「主よ、お言葉ですから」 望月 修

 シモンは、「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした。しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」と答えた。(ルカ5・5)
 力ある業が主イエスによってなされたことで、人々は、主イエスに、神の言葉を聞こうとして、集まって来ました。主イエスへの信仰は、ついには神の言葉を聞くことへと導かれます(1)。
 舟から上がって網を洗っていた漁師たちに目を留められた主は、シモンの持ち舟にお乗りになられ、人々に教え始められました。人々はその教えに耳を傾けます。
 信仰による生活の基本が、このようなところにあります。主イエスのお語りになることを聞く、あるいはそれを待つ、という姿勢です。
 神の言葉に聞き従う時、私たちは本当の人生を歩み始めることになります。そして、主は、そのような私たちを、御自分の御業のためにお用いになられます。
 「話し終わったとき、シモンに、『沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい』と言われた」(4)。それは、旧約聖書に約束されていたことに、シモンをお用いになるためでした(エレミヤ16・16)。ところが、シモンは、その経過を理解できず、「わたしたちは、夜通し苦労しましたが、何もとれませんでした」(5a)と答えます。私たちにも、夜通し苦労することがあっても、何も得るものがなかった、というようなことがあります。しかし、だからと言って、そのことが主の招きを辞退する正当な理由になるでしょうか。
 ある人は、「ここには人々の生活がある。しかも、神を見失っている人々の労苦がある」と説明しました。私たちの人生が、労苦の連続であることは、誰もが知っています。しかし、それが神を見失ったことによる、と考えるでしょうか。
 旧約聖書の「創世記」に、神の戒めに背いて罪を犯したアダムに告げられたことを思い起こします(3・17−19)。神に背いている故に、この地上に、生きる目的と意味を失い、「土に返るときまで」、ひたすら「顔に汗を流してパンを得る」ほかない私たちの姿があります。
 しかし、シモンは続けて言うことができました。「お言葉ですから」(5b)と。様々な労苦と悩みの中にあって、私たちもまた神の言葉を最後の頼みにして、主イエスの導きに従うのです。
 するとどうでしょう。おびただしい魚がかかるではありませんか。私たちの想像を遙かに超えて、私たちが主イエスに聞き従うところで、神の御業がなされたのであります。
 神のご意志と人間の判断にはしばしばズレがあります。私たちは目に見える現実だけを問題にしがちです。しかし、神のご覧になる見方はそれとは違っていることが多いのです。また、私たちの思い定めた「時」と、神のそれは違う場合があるものです。神の御業と人間の業との違いでもあります。
 私たちは、よく見えている、分かっている、と言い張っても、やはり、神に背いた罪人の見方でしかありません。シモンは、そのことに気づかされたのであります。
 だからこそ、彼は、次のような行動を取り、そして告白したのです。「イエスの足もとにひれ伏して、『主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです』」(8)と。
 すると、主はシモンに言われます。「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる」(10)。主イエスの語られる言葉に聞き従う中で、私たちは罪を自覚させられます。しかし、主イエスは、そこに立ち止まっておられません。その者の罪を赦し、御自分の御業ためにお用いになられます。
 神ならぬものを神として、偽りに満ち、虚しく、無益な生き方をしているこの世に、神による救いを福音として宣べ伝える教会の使命へと召し出されるのであります。

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