武 田 信 玄・勝 頼 所 用 甲 冑

 武田信玄所用の兜鉢が相模一ノ宮の寒川神社に存在する@。永禄十二年(1569)秋の小田原攻めの際、信玄が戦勝を祈願して奉納した物といわれている。これは鉄錆地六十二間筋兜鉢で、覆輪をかけた出眉庇をを黒漆塗とし、祓立台をまたぐようにして三本の角本(真中は折損)が立てられている。この祓立と並角本を同時に組み合わせた手法は、後で説明する戸沢家伝来信玄所用兜や勝頼所用のものにも見られるもので、他に例がないことから武田氏に好んで用いられたと考えられる。兜鉢の裏の後正中に「天文六丁酉年三月吉日」と年紀を切っており、前正中には「天照皇大神宮 房宗(花押)」、その左右の板に「八幡大菩薩」と「春日大明神」の三社神号が入る。そして他の板には般若心経の全文がびっしりと刻まれている。[革毎](しころ)の一の板が残されており、これには唐花菱紋の[革毎]付鋲が打たれ、信玄奉納という社伝を裏付けている。腰巻は水平に近く開いており、笠[革毎]が付けられていたことが想起される。三浦一郎氏の調査によれば、板物は黒漆塗で紫糸と浅葱糸で威されており、紫糸威肩浅葱もしくは浅葱紫段威、または色々威であるという。『新編相模風土記』に掲載されている図を見ると、吹返に梵字らしい据文が描かれている。勝頼所用の兜にも梵字の据文が打たれているので、おそらくこの兜にも付されていたのであろう。本品は昭和十六年に重要美術品に指定された。



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@鉢裏

 出羽新庄藩・戸沢子爵家に伝来する「伝 諏方法性の兜」は、鳥居元忠が甲斐郡内を領した時に武田旧臣によって献上されたもので、のちに元忠の孫・定盛が戸沢家へ養子に入る折にそれを持参したため、同家に伝わったのだという。この兜は紫糸威鉄錆地六十二間小星兜で、鉢裏の正中板に「上州住成国作」の銘を有し、黒漆塗の出眉庇には蔓草文の金蒔絵が見られる。獅子に牡丹の金蒔絵が施された穴山信君所用具足の威糸も紫糸であった(「吉三宛 穴山信君具足注文状」『石川文書』)。
 東京国立博物館には、信玄が元亀二年(1571)に駿河一ノ宮の浅間社(現在冨士山本宮浅間神社)へ奉納したといわれる華麗な甲冑(重要文化財指定)Aが保存されている。本品は茶糸威黒漆塗二十二間総覆輪頭高兜と、大袖付の盛上札色々威(紫・紅・白糸)胴丸からなっている。三浦氏は兜・大袖・胴丸はそれぞれ別物であって兜・大袖の方がやや新しく、勝頼所用でないかと推察されている。また同氏は、兜に費用のかかる鍬形台を用いず大型の並角本が打たれていることに注目し、当時の武田氏が逼迫した経済状況にあったことが窺えると述べている。兜の鉢裏と大袖の化粧板には「天正三年春田光信父子」の作銘があり、大袖の八双・笄金物に唐花菱紋が認められる。胴丸の草摺は、驚くべきことに十三間もある。腰まわりの防御性を高めているのだが、この作例は稀である。



A


B

C

 伝信玄所用の兜は数点知られ、その中で一番有名な物が下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵の「伝 諏方法性の兜」であるB。「明珍信家」の銘を打った小星兜鉢にヤクの毛が植えられ、獅噛の前立が配されている。諏方社神長官守矢家に伝わったものであるが、製作年代は江戸期であるという。
 茅野市頼岳寺にも「伝 諏方法性の兜」があるC。この兜には「天文二十年二月吉日 新羅三郎公より武田二十七代法性院信玄(花押)」と金泥で書かれており、吹返には割菱紋が見られる。この紋は一般的に武田菱といわれているものであるが、甲斐武田氏の定紋は唐花菱紋であり割菱紋は用いていない。従って、この紋を用いたものは、江戸期以降に製作されたと考えられる。高野山持明院所蔵の丸頭巾形兜の前立の紋がやはり割菱である。この兜は天保十年(1839)の『御什物之覚』(成慶院文書)に記載されていないので、後世になって奉納されたものであることが分かる。また信玄公宝物館所蔵の伝武田典厩信繁所用黒糸威具足にも、割菱紋が吹返にはめ込まれている。さらに同館には信玄所用といわれる(明珍)勝義在銘の鉄錆地六十二間筋兜が収蔵されている。喉輪と[革毎]に金蒔絵が施された優美なものだが、構成は江戸期であり同寺に伝わったものでもないという。
 美和神社には、永禄九年に信玄が奉納したという由緒を持つ金箔押朱漆塗伊予札紅糸威胴丸が伝わっている。この胴丸には朱漆が上塗されてしまっているため、金箔はほとんど見ることが出来ない。同寺には信玄ではなく三条夫人が奉納したという内容の武田氏印判状があるので、嫡男義信の元服鎧であると考えられている。三浦氏は、本胴丸には織田家中で流行した「一文字の胸板」が見られることを理由に、着用者を甲斐(穴山領を除く)一国・諏方郡を領した河尻秀隆(注1)と推察している。
 同社には白糸威妻取大鎧残欠も所蔵されている。同氏によるとその製作年代は南北朝前期であり、中央の優秀な甲冑師によって製作されたものだという。
 甲府市五味信玄堂に信玄の弟・逍遥軒信綱所用と伝わる甲冑(兜鉢銘「信州上下諏訪大明神」「明珍左近将監紀信家作之」)がある。この兜の前立は天衝であり、これは伝小幡信真(伊澤コレクション所蔵)・真田昌幸(真田宝物館所蔵)のものにも用いられていて、並角本に装着する形式をとっている。また長岳寺(長野県下伊那郡)には、信玄所用と伝わる三鍬形台と共に「伝 逍遥軒所用朱漆塗練革大日の丸前立」が現存しており、これも並角本で立てられていたものである。これらの例を見ると、武田家中では比較的大きな立物を使用していたものと考えられる。



D


   D背面
 武田勝頼所用の甲冑が冨士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)にあるが、残念なことに終戦後に兜が盗難に遭い、所蔵者が別々になってしまっている。
 兜は富士山形の前立を配した紅糸威鉄錆地六十二間小星兜(東京都西光寺所蔵)で、鉢裏には「上州住康重作」「元亀三年壬申二月 日」の作銘がある。[革毎]は鉄板札の大振の饅頭[革毎]であり、吹返には梵字の据文(片方欠損)が打たれ、兜の正面には並角本が付けられている。
 鎧は紅糸威最上胴丸Dで、十一間六段下がり草摺である。金具廻りは梨子地塗で桐紋の金蒔絵を施し、唐花菱紋の八双鋲を用いる。総鉄製で大柄な胴であるため、かなりの重量がある。

 同社には、朱札紅糸威胴丸(広袖付)の残欠Eが伝わっている。由来等は明らかでないが、武田氏所縁の武将が奉納したことに間違いない大変貴重な物である。同社の宝物は、刀剣を含めた武田氏関連の武具甲冑の宝庫であり、今後も大切に伝えて行かねばならぬものばかりである。

注1 秀隆は山県昌満の旧臣・三井十右衛門によって討たれたが、その時にかぶっていた紅糸威鉄錆地三十間筋兜が今でも三井家に伝わっている。

主 要 参 考 文 献
三浦一郎 『武田信玄 その武具と武装』 オオヤ
山上八郎 『日本甲冑一〇〇選』 秋田書店
伊澤昭二 『小田原の甲冑』 名著出版
藤本正行 『鎧をまとう人びと』吉川弘文館
三浦一郎 「美和神社所蔵の丸胴」『甲冑武具研究』124号


E


掲載(転載)許可を頂いたところ

寒川神社、東京国立博物館、下諏訪町立諏訪湖博物館、茅野市頼岳寺、富士山本宮浅間神社
『図説 武田信玄公』武田神社、『特別展 日本の甲冑〜岩崎城の時代〜』岩崎城歴史記念館


BGM 信長の野望 武将風雲録「甲斐の虎 下の巻」データ制作 Feisas様 神聖グランライド王国

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