「栄光に輝く主イエス」 望月 修

 イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていたモーセとエリヤである。(ルカ9・28−30)
 救い主として遣わされた主イエスは、そのご生涯において、栄光に満ちたお姿を顕わされた時がありました。山の上での出来事であったことから「山上の変容」と呼ばれたりします。冒頭部分はその箇所からの引用です。
 ここに描かれる主イエスは、神の御子としての栄光に満ちています。しかし、それだけでなく、この時には、モーセとエリヤも栄光に包まれて現れました。しかも、彼らは、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していたというのです。
 その様子を寝ぼけ眼で目撃した弟子たちでしたが、ペトロはその光景をいつまでもとどめておこうと思ったのでしょう。モーセとエリヤが、そこを去ろうとした時、主イエスに向かって、「仮小屋を三つ建てる」ことを申し出ました(33)。いつでも、ここに来たら、神々しい主イエスと、栄光に包まれたモーセとエリヤを思い起こして、それぞれを拝むことができる、と思ったかもしれません。
 ところが、そのようにペトロが言っているうちに、突然、雲が現れ、モーセとエリヤはその雲に包まれ見えなくなり、一人残された主イエスについて「これはわたしの子、選ばれた者。これに聞け」と言う声が雲の中から聞こえたのであります(34−35)。
 ペトロは、主イエスをモーセやエリヤと並ぶ者と考えていたと思います。それに対して、この時、神は、主イエスが御自分の独り子であることを宣言なさったのです。
 主イエスは、神の御子であり、独り子であります。それは、モーセやエリヤと違うというだけでなく、神がお立てになりお遣わしになられた救い主であって、神の御心と神が為そうとしておられることは、この御子から聞け、ということです。
 どうかすると、神と主イエスとは別のお考えをもっておられるのではないか、と思いがちです。例えば、主イエスは自分に同情し罪を赦してくれるかもしれないが、神はそうではないと思うのです。そうではなくて、主イエスと神とは、全く同じお考えを持っておられるのです。もし神に厳しさがあるとすれば、主イエスによって何としても救おうとなさることから来るのです。主イエスが憐れみ深くあるのは、神の尽きることのない憐れみから来るのです。主イエスが、確かに救ってくださると仰せになるなら、神はまちがいなく救ってくださるのです。
 それなら、この時、何故、モーセとエリヤが現れたのでしょうか。「モーセ」は旧約聖書の律法を、「エリヤ」は旧約聖書の預言(者)をそれぞれ代表しています。そのように旧約聖書を代表する二人が「主イエスと語り合っていた」のは、主イエスが律法と預言、つまり旧約聖書を成就する救い主であることを証ししています。
 この二人が、主イエスがエルサレムで遂げようとしておられる「最期について」話していたことを見落とせません。この「最期」は、旧約聖書の「出エジプト記」という表題を意味する<出て行く>と同じ意味の字です。エジプトの地で奴隷となっていたイスラエルの民のうめきを聞き、かつて結ばれた契約を思い起こされた神が、そこでの重労働から解放し、その地から導き出されたことに由来します。それは、主イエスによる罪の支配からの解放を預言し証しする出来事でありました(出エジプト記6・2−7参照)。
 つまり、この「最期」は、神がその民の罪を贖い解放し御自分の民とするために導き出すことにあるのです。
 神による解放の出来事が、今や神の御子による十字架の死と復活という「最期」において、完全な仕方で、この歴史の中で、遠い昔からの神の御計画として実現されるのです。そこに、神の御子の栄光がありました。


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