「若者よ、あなたに言う。起きなさい」 望月 修

 主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、「若者よ、あなたに言う。起きなさい」と言われた。(ルカ7・13−14)
 この箇所に登場する「母親」の悲しみに、誰もが同情するにちがいありません。「一人息子」が死んだのです。しかも、この母親は「やもめ」でした。棺が担ぎ出される時には、「町の人」が大勢付き添っていました(12)。
 主もまた、この母親を、深く「憐れ」まれました(13)。「弟子たちや大勢の群衆」と一緒に「ナインという町」に行かれた時のことでした。その町の門で、主は、墓へと向かうこの葬列に出会われたのです。
 しかし、主の憐れみは、単なる同情ではありませんでした。このような場合、誰が、この時の主のように「もう泣かなくともよい」などと言えるでしょうか。そればかりか、主は、その葬列を押しとどめるかのように、「近づいて棺に手を触れられ」たのです。そして、棺の中にいる、息子に向かって、このように仰せになったのです。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」(14b)
 すると、どうでしょう!「死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」というのです(15)。
 この出来事を通して、主のもたらす救いーーそれは、どこまでも主の憐れみによるのですがーーは、私たちが死から解放され、永遠の命を生きるようにされることにある、と改めて気づかされます。
 死は、誰にも例外なく訪れます。私たちの生活は死によって限界づけられています。その意味で、私たちは死に支配されており、死という枠の中で生について問われている、と言えるでありましょう。
 しかし、聖書は、その死をめぐって、もっと深刻な問いを、私たちに突きつけています。
 それは、私たちは、「エデンの園」から追放された者として、この世界に生きていることです(創世記3・22−24)。私たちが神の命令に背いて、神のようになろうとして、「善悪の知識の木」(同2・9)から、その「実を取って食べた」(3・6)ことによります。つまり、神に背いた責任が問われているのです。
 その責任を負うまでは、私たちは神との関係を回復できません。それまでは、死の向こう側には、確かな解決もなければ、何の保証もありません。死の本当の恐ろしさは、神に対して責任を果たせずに死んだら、滅びるほかないことにあります。
 救いは、主イエスによる、このような罪とその結果としての死と滅びからの解放であります。「エデンの園」から遙か遠く離れたこの地に住む私たちのもとにやって来られ主は、この地において、私たちが決して避けて通れない現実、悲しみをもって迎えねばならない厳かな事実に、向き合ってくださったのです。
 一人の若者の死、一人息子を失ったやもめの悲しみ、その悲しみに連れ添う町の人々、そして、この地に住むすべての者たちが負っている罪の現実がそこにありました。主は、そのような私たちの葬列を引き止められ、担ぎ出された棺に触れてまでして、私たちの罪が招きよせた死と滅びを押しとどめられます。そして、主は、力強く宣言なさいます。「若者よ、あなたに言う。起きなさい」。私たちの罪を十字架におつきなられ贖われる主は、神によって死者の中から復活させられる救い主として、私たちの前に立ちはだかるのです。
 主は、私たちが罪の内に死に滅んで行くことをお許しになられません。身を挺して阻止し、私たちの死を永遠の命への入口へと切り替えてくださるのです。そして、もはや罪や死によっても断ち切られない命をお与えになるのです。
 「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです」(ローマ6・23)。

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