「罪を赦す権威」 望月 修

 『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。(ルカ5・23−24a)
 群衆に阻まれて、運び込む方法が見つかりませんでした。そこで、どうしたかと言えば、「屋根に上って瓦をはがし、人々の真ん中のイエスの前に、病人を床ごとつり降ろした」(19)のです。
 この無謀とも言える行動が、主イエス・キリストこそが、他ならない私たちの罪を赦してくださる救い主であること、すなわち、「地上で罪を赦す権威を持っている」(24)御方であることを、明らかにしてくれることとなったのです。
 そこには、「ファリサイ派の人々と律法の教師たち」(17)が居合わせていました。「この人々は、ガリラヤとユダヤのすべての村、そしてエルサレムから来た」(同)と書いてあります。それは、イスラエルの全地域から代表するような仕方で、集まって来ていたのです。主イエスが、力強い教えを人々に向かってなされ、それに伴う力ある業を行っていたことから、彼らは、言わば、専門の立場から、様子を見に来たのでありましょう。そして、多くの群衆がいました。  主は、そのような人々の前で、御自分が、「地上で罪を赦す権威を持っている」ことを明らかになさったのであります。
 当初、病人を運んで来た者たちが願ったのは、その病気をいやしていただくことであった、と思います。それに対して、主は、運んで来た者たちに「信仰」を認められて、病気の者に向かって「『人よ、あなたの罪は赦された』と言われた」のです(20)。
 この話は、キリストによる救いが、病気が治ることにもまして、罪の赦しにあることを、実に多くの証人たちの前で、明確に伝えています。その際、誰もが、見落としてならないのは、主イエスが神の御子であることです。
 主は、神の御子だからこそ、私たちの罪を私たちに代わって償うことができました。つまり私たちの罪を贖うことで罪を赦す権威を与えられたのです。それだけでなく、壊れてしまっている神と私たちとの関係を回復することができます。つまり神だけが与えることのできるまことの命とその命を生きるにふさわしい新しい体とを御自分において与えることがおできになるのです。そのことが、この話において、もっとも大切なことであります。
 もう一つのことは、本人の信仰でなく、周囲の者たちの信仰をお認めになられ、罪の赦しを宣言なさっておられることです。その関係については何も明らかにされていません。しかし、その一生懸命さに私たちも見習いたいと思います。周囲にいる者として、自分や自分の愛する者を、神に委ねことがどんなに大切かです。
 不信仰をしばしば口にする私たちです。謙遜で言っているつもりが、いつのまにか、主イエスに自分と自分の愛する者とを委ねることができなくなっているのです。
 それに対して、ここに登場する周囲の者たちは、もはやなりふりなど構っておりません。そのような者たちとは、実は、「教会」ではないでしょうか。「中風の者」は、病んだ世界とそこに住む人々と言えないでしょうか。
 ある人は、「この者たちが担いで来た『床』とは祈りではないだろか」と言いました。教会が、周囲の世界のために、執り成しの祈りを捧げる大切さを思わされます。
 病気であった者は、「すぐさま皆の前で立ち上がり、寝ていた台を取り上げ、神を賛美しながら家に帰って行った」(25)と最後に書いてあります。救われるとは、神を讃美するようになることです。それぞれの持ち場で神に栄光を帰する生活をすることであります。
 私たちと身近な者たちを含めまして、ここには、教会と世界に対して、神から共通に権威を与えられている主のお姿が描かれています。

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