなく、「主に結ばれて」光となるのです。つまり、主が、この私たちを光としてくださるのです。
 天地創造の時に、神が「光あれ」と言われて分けられたのが、光と闇でありました(創世記1・1−5)。主イエスも、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と仰せになりました(ヨハネ8・12)。そのように、光は、照り輝くだけでなく、命そのものでさえあります。
 光は、重要なものであるにちがいありません。すべてのおおもとでさえあると言えます。信仰者は、そのような光に照らされているのです。そして、主によって「光の子」とされるのです。キリストによって救われるとは、そういうことでもあるのです。
 それなら、「光の子」としての役割は何でしょう。それは、他の者を照らすことです。「あなたがたは世の光である」(マタイ5・14)と仰せになられた主の言葉を思い起こすことができます。暗闇の中で輝く光は、明るさ、望み、喜び、そして命があることを人々に指し示すことになります。
 ある人は、「主が死者の中から復活させられたことに、主が光であることがもっともよく明らかにされる」と言いました。復活の使信こそ人を本当に生かす福音の言葉なのです。教会は、復活の信仰に生きることで、死の陰と闇に覆われた世で、「光の子」として生きることになるのです。

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