「私たちの善き隣り人」 望月 修

 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。(ルカ10・33−34)
 この有名な譬え話は、「ルカによる福音書」に固有なものです。しかも、「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるのか」(25)との律法の専門家による質問がきっかけでなされたのです。つまり、主イエスとのやり取りから、愛を知識で知っていても、実際には愛そうとしない、また、そのことを正当化さえする「律法の専門家」ような者に対して語られているのです。その意味で、この私たちにも語られています。
 この譬え話を読んで、どんなに愛がない私たちであるかは、「祭司」(31)や「レビ人」(32)によっても明らかにされます。彼らは、自分のスケジュールをこなすことで手一杯です。愛を知りながらも、それを実践できないでいるのです。その意味では、旧約聖書における律法の役割や限界をも指し示しています。
 それに対して、「サマリア人」の登場は際立っており光彩を放っています。彼は「旅をしていた」とありますが、特別な役割を果たします。旅の途中、「追いはぎに襲われ」た者への関わり方にそれが明らかにされます。
 彼は、同じ旅に出た者として、その途中で目にした、追いはぎに襲われ、服をはぎ取られ、殴られ、半殺しにされ、置き去りにされた、「ある人」(30)を、「憐れに思い」(33)、「近寄って」(34)来ます。私たちの救いのために、この世にお出でになられた救い主イエス・キリストのお姿を彷彿させます。少なくとも、先の「祭司」や「レビ人」には、決して見られなかった姿勢であり、態度です。
 したがって、この「ある人」を、愛のない世界で、悪の力に翻弄されている、私たち自身であると見なすこともできます。
 いずれにしても、この譬え話をなさっておられる主イエス・キリスト御自身を見失わないことです。
 事実、主イエスは、憐れみ深くあられます。私たちの救いのために、私たちの旅に伴われます。瀕死の状態の私たちに、近寄って来られます。そして、その「傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱し」てくださる、そういう救い主です(34)。
 それだけではありません。何と、その後の、継続して必要な介護についても、その費用を払い続けてくださいます。そのように、私たちが救われるために、配慮し続けるてくださるのです。この譬え話の第一の聴き手である、「律法の専門家」と同じような、この私たと、何と対照的な在り方をしているでしょうか。
 以上のことを見据えて、この譬え話を読むのであれば、私たちは、この譬え話から、直ちに、主イエス・キリストによる救いについての本質的な部分を理解することになります。それは、「追いはぎに襲われた」者にとっての、善きサマリア人こそ、実に、神が私たちの救いのためにお遣わしくださった、私たちの救い主イエス・キリストである、ということです。
 この地上に、神のもとから遣わされているにもかかわらず、お遣わしになられた神を見失い、託された使命さえも忘れている私たちです。それだけでなく、この世の悪に翻弄され、罪の内に滅んで行くばかりの私たちです。
 そのような私たちを救い得るのは、地上の人間ではありません。ただ、救い主イエス・キリストだけであります。私たちは、この事実を信じてよいのです。そして、救い主イエス・キリストを受け入れることです。その介抱を受けることです。その支払いを、自分の救いのために役立ててよいのです。
 「宿屋」は、教会を指し示している、と言われています。救い主イエス・キリストを、神がお遣わしくださった、私たちの善き隣り人として、信仰の告白をもって、迎え入れる場であります。

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