「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。」 望月 修

 婦人たちが恐れて地に顔を伏せると、二人は言った。「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ。」(ルカ24・5−6b)
 「週の初めの日の明け方早く」(1)でした。婦人たちが、十字架につけられ死んで葬られたキリストを墓に尋ねた時のことです。彼女たちが予想もしていなかったことが、墓で起こっていました。まず、墓を塞ぐ石がわきに転がしてありました。恐る恐る中に入ってみます。すると、あるはずの主イエスの遺体が見当たらないのです。彼女たちは慌てます。途方に暮れます。そこに、輝く衣を着た二人の天使が現れたのです。冒頭の言葉は、その時、告げられたことです。
 私たちもまた、愛する者を亡くして、しばしば墓を訪れます。最近では、『千の風になって』という歌が評判になって、巷でもその歌詞を耳にすることがありました。しかし、似て非なるものです。十字架の死を遂げられた主イエスの「体」が復活させられ、その事実に基づいて、私たちの罪は贖われ、私たちもまた「体」を復活させていただけるからです。
 新約聖書には、四つの「福音書」があり、それぞれが個性ある仕方で神の御子イエス・キリストを証ししています。しかし、これらの「福音書」が力を尽くして証ししているのは、二つのことです。第一は、神の御子は、私たちの罪を贖うために十字架のうえで死んでくださったこと。第二は、その神の御子が復活させられたこと、であります。
 この二つのことは、「福音書」に限りません。実は、聖書のどの部分も、この二つのことを証しするために書かれています。直接、語っていないと思われる部分も、ついには、この二つのことを指し示すために、仕えているのです。
 神に背いているために、直ちに死ななければならないのは、この私たちです。しかし、そのような私たちすべての者の死を、神の御子が十字架において肩代わりして死んでくださったこと。その神の御子が、神によって復活させられたこと、です。
 この事実に基づいて、聖書は、私たちにこのように告げます。「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」(Tコリント6・14)。「キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形に変えてくださるのです」(フィリピ3・21)。他ならない、この私たちのためです。復活なさったキリストの栄光に満ちた、その「体」と同じ形に変えてくださるのです。
 さらに、このように告げています。「その一人の方(=神の御子)はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」(Uコリント5・15)。神の御子の十字架の死と復活が何のためであるか、その目的と言ってよいことが明らかにされています。今、生きている私たちは、もはや自分のために生きるのではなく、私たちのために死んで復活してくださった主のために生きるのである、というのです。
 この季節に、多くの人々が人生の節目を迎えます。進学、就職、退職・・・。自分や自分たちのためだけの小さな計画や幸福、そういうことだけを考えて生きるなら、永遠にわたる人生の本当の意味や目的を見失うでしょう。
 墓に赴いた婦人たちの名が記されています(10)。墓は、この地上の人生の終着地かもしれません。しかし、私たちは、その所においてさえ、「なぜ、生きておられる方を死者の中に捜すのか。あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」との使信を聞くことができます。主の復活の恵みにあずかり、永遠にわたる人生の本当の意味や目的を見いだすことができるのです。

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