「安息日の主」 望月 修

 そこで、イエスは言われた。「あなたたちに尋ねたい。安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、滅ぼすことか。」(ルカ6・9)
 主イエスは、「安息日」をめぐって、ファリサイ派の人々や律法学者たちとの対決を避けることができませんでした。冒頭の言葉も、そのような論争の中で語られたのです。
 「ある安息日」のことでした。主イエスの一行が麦畑を通過した際に、弟子たちが麦の穂を摘み、手でもんで食べ始めました(6・1)。そのことを見咎めたファリサイ派の人々は、弟子たちの行為を安息日にしてはならない労働とみなしたのです。
 これに対して、主イエスは、旧約聖書「サムエル記上」21・1以下のダビデにまつわる話をもって、お答えになりました。律法を形式的に型にはめて守ろうとして、かえって憐れみを失っていないか、問われたのであります。
 「安息日」は、労働を停止する日という意味があります。この日、労働を中断して、神を礼拝し、神が与えてくださる平安にあずかるのです。十戒も、この日を守るように命じています(第四戒)。
 主イエスに救われた私たちは、主イエスが復活させられた日として、日曜日を安息日とするようになりました。主イエスによって、罪を赦され、神に造られた本来の人間らしさを取り戻す日です。
 その意味で、キリストは「安息日の主」であります。罪の故に悪の力に翻弄され、滅んで行く他ない私たちが、キリストによって罪を赦され、神が与えてくださる命に生きるのです。
 また、「ほかの安息日」のことでした。その時には、右手が不自由な人がその場に居合わせていました(6)。主イエスが、この者を癒した場合、安息日の規定を守らず、律法に違反する行動を取ったとみなそうとしたのです。
 当時、安息日には、治療してもよい病気とそうでない病気とが区別されていました。生命に別状のない病気や緊急を要しない病気を治療した場合、安息日を破る一種の労働とみなされたのです。
 つまり、ファリサイ派の人々や律法学者たちは、神の御心に従わない罪人として、主イエスに「訴える口実を見つけ」(7)ようとしていたのです。
 そういう状況の中で、主イエスは、どういう行動を取られたのでしょう。主イエスは、この右手の不自由な人を癒され、人々の真ん中に立たせたうえで、冒頭の言葉をもって尋ねられのです。
 主イエスが尋ねられたことは、善か悪か、命か滅びか、どちらが大切かであって、誰もが明確に答えることのできるものでした。
 この問いは、私たちへの問いでもあります。しかし、ここで大切なことは、主イエスをどのような救い主と信じるかであります。そのことに対する答えは、あいまいにすることができません。
 御自分が、安息日の主であることを明らかにされた主イエスは、『手を伸ばしなさい』と言われて、その人を癒されました(10)。主イエスは、いつでも、私たちに善を行ってくださる御方であり、私たちを滅ぼすためでなく、私たちの命を救う御方なのです。そのように、主イエスを信じ告白する礼拝の中で、私たちもまた、主イエスによって癒され、まことに救われるのであります。
 それに対して、主イエスをそのように受け入れることができなかった人々がいました。「彼らは怒り狂って、イエスを何とかしようと話し合った」(11)と書いてあります。ある人は、「神に背く罪を認めることができない人は、自分が何をしているか本当には判らない」と説明しました。主イエスを救い主と認めることができず、安息日を正しく守ることのない生活やその社会は狂い始めます。そのような混乱を招き寄せてしまうのではなく、この主を正しく告白する礼拝の生活を築い行くことです。そこに、本当の意味での私たちとこの世界の再生があります。

前のページへ