「神の憐れみに生きる」 望月 修

 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。(ルカ6・36)
 「マタイによる福音書」における山上の説教に対して、ルカ6・20−49は、平地の説教だと言われています。どちらの説教においても、主イエスは、その最初で、御自分に聞き従う者たちへ神の祝福、幸いを宣言なさいました。
 主に聞き従う者とは、主の弟子であるにちがいありません。そこで、ルカは、直ちに、主の弟子だということで信仰者を苦しめる者たちに、どのように接したらよいか、主が教えておられることを取り上げます。
 その始めは、「敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい」(27b)であります。この場合の敵は、ですから信仰者を迫害する者たちのことです。しかし、神の御前では、私たちがかつて神の敵であったことを忘れてはなりません。そのような私たちが、御子によって、和解させられ救われたのです(ローマ5・10参照)。そうであれば、敵を愛すると言っても、その相手にキリストの救いを伝え、その者が救われることを求めるのです。
 主イエスは、「ヨハネによる福音書」において、このように預言しておられました。「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」(15・18)。
 そうすると、愛するにしても、親切にするにしても、また、それが相手にキリストの救いを伝えることだとしても、具体的に何を考えたらよいでしょう。
 続いて、「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(28)と仰せになります。つまり、それらの者たちのために、「祈る」ことです。
 これは、多くの人にとって、意外なことであったかもしれません。しかし、考えてみれば、私たち信仰者に、そして教会ができる最善なことは祈りであります。それだけでなく、本当の意味で、私たちにできることは祈ることでなくて何でしょう。
 しかし、そのように祈ることは何を意味するのでしょうか。それは、自分たちの間(あいだ)にある問題を、神の御前に持ち出すことです。そこでこそ、本当の解決が与えられるからであります。
 私たちは、この世で、実に様々な関係を持っています。しかし、それらが順調であることは少ないのです。むしろ、必要以上の競争、妬みや憎しみ、争いによって、損なわれている場合がほとんどです。お互いに相手を正しく愛せないでいるのです。そのようにして生じている多くの敵対関係の中に、私たち自身も巻き込まれています。その中には、理不尽なこともあるでしょう。しかし、そうであっても、復讐するな、むしろ祈りなさい、と主イエスは命じておられるのです。
 そのように、祈るためには、忍耐が必要です。祈りはもちろん、忍耐は信仰生活に欠くことのできないものです。これらは、神の支配を信じているからこそできることです。
 信仰者は、最後の審きが、神によってなされることを知っています。その神の御心と御計画に委ねるのです。そのためには、自分の言い分を捨てることもあるにちがいありません。神と和解させられているとは言え、なお罪人であり、自分にはこのような愛がないと悟った者が、ただ神の憐れみにすがり、神の導きと助けとを求めて生きて行くのです。そのようなところに、主の弟子としての愛の生活が形づくられます。
 その拠り所となる言葉こそ、冒頭に掲げた言葉です。

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