「神の国の到来」 望月 修

 そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した』と話し始められた。(ルカ4・21)
 「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1・15)と主が仰せになられて、伝道を始められたことは、よく知られています。「ルカによる福音書」も、同じことを証ししています。  安息日にお入りになられた会堂で、係りの者から手渡された旧約聖書の「イザヤ書」(61・1−2)を引用なさって、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と仰せになられて、神の国が来たことを宣言なさったのです。
 聖書に告げられていることは、実はどれも、主イエスにおいて「神の国は来た」ということを証ししています。もし、聖書を読んで、そのことが聞こえて来なければ、あるいは、そのように受け取るのでなければ、聖書が伝えようとしていることを聞き逃しているのです。そして、もし、そうであるなら、私たちは、主イエスのなさったことを正しく理解することができなくなります。
 地上の生活で、様々のことに出会い、いろいろなことを経験をしている私たちです。しかし、信仰による生活は、主イエスにおいて神の国が来たという事実を、信仰をもって受け入れ、その恵みに生きることです。
 「ルカによる福音書」は、主イエスがその第一報を、ガリラヤの「ナザレ」でなさったことを明らかにしています。ナザレは、主が「お育ちになった」土地です。このことは、当時の人々の常識からすると、受け入れ難いことでした。救い主は、「ユダヤ」に現れる、と信じられていたからです。
 当時の人々に限らず、主における神の国の到来は、受け入れにくいことです。特に、プライドが高い私たちは、弱くて何もできないくせに、自分の考えは正しい、間違っていない、と思い込むところがあります。また、それぞれの者が自分の気持ちや考えに即して神の国を解釈しているとすれば、素直にその支配を受け入れることは難しいと思います。神の国は、私たちでなく神のお考えやご計画に基づいて実現されるのであります。
 「マタイによる福音書」は、主が活動を始められた場所は、同じガリラヤでも、それが「カファルナウム」であったと記しています。そこで引用された「イザヤ書」(8・23−9・1)によれば、神の国が来るのは、「暗闇」の地であり、「死の陰の地」であって、およそ救いから離れていると思われる土地でありました。人間の罪が幅を利かし、主イエスの遭われた悪魔による試みということから言えば、悪魔が支配しているところであります。しかし、神の国は、そのようなところに来て、神の支配を完成なさるのだというのです。
 つまり、神の国は、思いがけない時や所というだけでなく、およそ救いが期待できそうもない、あえて言えば、救いの望みが絶たれているようなところにおいて、ということではないでしょうか。私たちが、その到来を、本当に聞くことができるのは、実はそういうところではないか、ということです。
 私たち人間の希望がすべて失せたかに思えるところで、私たちの破れ、挫折、破綻が起こってしまっているところでこそ、私たちは、神の支配を、神の支配として、受け取ることができるのであります。
 しかし、それは、私たちが神の御前に自分の罪を認めた時のことであります。私たちが、へりくだり、罪を悔い、その魂がくずおれている時にです。つまり、私たちが心から神に捧げる礼拝において、神の国が来たことが告げられ、受け入れることができのであります。
 神の国は、私たちの目に見える仕方で、来たわけではありません。神の国とは、神による支配のことだと言われます。目には見えないけれども、その恵みによって、世界は保たれ、私たちは生かされているのであります。

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