勝頼の最期と織田信忠による首実検




 『甲陽軍鑑』『甲乱記』などに、勝頼主従は華々しく戦って討死を遂げたと記されているが、史実は、そうではなかったらしい。
 勝頼は、戦闘に参加することなく具足櫃の上に腰掛けていた。嫡子信勝が討死し、勝頼の前面を防備していた土屋右衛門尉昌恒も、滝川一益の家臣・滝川儀太夫によって簡単に討ち取られてしまった。その直後、側面より後の福島正則の家臣・伊藤伊右衛門永光が勝頼を襲い、一刀のもとに討ち果たして首を挙げたという。
 永光の同輩の津田小平次は、勝頼の最期の模様を眼前に見ていたが、勝頼は太刀で防戦するかにみえたが、飢えと疲労のために動けず、永光によって簡単に討ち取られてしまったと、自記に記している。
 勝頼の首は、永光の鞍の四緒手(しおで)にくくり付けられ、織田信忠のもとに届けられたが、首実検の際、多くの大将首が運ばれたため、勝頼の首が分からなくなってしまった。当初、小原丹後守継忠の首が勝頼のものとされたが、勝頼の首の斬口に、永光の馬の毛がついていたので、やっと判別できたという。





           勝頼主従の辞世の句
(『理慶尼記』)



勝頼室 北条氏
 「かゑる雁 頼む疎隔の 言の葉お もちて相模の 国府(こふ)におとせよ」
 「ねにたてゝ さそなおしまん ちる花の 色おつらぬる 枝の鶯」  

 「黒髪の 乱れたる世ぞ 果しなき 思いに消る 露の玉の緒」(『甲乱記』)


武田太郎信勝
 「またき散る 花とおしむな おそくとく ついに嵐の 春の夕暮」
 「あたに見よ 誰もあらしの 桜花 咲ちるほとは 春の夜の夢」(辞世)


武田大膳大夫勝頼
 「朧(おぼろ)なる 月もほのかに 雲かすみ 晴て行衛(ゆくゑ)の 西の山の端」


土屋右衛門尉昌恒
 「俤(おもかけ)の みをしはなれぬ 月なれば 出(いづ)るも入るも おなじ山の端」


土屋昌恒の弟(秋山勝久か)
 「夢とみる 程もおくれて 世の中に 嵐の桜 散りはのこらし」





                勝頼父子らの戒名


                    妙心寺 位牌

          玉 山 竜 公 大 禅 門   武田  四郎 勝頼
          春 山 華 公 大 禅 門   武田  太郎 信勝
          英 叟 智 雄 禅 定 門   武田 相模守 信豊


                   天童山景徳院 位牌

         景徳院殿頼山勝公大居士   武田 四郎 勝頼
         北条院殿模安妙相大禅定尼 (内 室) 北 条 氏
         法雲院殿甲巌勝信大居士   武田 太郎 信勝


                   高野山引導院 位牌

              泰山宗安大禅定門   武田 勝頼
              英材雄公大禅定門   武田 太郎


              高野山引導院 位牌(米倉種継建立)

           景徳院殿頼山勝公大禅定門   武田 勝頼
           北条院殿模安妙相大禅定尼  御台(北条氏)
           甲 岩 勝 信 大 禅 定 門      息男(信勝)


                   高野山成慶院 位牌

            法泉寺殿泰山安公大禅定門  武田 勝頼


                 金剛福聚山法泉寺 位牌

           法泉寺殿泰山安公大居士   武田 四郎 勝頼





                織田信長による首実検



 三月十四日、信濃浪合において勝頼父子の首実検が行われたが、その時の模様が『常山紀談』にこう記されている。

  勝頼の首を、滝川が士 滝川荘左衛門といふ使番に持たせて、信長に
 見せ思せば、さまざまに罵りて、杖にて二つつきて後、足にて蹴られけり。

 真偽の程はともかく、信長は武田氏を非常に憎んでいたのでこのような態度に出たと思われる。
 『信長公記』は、勝頼の首を信長に見せた人物として関 可兵衛・桑原 介六を挙げている。翌日、飯田において大雨の降るなか勝頼父子の首が晒され、見物人でひしめきあったという。


        「信長の野望」 データ制作 Feisasさん 転載元 神聖グランライド王国


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