「必要なただ一つのこと」 望月 修

 主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10・41−42)
 尊大な者、傲慢な者には、神がお遣わしくださった御子による救いは分かりません。そうではなくて、「幼子のような者」(10・21)が、この救いを信じ受け止めることができるのです。
 主イエスが伝道を始められますと、主イエスの宣べ伝える、神の支配、福音を受け入れる人々がありました。しかし、一方に、そうでない人々もおりました。「律法の専門家」(25)は、その代表でした。彼らの特徴は、自分の熱心さによって救いを獲得することができると思っているところにありました。律法を守れば、命を得られるのです。しかし、問題は、律法をちゃんと守ることができるかです。それなのに、自分たちは守っている、と言い張るのです。そこに、彼らが、主イエスによる救いをなかなか受け入れることのできない原因がありました。私たちはどうでしょうか。
 しかし、もう一つの問題があります。それは、主イエスを受け入れる信仰こそ大事なのですけれども、それなら、どのように主イエスを受け入れるかです。
 マルタとマリアの姉妹の話は、たいへん有名であります。主イエスたち一行が、「ある村にお入りになった」(38a)時のことでした。
 まず、マルタが、主イエスを家に迎え入れました(38b)。彼女は、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働」(40a)きます。主イエスが、自分たちの住む村に来てくださったのです。是非とも自分の住む家に来て頂こう。家に入る前に外の砂埃で汚れた足を洗って差し上げなければ、座っていただく席も整えなければ、さて何を食べて頂こうか、御馳走をしなければ・・・。彼女は、彼女なりに、一生懸命です。せわしく、もてなし始めるのです。それが、彼女の主イエスの迎え方であり、受け入れ方でした。
 しかし、このような時に、多くの人のしがちなことが、このマルタにも生じました。マリアのことが気になりだしたのです。彼女は「主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(39)のです。せわしくもてなすマルタを尻目にしているかのようです。
 実際、こういう場面を想像して、マルタの立場に自分を置いたら、マリアを責めたくなるにちがいありません。周囲の者に働かせて、自分だけいい思いをしている。場を弁えていない、空気が読めない、独り善がり・・・。マルタが非難したくなったとしても不思議ではありません。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40b)。私たちには、この気持ちがよく分かるのです。
 このように言うマルタに対して、主イエスが仰せになられたのが冒頭の言葉です。
 僅かな小さな話です。ですけれども、この話の前の部分から、続けて読んで来た私たちには、主イエスに対する私たちの在り方そのものを、深く考えさせる話になっています。
 主イエスの御前に「幼子のように」なることの好例なのです。プライドを捨て、神に背く自分の罪を認め、心から悔い改めて、主イエスの恵みを慕い求めることができるかです。
 マリアの姿勢は、彼女の礼拝でした。その意味で、教会のあるべき姿を指し示しています。礼拝は、神に対する謙遜と従順がなければ、成り立ちません。神の言葉に聞き従うことから一切が始まるのです。それなのに、それを差し置いて、いろいろと奉仕や集会を考えるのは、教会の在り方ではありません。
 伝道者パウロも、次のように語っています。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10・17)。

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