「荒れ野に響く神の言葉」 望月 修

 皇帝ティベリウスの治世の第十五年、ポンティオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟フィリポがイトラヤとトラコン地方の領主、リサニアがアビレネの領主、アンナスとカイアファとが大祭司であったとき、神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った。(ルカ3・1−2)
 「ルカによる福音書」は、3章から、キリストの公の生涯を描いています。それは、「神の言葉が荒れ野でザカリアの子ヨハネに降った」(3・2)ことによって始まりました。すなわち、旧約聖書の最後に証しされている預言者エリヤの再来として、洗礼者ヨハネの活動をもって端緒としました。その冒頭で、多くの歴史上の人物の名が挙げられています。この福音書を書いたルカは、キリストによる救いが歴史的な事実であることを証ししているのです。
 私たちの罪に染まった世界の歴史に、神の言葉が「降った」のです。神の言葉であれば、人の言葉と違うだけでなく、神が世界を造られた時のように新たに創造されるのです。神の言葉が降ることによって、様々な行き詰まりや破綻を越えて、新しく始めることができるのです。
 最初の創造の時には、「地は混沌であって、闇が深淵の面にあった」(創世記1・1)のです。この度は、「荒れ野」です。罪に覆われたこの世界、人間の社会を暗示しています。そこには、すさんだ人間関係、回復が難しいと思われる困難な事情、やり直しがもはや利かないと思われる人生、多くの挫折と失敗があります。水を得ない土地がそうであるように、私たちの生活も神の言葉を受けとめない限り、この生活は荒れ野であり続けます。
 しかし、この事実は、楽園でもオアシスでもなく、「荒れ野」こそ、神の言葉を神の言葉として聞く場であるとも言えます。少なくとも、神の言葉に対して飢えていること、これをこそ私たちの魂の糧として受けようとする姿勢が求められましょう。
 旧約聖書の「イザヤ書」の言葉が告げられます。「荒れ野で叫ぶ者の声がする。/『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ・・・」(4)。今いる、そのところでよいから、神に立ち帰る道を見いだしなさい。それを見いだして、神との関係を回復しなさい、ということです。その時、「・・・人は皆、神の救いを仰ぎ見る』」(6)ことができるのです。
 今まで別の方向を向いていた者が、神による救いを仰ぎ見るようになるのです。それが、悔い改めであり、今、私たちに求められているのです。
 しかし、そのためには、どうしたらよいでしょう。洗礼者ヨハネが指摘するように(7−9)、私たちは悔い改めにふさわしい実を結べないでいます。それは、私たちがまったくの罪人であるからです。  私たちが神に背いているために、この世界は、荒れ野になっています。この世界を回復させるのには、いろいろなことを考え対策も講じなければならない、と思うかもしれません。しかし、大事なことは、まず、私たちの誰もが、神に背いている罪人であることを認めることです。そして、一人ひとりが、その罪を神に赦していただくことであります。
 これらのことにおいて、主導権は、言葉をお語りになられる神の側にあります。神こそが、荒れ野で息も絶え絶えになっている私たちを顧みてくださり、私たちを導き支えてくださいます。そして、私たちにとって、もっともよいことをしてくださいます。
 だから、私たちは神の言葉を聞き逃すことができません。そして、これらの事実を受け止め、悔い改める時、神によって新しい事態がもたらされます。つまり、神に聞き従うところに、新しい神の民としての教会が存在し始めます。神の言葉が語られ聞かれる時、教会は創造され、また、教会が絶えずそのようにあり続ける時、教会は神の御前に日々新たにされて行きます。
 キリストが、神の言葉として、私たちの住む世界に、お出になられた理由が、ここにあります。

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