「神の祝福の内にある幸い」 望月 修

 貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。(ルカ6・20)
 クリスマスの日のお生まれになられた救い主イエス・キリストは、私たちに祝福をもたらす神です。「神の国はあなたがたのものである」と仰せになって、その幸いを宣言なさいます。
 これは、弟子たちに告げられているのですが、その弟子たちは「貧しい人々」と言われています。「マタイによる福音書」では、「心の貧しい人々」(5・3)となっており、神に依り頼む他ない者たち、という意味が込められています。しかし、「ルカによる福音書」では、文字通り、経済的な貧しさを意味している、と言われます。この後に、続く「飢えている」、「泣いている」も、経済的な貧しさによる、とされています。
 貧しくて、どうして幸いなのでしょう。貧しくても、心の持ちようで幸いになる、ということなのでしょうか。そうではなくて、これは、私たちが、心だけでなく体もまた神から離れていることと関係しています。つまり、私たちの在り方そのものが、神の祝福を受けなくさせているのです。
 「テモテへの手紙一」に、「この世で富んでいる人々に命じなさい。高慢にならず、不確かな富に望みを置くのではなく、わたしたちにすべてのものを豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように」(6・17)とあります。この世で富むことは、人を「高慢」にさせます。「神に望みを置く」ことをせず、ますます「不確かな富に望みを置く」ようにさせるのです。富には、そういう誘惑が付きまといます。それは、富が問題でなく、私たちに罪があるからです。
 富んでいても、感謝と喜びをもって、生きることができないでいるとしたら、「幸い」と言えません。そうであるくらいなら、むしろ、この世で、貧しくあっても、そのことが「神の国」を憧れるさせるなら、その方がよいのです。
 「神の国」は、目には見えません。しかし、信仰によって、キリストにおいて実現している永遠にわたる支配として受け入れることができます。それに対して、目で見、手で触れることのできる世界は、やがて滅んで行きます。そこでは、業績や働き、効率や競争がものを言います。しかし、神の国は、恵みによる支配であり、何の条件もありません。罪がのさばり、悪が蔓延り、死が支配しているこの世界に対して、死によって断ち切られない命がみなぎっており、祝福に満ちています。
 つまり、私たちは、この世に属し、この世と共に、死でもって終わり、罪のうちに滅んで行くのか、それとも、神の国に属する者として、永遠にわたって、神の恵み、命に生き、神の祝福のもとにあることをよしとするかです。
 主イエスは、このような極めて率直な言い方によって、御自分において、神の支配を信仰によって受け入れるか否かの決断を迫っておられる、と言ってよいでありましょう。
 祝福の宣言は、「人々に憎まれるとき、また、人の子のために追い出され、ののしられ、汚名を着せられるとき、あなたがたは幸いである」(23)へと続きます。そこで、「人の子のため」とわざわざ述べていることが大事なのです。この祝福は、どこまでも主イエスの弟子であること、つまり主イエスによる救いと関係しているのです。  私たちは、主イエスによる救いを信じて救われます。主イエスに信仰によって結びついて救われるのです。そのように、どこまでも主イエスに対する信仰に生きるのであれば、私たちは神の国の一員なのです。しかし、そうであれば、主イエスがそうであったように、私たちも人々から憎まれたり、追い出されたり、ののしられたりすることがあっても不思議ではありません。汚名を着せられるかもしれないのです。しかし、それほどまで、主イエスに結びついているからこそ「幸い」なのです。
 主イエスに救っていただけるということで、主イエスに従って行くのです。その時、私たちは主イエスの弟子であるにちがいありません。様々な困難、悲しみ、そして、貧しさの中にあっても、この自分を救うのは、富でも、成功でも、順調さでもなく、ただ主イエスの恵みによることを私たちは証しすることになります。
 主イエスがもたらす神の祝福の内にある幸いを思いつつ、この一年の歩みをなしてまいりましょう。

前のページへ