「神の国が実現するために」 望月 修

 その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。そして、彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。・・・」(ルカ10・1−2)
 この箇所の前後で、主イエスは、弟子の心構えや覚悟について語っておられます。しかし、重要なのは、主イエスによって神の支配が及んでいるという事実です。その支配が「神の国」の福音として宣べ伝えられることです。何故なら、「神の国」は宣べ伝えられることで事実としてこの世界に実現されて行くからであります。
 主イエスは、十二弟子の他に、更に七十二人を任命し、御自分が行かれる町や村に二人ずつ先に遣わされました(1)。「七十二人」は、旧約聖書に由来する数と考えられます。「創世記」におけるノアの時代の洪水のあと、生き残って箱舟から出たノアの一族は、やがて地上に増え広がります。そこには、七十の民族が生じたことが述べられています。主イエスは、そのことを念頭において、ここに七十二人を遣わしておられるのではないか、と思われます。
 いずれにしても、個人というより教会が、世界への福音の伝道に召されたのです。その教会の心構えは何でしょう。幾つかのことが書かれています。しかし、「神の国」の到来(9、11)と、それと深く関係する「平和」(4)を告げることであります。
 主イエスの関心は、この時点で、既に、世界への伝道にありました。このことは、例えば、迎え入れられた町では「出される物を食べる」(8)ように指示されます。ユダヤ人たちの食生活を縛っていた旧約聖書の規定に囚われるな、ということです。遣わされた者が異教徒の土地に入って伝道することを想定しておられるのです。
 御自分における「神の国」の到来と「平和」を告げること以外は拘るな、心配するな、ということでありましょう。受け入れられず、反対を受けることがあっても、最低限の抗議(11)に止めよ、との勧めにも表れています。
 主イエスの救いを信じる者は誰もが、何らかの意味で、自分が救われたことを証しするでありましょう。主の恵みに救われた者は、その恵みに信仰によって生きる限り、それぞれが伝道者の役割を果たします。それを自覚する時、主によって命じられていることとして、伝道を受け止めるにちがいありません。
 彼らは、主イエスが「行くつもりのすべての町や村に・・・先に遣わされた」のです。教会は、この世にあって、主に遣わされた者たちの群です。私たちが、教会員であることは、主に招かれて救われた者たちとされたことにあります。したがって、私たちは、そこかしこに、新しい神の民として主の体である教会を形づくることになります。そのような教会を拠点として、この世へと派遣されるのです。それは、この世にあって、主を代理する名代のような立場であります。
 「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(2)。主に遣わされる者たちは、そのように命じられます。主イエスのこの勧めが、私たちの在り方を方向づけます。主において、「収穫は多い」のです。収穫が約束されているのです。だからこそ、私たちは、「収穫のために働き手を送ってくださるように」神に祈ることが、求められているのです。
 やがて、主イエスはお出でになられます。御自分が成し遂げられた救いをもとに、主はその救いを完成なさるために、誰の目にも分かる仕方で、つまり世界の真の主として、再びお出でになられます。
 教会は、今置かれている状況からだけで、物事を判断したり考えません。たとえ悪い状況であっても、主においては既に救いが成し遂げられているとの信仰による事実から出発します。その意味で、教会は、終わりの時から、今置かれている状況に、祈りをもって、対処するのです。


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