「神の武具を身に着けさい」 望月 修

 最後に言う。主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい。悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けさい。わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです。(エフェソ6・10−12)
 「エフェソの信徒への手紙」は、最後に、信仰は戦いである、と言います。このことは、多くの人にとって、意外なことではないでしょうか。
 しかし、私たちの生活の場は、キリストを主と認めようとしない世界です。そのような情報や主張に溢れているところで、キリストこそが世界の本当の主であるとして、信仰による生活をするのです。キリストに反する力と戦うことなしに、信仰による生活を正しく保つことはできないでしょう。
 そこで、手紙を終えるにあたって、幾つかのことを命じます。その第一は、「主に依り頼み、その偉大な力によって強くなりなさい」(10)です。私たちにはこの戦いを戦い抜く力がありません。主に結びついてこそ私たちは強くなるのです。それを説明するように「その偉大な力によって」となっています。主から離れたら、この戦いを戦えません。そればかりか、この戦いを戦い続けるのは、実は、主御自身なのであります。主が、この私たちを通して、戦ってくださるのです。私たちは、主の道具、器になる時に、この戦いを戦い抜くことができるのです。
 続いて、「悪魔の策略に対抗して立つことができるように、神の武具を身に着けなさい」(11)と命じます。「身に着けなさい」と言っていますが、もとの字は、ここでも「強くなりなさい」であります。それほどに、あなたがたは「強くなりなさい」と強調しているのです。
 何故なら、戦いの相手は、結局、悪魔だからです。「わたしたちの戦いは、血肉を相手にするものではなく、支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にするものなのです」(12)とは、そのことを言うのです。
 信仰者が悪魔と戦うというのは、直ちに受け入れ難いかもしれません。罪と戦う、という方が分かりやすいかもしれません。しかし、それなら、罪をどれだけ深く知っているのでしょうか。それが、どんなに根深いものであり、捕らえようもなく、したがって、抑えることもできないでいます。一体、罪はどこから来たか、と誰もが考えざるを得ません。
 ここには、「悪魔の策略」とあります。罪は、手を変え品を変え巧みに迫って来ます。思いもかけないところで、私たちは罪の罠に陥ります。まさに、策略を用いているのです。
 それらに「対抗して立つ」ためには、自分の立場を明確にすることです。そして、神の与えてくださる「神の武具」を身に着けることです。
 私たちは、神の側について、神の与えてくださる武具を身につけるのでなければ、自分を守ることができないのです。その戦いの様相は、私たちの想像を超えたものでありましょう。まさに、「支配と権威、暗闇の世界の支配者、天にいる悪の諸霊を相手にする」ものなのです。
 「支配」と「権威」とは、この当時の霊的な力に対する呼び名です。世界を支配する暗闇や悪の力には、このような霊的な力があるのです。
 信仰者の戦いは、個人の心の中の戦いではありません。地上の戦争でもありません。全宇宙にわたる神と悪の諸霊との戦いなのです。一人びとりの信仰者の生活は、この戦いに参与しています。生半可な構えでは太刀打ちできません。
 この戦いにおいて、神の武具を身につけることは、実は、神御自身を私たちの信仰の戦いに引き込むことであります。戦う力のない私たちに代わって、私たちの味方である神に戦っていただくのです。
 神は、すでに、キリストにおいて、この戦いに勝利しておられます。神の武具を身につけることで、私たちは本当の意味で安心して戦うことができ、その勝利にあずかることができるのです。

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