真 田 信 綱 ・ 昌 幸 所 用 甲 冑

 天正三年(1575)五月二十一日、武田勝頼は長篠城の後詰として出陣してきた織田・徳川連合軍と合戦に及び、大敗を喫した。そこで多くの武田氏家臣たちと共に、岩櫃城代真田源太左衛門尉信綱と次弟兵部丞昌輝は討死を遂げた。信綱は家康の家臣渡辺半十郎政綱に討ち取られたという(享年三十九歳)。首は敵に持ち去られたが(注1)、胴は甲冑姿のまま家臣の白川勘解由兄弟(注2)が小県郡真田郷へ持ち帰り、そのまま埋葬した。
 享保年間、信綱寺を移築する際に信綱の墓より甲冑が出土した。横矧の桶側胴を黒漆で塗り、一部に金箔を押した古風な仏二枚胴具足である。それが現代にまで大切に保存されている。


真田信綱墓所出土 黒漆塗仏二枚胴具足



伝 白川勘解由所用
血染めの陣羽織




面は黒漆塗烈勢頬
垂は板物三段素懸威



黒漆塗馬革包仏二枚胴具足
(「登り梯子の鎧」といわれる)




 二人の兄が討死すると、武藤三郎左衛門尉の名跡を継承していた喜兵衛尉昌幸は、真田氏の家督を継いだ。その後の活躍ぶりはご存じの通りである。ここでは、二領(注3)伝わっている昌幸所用甲冑のうちの松代藩真田家伝来品(注4)をご紹介したい。
 この仏胴は、桶側胴の表面に馬革を貼って、その上に黒漆を塗り、銀粉で四段梯子を斜めに描いている。草摺は縫延碁石頭札七間四段下がりを金茶糸で威しており、兜は突パイ形黒漆塗で、前正中のみ銀泊押とし、角本には天衝を挿入している。袖は具しておらず、実戦用の甲冑であるといえる。 



1.『信長公記』巻八に「討ち捕る頸の見知る分」として「さなだ源太左衛門」の名が挙げられている。だが、同書に昌輝の記述はない。しかし、『日本戦史 長篠役補伝』第五十八に高木清秀が昌輝と鑓を合わせたという記述がみられる。
2.白川兄弟は信綱の供養を済ませたあと、殉死したという。信綱寺には、陣羽織と白絹地の背旗が伝えられている。
3.もう一領は、昌幸の家臣河野清右衛門が戦功により拝領したと伝えられるもので、現在上田市立博物館に寄託されている。
4.真田宝物館所蔵。文久年間の松代藩の道具帳には朱塗であったと記載されている。


主 要 参 考 文 献

笹間良彦『日本甲冑大図鑑』柏書房
『真田氏史料集』上田市立博物館
丸山彭『長篠合戦余話』長篠城址史跡保存館

掲載(転載)許可を頂いたところ

真田町信綱寺、真田宝物館、『図説 武田信玄公』武田神社、
『真田三代〜近世大名への道〜』松代藩文化施設管理事務所


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