「神の言葉を取りなさい」 望月 修

 また、救いを兜としてかぶり、霊の剣、すなわち神の言葉を取りなさい。(エフェソ6・17)
 「エフェソの信徒への手紙」は、6章10節以下に信仰の戦いについて記しています。特に14−17節には、信仰者が取るべき「武具」が挙げられています。それぞれが重要な働きをするのですが、17節に至って「救い」と「神の言葉」が出て来ます。この二つは、神から特に授かるべきものとして挙げられています。「救い」と「神の言葉」こそ、信仰者が戦いを続けて行くために、何を差し置いても、神から受け取らねばならないものなのです。
 まず、「救い」を「兜として」かぶることです。身を守るための武具は様々ありますが、いちばん大事なのは、私たち自身が救われることです。戦いと言っても、私たちに戦う力はありません。神が救ってくださるということだけが私たちの拠り所となり希望なのです。それは悲壮な覚悟のようにも思われますが、この世のどの力よりも確かであり、決して敗北しない力を持っています。信仰者は、どんなことがあっても、最後は神が間違いなくこの私を救ってくださることに拠り所を置き希望を賭けるのです。
 そのような戦いは、どういう状況でも、神の支配と恵みを讃えるものとなるでありましょう。「主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(ネヘミヤ8・10)。崩壊したエルサレムの再建に仕えたネヘミヤと祭司エズラは、民にこのように告げました。救いを兜とするとは、神を自分たちの神として礼拝することなのです。そのことが、私たちの力となるのであります。
 戦いの相手である「悪の諸霊」(6・12)は、まことに巧みに、そして強く信仰者を襲います。この手紙が書かれた時代には迫害もありました。しかし、信仰者の戦いは、自分たちの救いは神にあるとの信仰の告白を伴う讃美、つまり礼拝を確保する戦いでもあったのです。
 次に、「神の言葉」を「霊の剣」として取ることです。神の言葉も、救いと同様に、神から授けられるものです。それは、ただの言葉でなく、「命」に関わる言葉であります。
 主イエス御自身、荒野で誘惑に遭われた時に、「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」と仰せになられました(マタイ4・4)。神の言葉は、人が生きるためには、パンよりも大事なものなのです。
 ペトロは、「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます」と信仰を言い表しました(ヨハネ6・68)。パウロは、「わたしたちが宣べ伝えている信仰の言葉」(ローマ10・8)と言い、それが福音であることを示しました。それなら、説教の言葉であると言ってもよいでしょう。
 いずれも、罪の支配に苦しみ、真の希望を持つことができないでいる、すべての人々に、罪から解放されることを告げ、真の命を与える言葉であることを証ししています。それ故に、神の言葉こそ、この世の力に対して、真の意味で、戦って行くことができるのです。
 「霊の剣」すなわち「神の言葉」というのですから、私たちはこのような言葉を聖霊と共に受けるのです。信仰の戦いを戦い抜いて行くためには小手先のことではどうにもなりません。聖霊こそ諸霊にまさる力を持っています。聖霊はキリストの霊でもあります。私たちは、こうにして、キリスト御自身をこの戦いにおける味方として受け入れる、と言ったらよいのです。
 いろいろな武具を示される中で、信仰の戦いの秘訣が明らかとなりました。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16・33)。

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