1 なぜ日曜日に礼拝を守るのですか?
  2 どのように祈ったらよいでしょうか?
  3 「聖書」はどんな書物ですか?
  4 「教会」は何をする所ですか?
  5 なぜ「讃美歌」を歌うのですか?
  6 「信仰告白」とは何ですか?
  7 「十戒」とは何ですか?
  8 「主の祈り」とは何ですか?
  9 「説教」とは何ですか?
 10 「聖礼典」とは何ですか?
 11 「献金」を何故するのですか?
 12 「礼拝」とは何ですか?
 13 「教派」とは何ですか?
 14 「公同教会」とは何ですか?
 15 「教会員」とは何ですか?
 16 「牧師」とは何ですか?
 17 「長老」とは何ですか?
 18 執事とは何ですか?
 19 神の言葉とは何ですか?
 20 「契約」とは何ですか?
 21 「福音」とは何ですか?
 22 「祝福」とは何ですか?
 23 「復活」とは何ですか?
 24 「永遠の命」とは何ですか?
 25 「罪」とは何ですか?
 26 「義」とは何ですか?
 27 「信仰」とは何ですか?
 28 「聖化」について教えてください。
 29 「希望」について教えてください。
 30 聖書が告げる「愛」について教えてください。
 31 聖書が告げる「審判」について教えてください。
 32 「再臨」をどのように受け止めたらよいですか。


教会生活Q&A 1

Q なぜ日曜日に礼拝を守るのですか?
A 主イエス・キリストが復活されたのが、「週の初めの日」(マルコ16・2)で日曜日に当たるからです。「主の日」(ヨハネ黙示録1・10)と呼ばれています。
 ユダヤ教では、律法に安息日の規定があり、神が六日間にわたる創造の仕事を離れ、「第七の日」(創世記2・2)に安息なさり、祝福し、聖別されたことから、「安息日」が定められ(出エジプト20・8-11、35・2-3、)、「聖なる集会の日」(レビ23・3)となりました。
 キリスト教は、この規定を、復活信仰にもとづいて変更したわけですが、安息日の精神は改革派教会わけてもピューリタン運動において、「聖日厳守」という仕方で受け継がれました。
 呼称としては、太陽神礼拝に由来する Sun day → 日曜日では、心もとないということで、Holy day → 「聖日」とした経緯もあります。しかし Lord's day →「主の日」として当初から聖餐式を守って来た歴史を忘れることはできません。



教会生活Q&A 2

Q どのように祈ったらよいでしょうか?
A 祈りは、神がお求めになる御自身との人格的な交わりであり、信仰者の生命線であります。
 「父なる神」というように、神への呼びかけをもって始めます。その内容は、感謝・悔い改め・願い・執り成しなどであります。密室で一人祈る場合は心に思うことをそのまま素直に祈ることが大切ですが、公の祈りにおいてはあらかじめ整えておくのがよいでしょう。最後に「主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン」と唱えます。祈りは、主の仲立ちによって、神に届けられるからです。「アーメン」とは<確かに>という意味のヘブル語です。神が、私たちが思う以上に確かに聞いてくださっていることを信じることが大切です。しかし、だからと言って、どんなにわがままな人でも、何もかも願い通りになるとは考えないでしょう。
 旧約聖書の詩編は祈りの宝庫です。祈りの言葉を見いだせない時、祈れない時などは、使徒信条を唱え、主の祈りを祈ることによって代えることもできます。



教会生活Q&A 3

Q 「聖書」はどんな書物ですか?
A 神と人間とのあいだの契約書で、その内容は神による人間の救いであります。旧約と新約の二部から成っています。
 旧約では、神の契約相手として、アブラハム、ノア、モーセ、ダビデなどがイスラエルの民を代表して登場します。イスラエルの民をエジプトの地から脱出させ、約束の地へと導かれた神こそまことの神であるとの信仰に立ち、祖国解放の願いと期待が漲っています。モーセ五書(律法)、諸書、預言書を通して、イスラエルの歴史に働かれた神が証言されています。
 新約では、新しいイスラエルの民である教会が神の契約相手となります。神が救い主として遣わされた御子イエス・キリストによってすべての人間は罪から救われるとの信仰に立ち、旧約は成就され、神の国の到来を待望しています。福音書、手紙などによって、御子と御子を主と仰ぐ教会の姿が描かれています。
 神による人間の救いを主題とした、神(御父・御子・聖霊)と人間が織りなす誰もが必読の壮大な物語と言ってよいでしょう。



教会生活Q&A 4

Q 「教会」は何をする所ですか?
A 旧約では、教会に当たるのは神によって集められた「群れ」「会衆」「集会」であり、神の民イスラエルを意味していました。彼らは、神の契約の民として、メシアを待望しつつ、神殿を中心に、律法や預言を拠り所にしながら、神を礼拝していました。
 神がお遣わしになったメシア(「キリスト」「主」)によって集められた「教会」は、恵みによる新しい契約の民として、神の国の到来に応じた礼拝共同体を形成しています。
 マタイ16・13-19には、キリストに対する正しい信仰の告白がなされるところに、この「教会」が建てられることが約束されています。また、キリストの贖罪と復活によって罪と死を越えた霊的な支配のもとにある教会は、「キリストの体」(エフェソ1・22-23)として、主にある交わりを形成しています。
 教会の使命は、神の祝福を受け継ぐ伝道です。福音の説教と聖礼典の執行によってキリストの救いを宣べ伝え、そのために、制度を整え信仰の訓練を施します。



教会生活Q&A 5

Q なぜ「讃美歌」を歌うのですか?
A 神を讃美するためです。
 旧約聖書の詩編に、「新しい歌を主に向かって歌え。全地よ、主に向かって歌え。主に向かって歌い、御名をたたえよ。」(詩編96・1-2)とありますように、礼拝に際して、歌をもって神を賛美することが古来より行われて来ました。詩編そのものが、そもそも讃美歌集です。
 新約聖書にも、礼拝に際して歌われたと思われる歌が幾つかあります(フィリピ2・6-11、コロサイ1・15-20など)。そして、「詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。」(コロサイ3・16)と告げています。
 言葉や旋律の制約上、聖歌隊によって歌われる機会が多かった時代を経て、全会衆が自国語で斉唱するようになり、当初は衆賛歌や詩編を、続いて創作讃美歌が多く歌われるようになりました。
 私たちの手元にある『讃美歌』は、50年前に編集されたものです。近代の感傷的かつ個人的宗教感情より、古典的なものや典礼的な新しい試みを取り入れた『讃美歌21』も最近出版されました。



教会生活Q&A 6

Q 「信仰告白」とは何ですか?
A 教会が拠り所とする唯一の正典は聖書です。教会は、聖書に証しされる主イエス・キリストに聞き従い、この主を生死において信頼すべき救い主と信じます。したがって、教会は、主イエス・キリストを証しするものとして、何よりも聖書を重んじます。
 この聖書の中に、主イエスをどのように信じ告白するかの信仰告白的な証言が数多くありますが(マタイ16・16、コロサイ1・15-18など)、教会は、聖書に基づいて信ずべき信仰の基準を定めてきました。「信条」もしくは「信仰告白」と言われるものがそれにあたります。教会には、いつの時代にも正しい信仰に立つための戦いがあります。特に、キリストをどのような意味で救い主と信じ告白するかは、教会の生命線であり(マタイ16・13-19参照)、礼拝と教会の営みの根幹を成すものです。
 最初の5世紀頃までに成立した信仰箇条(『使徒信条』『ニカイア信条』が代表的)を「公同信条」と呼び、その後、宗教改革以降作成されたものを「信仰告白」と区別しますが性格は同じです。



教会生活Q&A 7

Q 「十戒」とは何ですか?
A 神の言葉は、福音のみならず戒めという形態によっても与えられています。律法がそれに当たりますが、「十戒」はさらにそれを代表しています。
 十戒は、かつてエジプトの地で奴隷であったイスラエルの民が神によって解放された際にシナイ山で与えられました。神による解放の宣言がなされたあと、前半に神礼拝に関する戒め、後半に人間関係における戒めがあり、神の変わることのない良き意志が明らかにされています。その意味で、私たちの聖化を方向づける神の言葉として与えられています。
 これらの戒めは、人間の罪を明らかにする、罪人である人間の社会と世界を道徳的混乱から守り秩序を維持する、愛に基づく信仰生活の方向を指示する、働きがあります。
 神は、御自分の意志に従おうと祈り求める者に、聖霊を与え助けてくださいます。しかも、御子は私たちに代わって神の意志を既に完全に満たしてくださっています。この恵みに生きる信仰者にとって、十戒は、神の憐れみに基づく配慮であり保護するものです。



教会生活Q&A 8

Q 「主の祈り」とは何ですか?
A 「主の祈り」は、御子イエス・キリストが教えてくださった祈りです(ルカ11・1-4、マタイ6・9以下参照)。したがって、これほど確かで正しい祈りはありません。身に着けるべき祈りの模範と言ってよいでしょう。  「絶えず祈りなさい。」(テサロニケ5・17)「望むものを何でも願いなさい。」(ヨハネ15・7)と勧められているのですが、しばしば祈る言葉を失い、何を祈ったらよいか分からなくなる私たちです。神に背た罪人には、祈ることそれ自体がよく分かっていないというのが本当かもしれません。特に困ったことや必要がなければ、型通りか、なおざりになりがちです。「だから、こう祈りなさい」(マタイ6・9)と主によって教えられている祈りがあることがどんなに幸いかであります。
 この祈りには、私たちが祈るべきすべての内容が含まれています。呼掛けではじまり、前半に神に関する祈り、後半に人間にかかわる祈りがあり、神をほめ讃えておわります。
 折に触れて、繰り返し、またとりなしの祈りとしても祈ることができます。



教会生活Q&A 9

Q 「説教」とは何ですか?
A 「説教」は、聖書に基づいて、キリストによる救いを証しし、福音(罪の赦しと神の約束として体の復活と永遠の命)を告げます。
 プロテスタント教会の礼拝では、聖礼典と並んで重要な位置を持っています。それは、礼拝に集う人々に信仰を呼び起こす働きを担っているからです(ローマ10・14-17参照)。
 説教者は教会(長老会)が立てますが、その背後に神の選びと召命があります。つまり、神が、説教者を用いて、人々を信仰へと呼び覚ますのであって、そこで働いているのは聖霊であります。
 分かり易い話、面白い話、感動する話、役立つ話、ジャーナリスティックな話・・・、つたない説教(者)に対して、誤解を含めて際限ない期待や要求が生じます。しかし、語る者も、聞く者も、共通の土俵に立っているかです。それは、聖書に基づき、教会に受け継がれて来た信仰(教理)に立ち、聖霊を慕い求めているかです。
 説教のタイプとして、主題に基づく説教、聖書講解的な説教、教理的な説教、物語的な説教などと便宜的に区分することもあります。



教会生活Q&A 10

Q 「聖礼典」とは何ですか?
A 「聖礼典」は、説教によって呼び起こされた信仰を確かなものとするもので、主イエスによって、「洗礼」と「聖餐」が定めらています。救いの契約において、文面に当たるものが説教、印鑑に当たるものが聖礼典である、と言ったらよいかもしれません。
 聖礼典とはサクラメントの訳語ですが、それは新兵の入隊誓約を意味したラテン語に由来します。実際、洗礼は、信仰に基づく誓約が伴う教会への入会のしるしとなっています。それに対して、聖餐は、その教会において、神に養われているしるしと言えるでしょう。
 洗礼では水が、聖餐ではパンと杯(ぶどう酒)が用いられますが、それら自体に何らかの効力があるのでなく、キリストの犠牲による罪の贖いを指し示す役割を果たしているに過ぎません。しかし、制定の言葉(説教)に伴って聖霊が働く時、それらは神の恵みを保証するものとなるのです。したがって、制定の言葉(説教)を欠いた聖礼典はあり得ません。
 カトリック教会は、他に、堅信、告解、終油、叙階、婚姻を定めています。



教会生活Q&A 11

Q 「献金」を何故するのですか?
A 献げることの本質は、感謝と献身にあります。
 神は御自分の御子をさえ惜しまず私たちを救うために与えてくださいました。御子もまた私たちの罪を贖うために恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍んでくださったのです。その恵みによって生かされている私たちです。言うなれば、このような神のお陰を被って生かされている私たちです。神に感謝しないわけにはいきません。世間でもお世話になった人には感謝の気持ちを込めて折々に贈り物をするではありませんか。
 「献金について」という私たちの教会の印刷物にこのような記述があります。「献金は、・・・神の恵みに応えて、自分を捧げることであります。本来、私たちのものと言って、誇り得るものは何もないはずですが、キリストに救われることで、私たちの持っているものは、すべて神から与えられ、委託されているものであることが、ほんとうにわかってくるのです。それで、私たちは、自分を捧げる意味で、献金をするのであります。」



教会生活Q&A 12

Q 「礼拝」とは何ですか?
A 礼拝は、神の現臨のもとに、私たちが神を拝み、神と交わることです。しかも、神に背いて来た私たちが、ただ神の憐れみによって、キリストにより、悪と死の力、滅びから贖い出され、その罪を赦されて、まことの命を生きる者とされていることから、悔い改めと感謝をもって、神を喜び讃え、神に栄光を帰することです。
 礼拝の順序は、そのために、私たちに対する神の御わざを明らかにするものであるとともに、神によって罪を赦された者が、神との交わりに生き、いよいよ神のものとされ、神に栄光を帰することに仕えるためにあります。
 改革・長老教会の礼拝の特質として、神中心キリスト告白を確保しキリストとの交わりを目指す聖霊と言葉を分離しない神の御言葉としての説教と聖餐を重んじる聖霊におけるキリストの臨在を信じる聖霊のわざとしての聖化を信じるキリストの体としての教会との関係に自覚的である礼拝における訓練を重んじ信仰の継承に努める神にのみ栄光を帰す、などを挙げることができます。



教会生活Q&A 13

Q 「教派」とは何ですか?
A 教派によいイメージを抱く人はほとんどいないでしょう。バラバラで一致していないばかりか対立する分派と同じだと受け止める人が多いと思います。
 しかし、ここでは、伝統とほとんど同義語の歴史的な個性として、むしろ積極的な意味合いを持つものと理解したいと思います。例えば、一種類の花しか咲かない花壇と、いろいろな種類の花が彩り豊かに咲き競うそれとを想像してみるのもよいかもしれません。その意味で、教派は真理の持つ豊かさやしなやかさを歴史的に体現するものだと言えます。
 キリスト教の三大教派として、東方教会と西方教会とプロテスタント教会があります。東方教会は、ギリシアあるいはロシア正教会として知られ、ハリストス正教会とも呼ばれます。西方教会はローマ・カトリック教会であり、その宗教改革運動によって独立したのがプロテスタント教会です。プロテスタント教会は、ヨーロッパではルター派と改革派として生まれ、英国に渡って、長老派、メソジスト派、会衆派(組合派)、バプテスト派などの諸派が生まれました。



教会生活Q&A 14

Q 「公同教会」とは何ですか?
A 『使徒信条』には「聖なる公同の教会、聖徒の交わりを信ず」、昨年から礼拝で用いています『ニカイア・コンスタンティノポリス信条』には「唯一の、聖なる、公同の、使徒的教会を信じます」と告白されています。
 公同教会とは、私たちが信じる「目に見えない教会」のことですが、その場合何を信じるのでしょう。それは、目に見えないキリストの体、聖霊の宮としての教会であって、代々の信仰者が属しているものの、誰が属しているかは神のみが知っておられる、その意味の「天上の教会」を信じるのです。
 「日本基督教団」は、30余派の多くの教会が合同したのだから、公同教会であると自己理解している節があります。これはとんでもない誤解です。「合同」と「公同」が似た字であるために勘違いしている面もありますが、規則上も僭称していると思います。
 是非知らねばならないのは、地上の目に見える教会はいずれの教会も、そのままで公同教会であるのでなく、むしろ公同教会を反映する教会を形成するためにこそ召されているのだ、ということです。



教会生活Q&A 15

Q 「教会員」とは何ですか?
A 教会員とは信徒のことです。わざわざ教会員と呼ぶのは、キリストの体である教会に連なることで信徒になるとの理解があるからです(ヨハネ15・5参照)。
 実際、私たちの教会が属する教団の規則に、「本教団の信徒は、バプテスマ(洗礼)を受けて教会に加えられた者とする」とあり、さらに「信徒とは、教会または伝道所に所属し、その会員名簿に登録された者とする」とあります。
 また、「信徒は、陪餐会員および未陪餐会員に分けて登録しなければならない」と規定されており、聖餐に陪することのできる陪餐会員とそうでない会員、つまり幼児洗礼を受けたものの未だ信仰告白をしていない未陪餐会員との区別を設けています。
 私たちの教会では、陪餐会員について、さらに、信仰的な自覚をもって聖日礼拝を守り教会総会を構成する議員となり長老選挙など教会運営や維持などに参与しキリストの教会に対する責務を担っている信徒を「現住陪餐会員」とし、それ以外の信徒を「近隣地会員」と「遠隔地会員」とに区分して、牧会上の配慮をしています。



教会生活Q&A 16

Q 「牧師」とは何ですか?
A 牧師という字から、牧者、羊飼いを連想できます。実際、聖書は神が良い羊飼い、牧者と告げています。そこで、牧師について、指導者、世話をする者との理解が生じても不自然ではありません。しかし、大事なことは、牧師は何によって導き、養うかです。そこまで考えないと牧師を誤解します。
 ある教会では、教会員の預金通帳の中身まで知るほどに、その人や家族の状態を知って、生活上のお世話をするのが牧師の務めであり、牧会だと理解していたそうです。多くの悩みや苦労を抱えた家庭や人生を配慮すると、そこまでするのも決して大袈裟でないかもしれません。
 しかし、私たち信仰者が忘れてならないのは、神の言葉こそ、私たちを真に導くもの、魂の真の糧であるということです。その意味で、牧師とは、教会の説教職に就く者です。説教職は、福音を教え聖礼典を執行する務めです。所謂、牧会も、神の言葉を、個々の生活までもたらす働きを指します。神は、説教の務めを用いて、私たちのうちに信仰を呼び起こすのです(ローマ10・14-17参照)。



教会生活Q&A 17

Q 「長老」とは何ですか?
A 長老は、牧師を補佐し、牧師と共に信仰の指導に当たる職務を指します。
 長老が任職される際に読まれる式辞は次のように述べています。「長老とは旧約聖書においては全会衆のために群を治める者をいい、新約聖書においては「よく指導している長老」(テモテ5・17)といい、あるいは「指導する人は熱心に指導し」(ローマ12・8)といい、・・・長老は牧師と共に長老会を組織し、会員の入会および退会の処置、礼拝の整頓、教理の擁護、教会の秩序の保持、会員の訓練、伝道の拡張等使徒たちの命じたとおり、教会を治めなければなりません。教会員はこれらのことを記憶してこの職を尊ぶべきです。」
 長老職に就く者は、神の召しを信じ、神とキリストに対する忠誠、礼拝厳守、聖書と祈りに立つ信仰生活、聖書および教会が受け継いだ信仰と教理の擁護、教会の伝統に対する理解と継承、謙遜を心掛けます。
 私たちは、教会総会において、この職務に就くにふさわしい者を現住陪餐会員の中から選挙します。



教会生活Q&A 18

Q 執事とは何ですか?
A 一般的には家政や事務を執りしきる者という意味ですが、神の家としての教会にもそれに相当する働きが求められます。
 もっとも日本のほとんどの教会は、規模が小さいこともあって、牧師とその夫人、長老たちや一部の熱心な信徒たちの奉仕という仕方で、その役割が担われているというのが実状でしょう。務めの内容もはっきりしていないことから、トラブルが生じがちなところです。
 「使徒言行録」に、信徒たちの世話や配慮に翻弄され「神の言葉」が後回しにならないようにと、適任者を選んで対処した教会の姿が描かれています(6・1-7)。
 御言葉を教え御言葉によって教会を治める長老の働きと比べ、執事は教会における実務的な働きと福祉的な働きを担う務めであると言ってよいでしょう。
 私たちの教会では、礼拝、伝道、牧会及び財務等に関する長老会の職務を補佐する務めとし、聖餐の準備、礼拝の受付・案内・出席記録、配布物等の整理保管、会計、施設備品の管理、墓地の管理、高齢者や病床にある教会員の訪問などの奉仕に当たっています。



教会生活Q&A 19

Q 神の言葉とは何ですか?
A 「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1・3)とあるように、この世界と私たちとは「言葉」によって創造されました。
 また、聖書には、しばしば「主なる神は言われた(仰せになった)」とあり、神に立てられた指導者、預言者たちは、それらの言葉を取り次いでいます。
 十戒も「言葉」による命令です。
 これらは、私たちの神が、偶像の神でなく、「言葉」によって御自分を現される神であることを明らかにしています。言葉を介することで、純粋に信仰による交わりをお求めになる神である、と言うことができます。
 「神の言葉」ということで見落とせないのは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1・14)と告げていることです。神の御子「イエス・キリスト」こそ、第一義的な神の言葉であることです。
 さら、その事実を証しする「聖書」、その事実を宣べ伝える「説教」も「神の言葉」と言えましょう。説教に対して、聖礼典は見える神の言葉とも言われます。



教会生活Q&A 20

Q 「契約」とは何ですか?
A 「わたしは、あなたたちと、そして後に続く子孫と、契約を立てる」(創世記9・9)。主なる神とイスラエルの民は、契約による関係でした。
 「しかし、来るべき日に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこれである、と主は言われる、すなわち、わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる」(エレミヤ31・33)。契約は更新されます。しかし、その基本は、「わたしはあなたたちをわたしの民とし、わたしはあなたちの神となる」(出エジプト6・7)にあり、「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ11・45)ということで、神がご自分の命と祝福にあずからせることにあります。
 この契約を、主イエス・キリストは、ご自分の命と引き換えに成就されました。「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26・28)。
 聖書は、まさしく契約書(「旧約」「新薬」)でもあるのです。



教会生活Q&A 21

Q 「福音」とは何ですか?
A 古代ギリシアにおける新しい王の即位を伝える「喜ばしい使信」になぞらえられる、神からの「良い知らせ」(イザヤ52・7参照)です。英語の「ゴスペル」もゴッドスペル、つまり神からの手紙を意味すると言われています。
 福音とは「憐れみ深い神と贖罪(和解)をもたらすキリスト御自身を告知する」ことであり、その内容は「まことの神の子である私たちの主キリスト・イエスが、私たちに天の父の御心を告げ知らせ、彼の罪のなさによって死から贖い、神と和解させてくださった」ということにあります(1523年『六七箇条』第2条)。その意味で、福音は書き記された聖書の字句ではなく、「明瞭な神の言葉」としての「神の恵み深い行為」(チューリッヒ信仰入門)です。
 福音は礼拝において告げられ、説教者は福音を正しく明確に語ることが求められます。福音を正しく信じそれが告げる喜びに生きるのが私たち信仰者です。「都合の良いことを聞こうと」(テモテ4・3)して、「ほかの福音」(ガラテヤ1・7)に惑わされないようにすることが大切です。


教会生活Q&A 22

Q 「祝福」とは何ですか?
A 生命的な力や豊かさが付与されることであり、契約に基づいて神から民へと伝えられます(創世記12・1−3など)。
 神に背いているために、神の祝福を期待できない私たちでしたが、主イエス・キリストの救いによって、その恵みに生きることが確信させられるようになりました(ガラテヤ3・14など)。
 新約聖書には、キリストによる祝福(マタイ5・3−11の「幸いである!」など)、手紙の差出人から受取人への平和の挨拶としての祝福(ローマ1・7など)などが見受けられます。
 一方、人から神への祝福もありますが、その場合は、感謝と讃美を意味します。
 礼拝における祝福には、アロンの祝福(民6・23−26)やUコリント13・13、またフィリピ4・7が用いられています。
 いずれにしても、本来、神だけが唯一祝福することのできる主体であることが見失われてはなりません。主イエス・キリストにおいて、私たちの罪を赦し、体の復活と永遠の命を与えてくださるからです。



教会生活Q&A 23

Q 「復活」とは何ですか?
A 復活の信仰で大事なことは、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11・25)と宣言なさったキリストによる救いを信じることであって、一般的な意味でのこの世における再起や死後の再生を信じることとは違います。それは、全く新しい次元における出来事であり、キリストの死者の中からの復活(「空虚な墓」)と弟子たちへの顕現に根拠をもっています。
 キリストの復活は、キリストによる罪の贖いを信じる者の希望の源泉です(Tコリント15・20−22)。それは、罪に支配された体にかわって、新しい体が与えられることを意味しています。
 キリストが再び来臨(再臨)されるとき、この世は終わります。新しい世が到来するのです。その時、私たちは復活させられます(Tコリント6・14など)。
 教会は、「主の復活の証人」として、私たちの罪を贖うために十字架の上で死なれたキリストが神によって復活させられたことを福音として宣べ伝えています(Tコリント15・1以下など)。



教会生活Q&A 24

Q 「永遠の命」とは何ですか?
A 古来より、長寿はもとより永遠の命が得られることを人々は願って来ました。そのことは様々な物語を生み出しました。また、医療の主要な動機でもありましょう。
 身近なところでは、子供や孫の幸せ、子孫の繁栄、自分の業績が死後にも覚えられることなどに、このような願いが託されていると思われます。
 しかし、聖書の証しする「永遠の命」は、今与えられている命がそのまま続くというものではありません。そればかりか、神に罪を犯した私たちは、実は命を失っているのです(ローマ6・23)。
 「わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10・28)。主イエスが仰せになられたように、永遠の命は、主イエスの救いによって与えられる新しい命であって、罪と死によって断ち切られることのない真実の命です。
 この意味で、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ること」(ヨハネ17・3)にあります。



教会生活Q&A 25
Q 「罪」とは何ですか?
A エバは「神」のようになれると唆され、食べたら必ず死ぬと戒められていた木の実を取り、アダムもまたそれを口にしました(創世記3・1−7)。神に背き、神との関わりを断ったのです。
 的をはずすという字に由来する「罪」は、具体的には神の律法にに違反することです。神との関わりの中でこそ真実に生きることができる「神にかたどられた」私たちは本来の在り方を喪失し、かえって虚偽と高慢と怠慢を明らかとすることになりました。その結果、本来の命を失い、人格的な死(愛のなさや憎しみ、貪欲など)を招来させています(ヤコブ1・14−15参照)。
 大事なことは、罪を犯したら、神に対して責任が生じることです。恐ろしいことは、その罪を償うことができず破滅して行くことです。
 このような罪からの救いこそ、聖書が証しする救いです(ローマ6・23)。御子による救いを信じる者は、罪なしとみなされ(義認)、神との関係を回復することができるのです。そのような私たちは、「恵みによって赦された罪人」であります。



教会生活Q&A 26
Q 「義」とは何ですか?
A 聖書や信仰の言葉を理解する際に見失われてはならないことがあります。神との関係です。
 罪もそうでした。罪は、神との関係が人間の背反によって損なわれ、その責任が問われていることでした。それに対して、義は、神との関係が正しくあることから、神の祝福を受けるにふさわしい状態にあります。
 神と私たちとが契約関係にあることから考えてみるのがよいでしょう。罪は契約違反であり、義はその関係が良好であることです。
 神の義については、「福音には、神の義が啓示されています」(ローマ1・17)とあります。つまり、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていますが、ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、神の恵みにより無償で義とされるのです」(同3・23−24)。このように、私たちを御子において義とするところに、神の義の特色があります(Uコリント5・21参照)。そこで、「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です」(ローマ3・22)との言い表しがなされます。



教会生活Q&A 27
Q 「信仰」とは何ですか?
A 日本には「鰯の頭も信心から」という言葉があります。つまらないものでも信仰するとありがたく思える、という意味です。折口信夫は、「何事のおはしますをば知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」(どのような神が祭られているか分からなくても霊験を思うと感謝できる)との歌を紹介して、日本人特有の精神性を語っています。信仰における心持ち(信心)の大切さを思わされます。しかし、信仰は俗信でも迷信でもありません。
 『ハイデルベルク信仰問答』は問答21が、正しい信仰について教えています。それによれば、神が御言葉によって現してくださったことをみなまこととする堅固な「認識」とともに、聖霊が福音によってわたしの内に起こしてくれる心からなる「信頼」である、としています。しかも大事なことは、そのような信仰によって、他の人々だけでなく、この私のためにも、罪の赦し、永遠の義、祝福が、恩恵により、キリストの故に、神から与えられる、とその働きを明らかにしています。キリストに確かに結びつきその恵みによって救われる信仰が求められているのです。



教会生活Q&A 28
Q 「聖化」について教えてください。
A 聖書は、信仰によって「義とされる」(義認)という言葉を用いて罪の赦しを語っています。その一方で、罪や不義から「清められる」(Tヨハネ1・7−9など)という言葉を用いて罪からの清めを語っています。この「清められる」という事態が聖化です。「わたしは聖なる者であるから、あなたたちも聖なる者となりなさい」(レビ記11・45)に沿う事態であり、罪人でありながら、そこに何らかの変化が伴います。
 誤解してならないのは、義認も聖化も、神の業であることです。神に救われる事態を二つの面から述べているのであって、どちらも信仰に働くのです。したがって、信仰によって義とされた者が、自分の熱心や努力だけで自らを清めることではありません。
 「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12・1)とありますように、神の憐れみに応答する仕方で、神を愛し私たち自身を献げることです。その場は、聖霊が支配するキリストの体である教会にある、と言ってよいでしょう。



教会生活Q&A 29
Q 「希望」について教えてください。
A 信仰者の希望は、神に根拠を持っています。聖書が証しする希望は、決して失望に終わることがありません。「希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマ5・5)と告げているとおりです。それは、最も確実なものとして、「信仰」と「愛」とともに、福音の本質を表明している根本的な祝福です。
 このような希望は、私たちが神の子とされること、つまり、体の贖われることを待ち望むことになりますが(ローマ8・23)、個人に対する祝福としてだけでなく、世界に対する祝福として、神の支配とその完成を指し示しています。
 信仰者は、この希望を先取りし、その恵みにあずかって生きるのです。苦難をも忍耐し、勇気をもって対処し、神と人とに仕えて行く信仰者の力の秘訣と源泉とは、このような希望に根ざしています。



教会生活Q&A 30
Q 聖書が告げる「愛」について教えてください。
A 聖書は、信仰と希望と愛が永続すると告げています。その中で「愛」は「最高の道」(Tコリント12・31)つまり救いの完成である永遠の命へ至らせるものであり、「最も大いなるもの」(同13・13)なのです。
 それは、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3・16)との事実に基づき、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(Tヨハネ4・10)との宣言に明らかにされています。
 パウロもまた、「わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んでくださったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5・8)と告白します。
 神の愛に生かされた信仰者は、その恵みのもとに、「互いに愛し合う」ように命じられています(ヨハネ13・34など)。



教会生活Q&A 31
Q 聖書が告げる「審判」について教えてください。
A 聖なる神がその義を貫徹するところで、人間の罪性は顕わとなり裁かれることになります。その事態が最終的になされるのが最後の審判です。
 聖書には、「父はだれをも裁かず、裁きは一切子に任せておられる」(ヨハネ5・22)とあり、「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(Uコリント5・10)と告げています。 神は、御子イエス・キリストを私たちの身代わりとして十字架の死に至らしめて、その峻厳なる裁きを貫徹なさいました。そして、御子による罪の贖いを信じる者は裁かれることなく、永遠の命を得ることができるようにしてくださいました(ヨハネ3・16−18参照)。
 主イエスは、「御自分が生きている者と死んだ者との審判者として神から定められた者であることを、民に宣べ伝え、力強く証しするように」、教会に命じておられます(使徒10・42参照)。



教会生活Q&A 32
Q 「再臨」をどのように受け止めたらよいですか。
A 復活された主が昇天される様子を見ていた弟子たちは、「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見たのと同じ有様で、またおいでになる」(使徒1・11)との約束を受けました。
 最初の来臨(クリスマス)に対し将来に約束されたこの来臨を「再臨」というのです。聖書には「主の日」(Tテサロニケ5・2他)とあり、救い主イエス・キリストによる救いが完成される時です。『使徒信条』は「かしこより来て、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白しています。
 救いが完成されるのですから、信仰者にとっては慰めの時です。「主は、わたしのために、すでに、神の審きに対して、御自身を与え、すべての呪いを、わたしから取り除いてくださり、また主とわたしのすべての敵を、永遠の罰の中に、投げ入れ、しかも、わたしは、すべての選ばれた者らとともに、御もとに召し、天上の喜びと栄光のうちに、入れてくださるのであります。」(『ハイデルベルク信仰問答』五二)