「悪霊からの解放」 望月 修

 悪霊どもが豚の中に入る許しを願うと、イエスはお許しになった。悪霊どもはその人から出て、豚の中に入った。すると、豚の群れは崖を下って湖になだれ込み、おぼれ死んだ。(ルカ8・32b−33)
 この箇所には、「悪霊に取りつかれている男」が登場します。「この男は長い間、衣服を身に着けず、家に住まないで墓場を住まいとして」いました(27)。それだけでも尋常ではありません。「この人は何回も汚れた霊に取りつかれたので、鎖でつながれ、足枷をはめられて監視されていたが、それを引きちぎっては、悪霊によって荒れ野へと駆り立てられていた」(29b)との説明には、ある種の恐ろしさを覚えます。もはや、誰にもどうすることができない状態に陥っていました。
 その男が、ゲラサ人の地方に着いた主イエスのもとにやって来たのです。主イエスは、直ちに、この人に取りついている悪霊に向かって、出て行け、と命じました(29)。ところが、この男に取りついていた悪霊は、それが主イエスだと判って、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。頼むから苦しめないでほしい」と、「わめきながらひれ伏し、大声で」叫んだ(28)というのです。
 この男は、特別な人なのでしょうか。そもそも、悪霊など存在するのでしょうか。少なくとも言えることは、悪霊がいちばんに恐れているのは、神であることです。今の今まで、悪霊は、この人を、ここに描かれているように翻弄して来ました。けれども、ここに、神の子が登場したということで、自分たちが引き下がらなければならない時が来たのです。そういう事態となって、悪霊は観念したかのように、冒頭のような取引を、主イエスに申し出たのであります。
 悪霊はこの人から撤退し、代わって、神の御子がこの人の主となりました。その意味で、ひとりの人が主イエスによって救われたという話ですが、この私たちもまた、そのように、主イエスによって悪霊の支配から解放されているのであります。
 この場面で考えさせられるのは、主イエスこそ世界のまことの主であり、自分を支配する存在であることを知っている私たちが、それなら、その事実を喜んでいるかでありましょう。あからさまな言い方をすれば、主イエスよりも本当は自分の思いに従いたい、主イエスに仕えるよりも自分の思うままに生きたい、と思っている自分がいることです。そのような身勝手な矛盾を抱え込んで苦しんでいるのが、私たちではないか、ということです。
 その苦しみを真面目に考えるのであれば、まさに、ここに登場する、この人の苦しみではないでしょうか。住む家を持っているし、苦労して建てた、しかし、その行く着く先は墓場ではないかと言ったら、言い過ぎでしょうか。少なくとも、自分は神に滅ぼされるのではないかとの恐れが私たちの内にあります。自分ではどうすることもできない不安です。
 人には取り繕っていますが、神を信じている自分と、神を見失っている自分が同居しているのです。しかも、絶えず分裂し、その自己矛盾に苦しみ、惨めな状態にあります。本当を言えば、ここに登場するこの人の状態と同じではないか、ということです。
 伝道者パウロもまた、このような矛盾を抱え分裂している自分を見つめています(ローマ7・15−24)。しかし、彼は、そこで、その窮状を説明するというより、この自分を救って欲しいと叫んでいます。それは、彼が救いを主イエスに見いだしているからです。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」(ローマ7・25a)と、彼は神を讃えます。罪によって分裂している私たちを救うためにこそ、主イエスが遣わされたのである、との信仰を言い表しているのです。
 私たちは、この主に救われることによって、神の御前にある本来の自分を取り戻すことができます。そのために、主は、ついには御自分を犠牲とされたのであります。


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