「罪を赦されるということ」 望月 修

 だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。(ルカ7・47)
 主イエスが、シモンというファリサイ派の人の家に招かれて、食事の席についておられた時のことです。その町に住む一人の罪深い女が、香油の入った石膏の壺を持って来て、主イエスの後ろからその足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、その足に接吻して香油を塗ったのであります。
 それは、突然の出来事であったのでしょう。その場に居合わせた者は、誰もが呆気にとられたにちがいありません。これは、何事だろう。この女は、一体何をしようとしているのか・・・。尋常でない事態に、すべての者の視線は、この女と、この女のなすがままに任せておられる主イエスに、釘付けになりました。
 しかし、少し冷静になって、事の次第を見ることことができるようになった、この家の主(あるじ)シモンは、こう思うのでした。「この人(主イエス)がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」(39)。それにもかかわらず、自分が食事に招いた主イエスは、この女のもてなしを受けている。主イエスが歴とした預言者であるなら、こんなことをさせるはずがない・・・。
 彼にとって、主イエスは、「この人」であり、「預言者」の一人でしかありませんでした。しかも、自分の罪を棚上げにしたまま、主イエスと親しくなろうとしています。だから、期待だけをよせて、都合が悪くなれば、主イエスを見限るにちがいありません。そのようなシモンは、実は私たち自身でもあります。
 彼は、「ファリサイ派」の一員でした。ファリサイ派は、当時、誰よりも神の律法に忠実に従った生活をしている、と自負しているグループでした。主イエスも、自分たちの仲間になれる、と思ったかもしれません。主イエスを信じるとか、主イエスに従うというのではなく、自分たちの仲間として、主イエスを認めてやる、その徴としての招待であったかもしれません。その場合、最初から、主従関係が逆点しているのです。自分たちの好みに合わせて、主イエスを担ぐのです。そのようなことも、私たちにありがちです。
 「シモン、あなたに言いたいことがある」(40)。おもむろに、主イエスは仰せになり、例え話を始められました。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を帳消しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか」。シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えます。
 ここで、主イエスが仰せになることこそ、福音と福音によって救われた者の在り方であります。福音は、主イエスこそ、私たちの罪を一切「帳消し」にしてくださる御方である、ということです。主イエスの十字架による罪の贖いを指し示しています。福音によって救われた者の在り方というのは、赦された者が愛する、しかも、多く赦された者は多く愛する、ということです(47)。
 ここには、信仰と倫理がその関係を含めて語られています。信仰とは、主イエスにおいて、神に背く一切の罪が赦されることを信じることです。倫理とは、その信仰に基づく生き方のことであって、赦しの愛に生きるのです。
 シモンは、主イエスによって、主イエスをどのように信じ、知り、そして主イエスと交わるかを、ここで導かれています。そのことによって、先ほど来の主従関係が逆転されます。本来の関係へと正されるのです。シモンは、主イエスを主と仰ぎ、主イエスに聞き、そして従う者となるようにと導かれたのです。


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