「主に対する畏れをもって仕える」 望月 修

 キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい。(エフェソ5・21)
 「エフェソの信徒への手紙」は、神による壮大な救いの御わざがキリストにおいて成し遂げられていることを証ししています。その支配は、キリストの体である教会を通して、実現されます。そこに私たち人間の神を礼拝する生活が形づくられるのですが、その生活は具体的な関係にまで及びます。
 5章21節以下に取り上げられている、夫と妻、親と子、主人と奴隷の関係は、その代表的なものでありましょう。キリストの教会に召された者たちは、信仰者として、どのような生活をしたらよいかを記しているのです。
 もっとも、ここには、三つの関係が取り上げられているだけです。人間同士のいろいろな関係を考えますと、これだけでは、充分でないかもしれません。しかし、よく考えてみますと、ここに上げられた三つは、人間関係の基本を代表しているのではないかと思われます。  それなら、いちいちを取り上げるよりも、ここに代表的な人間関係の基本を取り上げて、それらに信仰をどう生かしたらよいかを語ることの方が分かりやすいかもしれません。
 しかし、そうであっても、実は、どの関係にも、共通して言えることがあるのです。それが、この最初の部分の、「キリストに対する畏れをもって、互いに仕え合いなさい」ということであります。
 主イエス・キリストは、御自分は、「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10・45)来た、と仰せになりました。その生涯が、神の御心に従い、私たちの救いのために仕えるものでありました。それは、十字架の死にまで至りました。仕えるということが、どんなにたいへんなことであるかが分かります。主の御言葉によれば、信仰生活は、仕えることになるでありましょう。
 主に救われ、主によって教会に招かれた私たちです。そこでの生活は、互いに仕え合うものとなるべきでありましょう。それぞれに、いろいろな言い分があるかもしれません。しかし、主に招かれた者としての生活は、主に救われた者として、互いに仕え合うものとなることを忘れてはなりません。
 しかも、そのように仕えることは、相手を正しく愛することになるにちがいありません。仕えると言っても、主の恵みに信仰をもって生きることができるようにすることです。お節介や自分の満足のために仕えるのではありません。
 そのためには、互いに赦し合うことも必要でありましょう。主に罪を赦された者同士として、責めるべきことがあっても、赦し合うのです。
 そこで、いちばん肝心なことは、この自分こそが赦されなければならない人間であることです。教会に召されたということは、それぞれが、ただ主の尊い犠牲の死によってのみ、その罪を贖っていただいた者である、ということであります。主の恵みなしには、一時も生きることができないのです。
 このような「主に対する畏れ」こそ、実に私たちが互いに仕え合う生活を形づくるものであります。この畏れは、恐さではありません。主に対する、申し訳なさ、かたじけなさである、と言ったらよいでしょう。主に対する心からの感謝であります。
 教会の頭はキリストであります。私たちの主であり、師であります。その主に罪を赦され救われた者として、互いに仕え合うのです。
 主は、いよいよ十字架におつきになるという前の晩に、弟子たちと共に食事をなさった際に、足を洗うという召使いの仕事を率先してなさいました。その時に仰せになられた言葉を思い起こすことができます。「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13・14)。

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