信濃先方衆 真田氏家臣総覧             


執 筆 石 野 真 琴  編 集 宮 下 帯 刀



真田氏について


 真田氏は信州小県郡山家郷を本貫とする豪族で、真田幸綱を領主と仰いでいた頃、神川の右岸地域、大日向、真田、横沢、横尾(一部が右岸地域にもあったらしい)、上・中・下原村、本領1600貫文を領していたとあり、これに田役米94石が新たに加わった。世に流布する真田幸隆は真田幸綱が正しい。
 その後、武田氏に随臣した後に、砥石城攻略による恩賞として諏訪方、横田遺跡・上条合わせて1000貫文を与えられ、さらに昌幸を人質として甲府に送って350貫文が追加された。単純に計算するとこれでおおよそ3000貫文である。これに現在の真田町の一部を領有していたであろう曲尾氏・横尾氏の領地を加えておよそ3500貫文を領しており、これは後の石高に換算すると一万石程度の所領となる。
 応永七年(1400年)の大塔合戦に「実田(さねだ)」の名が見え、また永享十年(1438年)の結城合戦には真田源太・源五・源六の名が見られる事から、真田氏は幸綱以前より、この地に長く土着していたものと考えられる。
 真田氏の基礎を築いた幸綱の出自に関しては、様々な家系図を元にした諸説がある。『矢沢系図』によれば頼綱は右馬助頼昌の息子とされており、小県の豪族海野棟綱の娘とこの頼昌との間に生まれた子ではないか思われる。しかし、同時期の望月氏にも頼昌の名が見られる事から、混同されているものと思われ、この辺の事実は判然としない。また海野棟綱の嫡子左京太夫幸義の弟という説も確証がない。真田氏は古来より存続した家であるので、幸義の次子が真田氏の家督を継いだと考える事もできるが、どこにもそれを裏付ける史料は無い。
 真田氏家臣団は大きく二つに分けることが出来る。それは、幸隆(幸綱)が武田氏に出仕した時に真田氏に従属した主に小県郡の武士で、もう一つは武田氏滅亡後に昌幸に属した武田氏旧臣(主に上野吾妻郡)である。




海野氏について


 海野氏は大塔合戦・結城合戦にもその名が見られるように、古くから小県郡にあった豪族である。『加沢記』によれば、桓武天皇の御子親王が信濃守護職として関東に下向し、滋野姓を賜ったとある。家祖はその御子親王の嫡子で海野小太郎滋野朝臣幸恒とされる。この幸恒の三人の息子が海野、祢津、望月の三家(滋野三家)に別れて、千曲川上下流に繁栄したのである。
 鎌倉初期の御家人で弓の名手として知られる海野幸氏は、上野国三原の庄(現在の嬬恋村・長野原町)の地頭であるから、滋野姓海野氏は上野国吾妻郡にまで広がっていたといえる。幸氏は甲斐の武田氏と領地争いを行ったとあり、幸氏の領地は甲斐と接するほどに広かったのであろうか。この訴訟は海野方の勝ちでおさまったとされる。
 また千曲川と犀川との合流地点(現在の長野市)の地名を家名とした小田切氏も滋野姓を称している。海野家の旗印である六文銭(六連点)は千曲川統合の旗印であったとも言う。
 天文十年の武田信虎の小県侵攻により、時の当主棟綱は上野に逃亡。嫡子左京太夫幸義は討死して、その正統は絶えたという。その後、信玄の次男信親(竜宝)が海野氏の家督を継いだ。その後信親は出家している。いずれにしろ海野家の正統を継ぐべき者は絶えて、海野家は滅び去ったのである。




望月氏について


 望月氏は滋野三家の一つである。佐久郡の勅使牧であった望月牧より名を取って望月と称したと思われる。望月氏は天文十二年の小県郡長窪城主 大井信隆の謀叛に荷担したため、一族は武田氏によって撫切り(皆殺し)となり滅んだとされるが、この時の幸綱の助言により、居城布引城は攻撃されずに残った。
 天文十八年頃幸綱の取りなしにより武田氏に随臣し、700貫文の本領を回復して武田氏の家臣団に加わっている。その後も望月氏自体は真田氏の家臣団には組み込まれなかったと思われる。
 信玄に嫁いだとされる望月御寮人周辺の事情はまったく不明だが、後に信玄の甥信雅(典厩信繁の子)が望月氏の家督を継いでいるので、信玄ではなく信繁の正室あるいは側室ではなかったかと思われる。また祢津・望月御寮人に関しては混同が見られるので、さらなる研究成果が待たれるところである。





真田昌幸の陣立に見る家臣衆『加沢記』


 真田昌幸が上州攻略にあたって兵を集めたときの陣立は以下の通りである。総勢3500騎とも言われる兵力を真田氏単独では集める事は出来ないので、武田勝頼の援助があったのであろう。

本陣     真田昌幸(総大将)
真田隠岐守信尹(舎弟)
海野中務大輔
金子美濃守
久屋三河守
旗奉行  宮下喜内
加沢助左衛門
先陣 700騎    渡辺左近允
西丸(山)市之丞
湯本三郎左衛門
中山安芸守
前備 500騎   鎌原宮内
和田主水
下沼田豊前守
脇備   野□二郎左衛門
□□□□
藤井嘉右衛門
左備 300騎   海野七左衛門尉
湯本左京進
加茂大膳
右備 200騎    春原勘左衛門
横谷掃部助
富沢伊予守
津久井刑部左衛門
旗本 150騎    矢野半左衛門尉
白倉武兵衛
赤沢常陸助
佐藤備後守
馬廻 500騎                    塚本舎人助
三橋甚太郎
丸山土佐守
木村戸右衛門
大熊五郎右衛門
河原左京
高梨兵庫助
富沢豊前守
横谷左近
蜂須賀舎人
徳蔵院
深井三弥
長野舎人
志賀又兵衛 
平賀右衛門
塩野井善八
小熊左兵尉
高野九太夫
 同 但馬守
武者奉行
足軽 100人
       
出浦上総介
佐藤備中守
植栗河内守
久屋左馬允
□□伊賀守
塩野井又市郎
尻高左馬允
塩原源太左衛門
後備 500騎       山口式部
原沢大蔵
中沢越後守
川合杢十郎
高橋右馬允
 同 右近
林太郎左衛門
退(しんがり)700騎                藤田能登守信吉
前後我見修理
木内甚五左衛門
岡本右京
石野大膳
中村式部
吉田惣助
戸田左馬允
小野大膳
戸田大膳
大淵勘助
山□□□□
梅沢孫右衛門
田村平助
上原藤助
林□□□
小荷駄奉行
足軽 100人
   
山越左内
割田下総
上原浅右衛門
一場太郎左衛門
沼田留守居役      海野能登守
下沼田道虎入道
小草野新三郎
岡野平内左衛門
山田文右衛門
石黒又八
使番      宮下藤左衛門
唐沢玄蕃允
山田与惣兵衛
神保佐左衛門
二宮勘解由
荒牧宮内左衛門
 


 『延宝期分限帳』の「知行召し上げ候組」の中に、以下七人の名がある。その名から察すると、これらはすべて代々の家臣であるから、藩主と家臣との間に大きないさかいがあったと思われる。いずれも真田幸綱・昌幸時代からの家臣であろうと思われる。

名 前 石 高 役 職
祢津 宮内 1500石 家 老
湯本 図書  800石  
鹿野 勘助  350石  
春原 徳右衛門  300石  
矢沢 八左衛門  200石  
清水 三郎兵衛    
木暮 加兵衛    





高野山九度山真田庵にある真田昌幸の墓



◎ 真 田 氏 家 臣 総 覧

名 前 事  項
荒牧 宮内少輔右衛門  長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。
蟻川 入道  西中城主。
池田 重安

 受領名佐渡守。池田重安は斎藤憲宗(憲広の嫡子)が嶽山に戻って来た時に、幸隆(幸綱)がその知謀を惜しんで説得し、重安が退去した後に嶽山城を攻めたとされる。嶽山城攻めは城を完全に包囲して、下から上に攻め上げると言うもので、城に立て籠もっている者を全滅させる戦であった。昌幸の代となっての真田氏の戦で武功をあげ、信幸に従って関ヶ原では東軍に参加し、その家名をのこしている。

一場 太郎左衛門  長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。
一場 茂左衛門  天正八年、中城小城を北条氏より奪還した。
出浦 盛清

 受領名対馬守。更級郡上平城主。横谷左近と共に松代藩の忍者の頭領といわれ、昌幸・信幸に仕えた。天正十八年の武州忍城攻めで活躍したという。

出浦 上総介

 天正十年の大戸城攻撃で手柄をあげ、慶長二年には岩櫃城代となっている。

植栗 河内守
植栗 安芸守

 植栗城主で永禄六年の長野原合戦の時に武田氏に降る。以降真田氏の合戦に参加。安芸守は河内守の息子で、大戸城攻略戦で敗死した。

浦野 七左衛門尉  根小屋城主。天正八年沼田攻略に従軍した。
海野 左馬允

 左馬允は幸隆の従兄弟とされている。海野を名乗っているが、どのような経緯かは分からない。竜宝が出家した後に海野の家督を継いだのであろうか。

海野(長門守)幸光
海野(能登守)輝幸
海野(中務太輔)幸貞
海野 太郎

 この四人は海野氏を名乗っているが小県郡海野氏ではなく、吾妻郡海野氏である。
 幸光と輝光の兄弟は、鎌原と領地争いを行ったとされる羽尾治部少輔景幸とその息子の治部入道道雲(幸世)の息子 修理亮幸全の弟である。羽尾氏と言えば幸景が知られるが、鎌原幸重と領地争いを行った時期の羽尾家の当主は、すでに幸世あるいは幸全であったと推測される。これは後に上杉謙信に提出した『関東幕注文』に「修理亮幸全」の名が見られることによる。この兄弟が海野を名乗る過程は不明であるが、天文十年に海野棟綱が小県の本領を追われて羽尾を頼った事と、何らかの関係があるものと思われる。この二人は羽尾家を離れて岩櫃城主・吾妻氏である斎藤筑前守憲広の元に出仕している。幸隆(幸綱)が岩櫃城を攻略するに当たって斎藤氏を見限り内応して、真田勢を手引きし臣従したという。海野中務太輔幸貞は輝幸の子で頼綱の婿となっている。
 昌幸の時代の天正九年、長門守幸光、能登守輝幸、中務太輔幸貞の三人は謀反の疑いをかけられ自害した。この翌年の天正十年には上杉氏が大戸攻略に動いている。昌幸は、一度裏切ったこの海野らが再び裏切る可能性があると考えたのであろうか。
 幸光の嫡子である海野太郎は連座させられる事無く、原監物に養育された。

大熊 五郎左衛門
大熊 勘右衛門
大熊(靱負)秀行

 大熊氏は越後長尾氏の重臣であったが、反旗を翻して後に武田氏に臣従した。武田氏滅亡後は昌幸に仕えた。五郎左衛門は備前守朝秀の嫡子で、勘右衛門は次男、靱負秀行は勘右衛門の息子である。五郎左衛門は沼田城攻略戦、対北条・徳川連合軍との合戦に参加。また関ヶ原合戦時には五郎左衛門と秀行は東軍として参加し、勘右衛門は大坂の陣で東軍に加わっている。

大戸 真楽斎
大戸(但馬守)重勝

 長野原合戦で真田軍に居城大戸城を攻められ、開城して武田氏に随臣している。岩櫃城攻略戦で人質として出されたのが但馬守重勝である。この親子は北条氏の大戸城攻めで自害して果てた。

小山田 茂誠(重誠)

 仮名六左衛門、受領名壱岐守。昌幸の長女で村松様と呼ばれる宝寿院は、甲斐の豪族小山田氏に嫁いでいる。相手は小山田備中守昌辰の息子茂誠である。昌辰は武田氏崩壊時に高遠城で討死しているが、茂誠は生き残り昌幸を頼って信濃へ向かい、真田氏の家臣となった。

加津野(真田)信尹

 仮名源次郎・市右衛門。官途名隠岐守。幸隆(幸綱)の四男で加津野氏へ養子に入った。永禄十二年の深沢城攻めでは北条綱成の旗指物を奪い名を馳せた。子孫は旗本として続いている。

金子 美濃守  天正八年に昌幸に出仕した。
河原 隆正

 受領名丹波守。隆正は幸隆の元に嫁いだ河原夫人の兄に当たる。従って義兄である。河原氏は小県海野氏において、代官衆に位置する家系であったとされる。

河原 綱家

 官途名右京亮。三人の兄が長篠合戦で討死したため家督を継ぎ、昌幸の家老となった。

唐沢 杢之助
唐沢 玄蕃

 杢之助は斎藤氏の家臣であったが、岩櫃城攻略戦で内応し武田氏に臣従。後に嶽山合戦で討死した。玄蕃は父の死後、家督を継いで真田氏の合戦に参加している。

鎌原 幸定

 幸隆の末弟とされる幸定は鎌原氏に養子へ出されているらしい。その後の消息は不明であり、鎌原氏には同年代の嫡子重澄がいる事から、この幸走が鎌原の家督を継いだとは思えない。いつの事だか判明しないが、鎌原氏と真田氏との間には同盟関係があったものと思われる。その時の人質であろうか。子孫は沼田真田氏の筆頭家老となった。

鎌原 幸重

 官途名宮内少輔。鎌原氏は鎌倉御家人海野幸氏の子孫で、滋野姓海野氏に連なる家系である。この鎌原氏は同族羽尾氏との領地争いがあって、永禄三年の春、幸隆(幸綱)に通じて武田氏に随臣した。一度その本領を羽尾に奪われるも(永禄五年十月)、武田氏および真田氏の尽力(長野原合戦)により、その本領を回復している。武田氏崩壊後は昌幸の配下として幾つもの合戦に参陣している。天正十年大戸城攻撃の戦で討死した。

鎌原(筑前守)重澄
鎌原(宮内少輔)重春
鎌原(石見守)重宗

 幸重の子が重澄、重澄の子が重春、重春の子が重宗である。武田氏に随臣した重澄は長篠合戦で討死。重春も天正十八年北条攻めの一環である松井田城攻めで討死し、また重宗は大坂の陣に従軍した。
 後の鎌原氏は真田氏の盟友であり、関ヶ原の合戦では信幸に従って東軍につき、その家名を残している。

斎藤 憲実

 仮名弥三郎。斎藤氏は吾妻氏で碓氷秋間氏と同族である。南北朝時代初期に岩櫃城主斎藤行盛(吾妻太郎)は里見氏と戦い戦死している。このことから見てこの吾妻郡に古くから覇を唱えて来た豪族であると言えよう。この行盛から数えて五代目の当主が斎藤憲広で、憲実はその甥に当たる。
 幸隆(幸綱)の岩櫃城攻略戦において斎藤憲広を見限り真田勢に荷担し、真田氏から送られた人質を天狗丸に避難させている。これより武田氏に仕えたものと思われるが、その後の消息が不明である為、退散したか病没したものと思われる。
 後の時代に沼田藩が生まれるが、当藩には斎藤氏は二家しかなく、弥三郎の子孫が仕えたものと思われる。

真田 信綱  信濃先方衆の項に掲載。
真田 昌輝

 官途名兵部丞。昌輝は幸隆の次子である。兄信綱の補佐役として、また真田氏の副将として、兄と一緒に戦っていたと思われる。天正三年の長篠合戦で討死した。
 兄の信綱にしても昌輝にしても、残された資料は非常に少なく、またその業績を伝えるものもない。子の信正は松平忠輝・忠昌に仕えている。

真田(武藤)昌幸  信濃先方衆の項に掲載。
塩谷 掃部介

 和利宮城主。長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。

鹿野 佑直
鹿野(志摩守)佑清
鹿野(和泉守)祐保

 鹿野氏は代々斎藤氏家臣の家柄である。岩櫃城が攻略されて武田氏に出仕。後に真田氏の戦に参戦。特に天正十年以降の合戦に参加している形跡がある。

鈴木 重則

 官途名主水。名胡桃城代。この重則の正覚寺での切腹が、太閤秀吉の小田原攻めの契機なったとして、日本史上にその名が残る武将である。子の右近忠重は信之の重臣となった。

常田 隆永・幸真・俊綱
   (道堯)
   

 仮名新六郎。幸隆の弟の隆永は小県郡上田の常田に移住しそれ以降、常田を家名としている。新六郎は永禄六年九月に吾妻郡長野原合戦で長野原砦の守将として働き、討死したという。また元亀三年に討死したともいわれている。

富沢(但馬守)行連
富沢 伊予守

 富沢氏は吾妻郡の大豪族で岩下城を預かっており、斎藤氏の重臣であったと思われる。斎藤憲広率いる武士団は岩下衆と呼ばれ、この地名をもって呼ばれる。
 富沢行連は岩櫃城攻略戦で内応した一人で、武田氏随臣後は吾妻衆の中心的人物となったと思われる。第一次上田城攻略戦に参加。伊予守は行連の息子で、行連に代わって長篠合戦、沼田城攻略戦、第一次上田城攻略戦、対北条氏戦など真田氏の主な戦に参加している。

富沢 出羽守
富沢 大学
富沢 豊前守
富沢 治部少輔

 岩井城主が出羽守で、行連らと同族であろうと思われる。出羽守はすぐに嫡子大学に家督を譲ったものか、その業績は伝わらない。大学は第一次上田城攻略戦に参加し、また対北条氏戦などにも参戦している。豊前守は大学の次子で、長篠の合戦、沼田城攻略戦、第一次上田城攻略戦、対北条氏戦など真田氏の戦に参加している。治部少輔は三男で長篠合戦で討死した。

西窪(治部左衛門)重知
西窪 蔵千代丸
西窪 治部少輔

 西窪氏は鎌原氏同様に滋野姓海野の血を引く家である、重知は幸隆(幸綱)が鎌原城と羽尾城を攻略した時に武田氏に臣従している。蔵千代丸は重知の息子である。
 この重知は後の岩櫃城攻略戦、そして永禄八年十月の嶽山合戦に参加し、討死にしている。蔵千代丸はこの時まだ元服していなかったものと思われる。
 治部少輔は蔵千代丸のその後なのか、別人なのか判明しないが、天正十八年松井田城攻めで戦死している。

祢津 元直  官途名宮内大輔。祢津氏は矢沢氏と同様に神氏に連なる家である。太古の時代に祢津氏は諏方神氏と繋がってその勢力を伸ばしたものと推測できる。滋野三家では海野氏をも凌ぐ所領を持つ家であった。海野家が加わった合戦ではしばし大将を引き受けていることから、往年の栄華が推測できる
 祢津氏の合戦として知られるのは、天文十年の信虎による小県侵攻戦で海野氏滅亡時に、矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕まったが諏方頼重に助けられた。この時信虎は、祢津城を攻め落としているらしい。
 元直は幸隆(幸綱)の武田氏出仕後、砥石城攻略において戦功があったらしく、真田氏が本領を回復すると同時に祢津の地も回復している。この時祢津氏が本領を回復したとすれば、祢津、田中、桜井、大石、柴生田、別府、賀沢、浦野、岡、青木、馬越、塩原、田沢、13ヶ村にものぼる。海野家の領地もおおよそ13ヶ村である。
 祢津元直は長篠合戦で討死する。
 真田昌幸が小県郡を平定するに当たって、真田氏と敵対していたが昌幸に屈して、真田氏は小領ながら独立を果たしている。
祢津 松鶴軒
祢津 常安兄
祢津 助右衛門尉
祢津(美濃守)信直

 祢津元直以外で祢津氏としてその名が見られるのは四人であるが、三人はその諱が伝わっていない。松鶴軒・常安兄の二人は元直の兄弟と見られるが詳細は不明で、元直が家督を継いだ同時期に庄内(更級郡)に千貫文を拝領したとある。おそらく祢津分家を開いたものであろう。
 助右衛門尉は小田原北条氏との戦い、関ヶ原の合戦にその名が見え、美濃守信直は岩櫃城合戦に参加している。この信直は元直の嫡子であろうか。
 また伝承によれば祢津御寮人が信玄の元に嫁いだとされる。

蜂須賀 縫殿助

 忍者であったといわれる人物だけに、活躍もその出自も伝わらない。この縫殿助は岩櫃城攻略戦で真田氏に内応した一人である。

春原 惣左衛門
春原 角八
春原 右衛門

 真田氏譜代の家臣として名が伝わる。角八は惣左衛門の子、右衛門は孫である。幸隆(幸綱)の砥石城攻略戦に参加したとされる。大坂の陣で信繁(幸村)について戦ったという。

丸山 土佐守

 真田氏譜代の家臣として名が残る。信幸の警護役を務めたという。天正八年沼田攻略に従軍した。

宮下 藤右衛門  孫兵衛の子。後に信之の家老となった。
矢沢 頼貞(頼康)

 仮名三十郎、受領名但馬守。矢沢頼綱の嫡子で父の死後矢沢氏の家督を相続する。父の名に恥じない猛将で昌幸および信幸を良く助けたとされる。後に矢沢の家は頼貞の弟頼邦が継いで、信幸時代以降、真田氏の重臣として活躍し、現在までその血を残している。現在松代に残る屋敷門が矢沢氏の往時を忍ばせている。

矢沢 頼綱(頼幸)

 仮名源之助、受領名薩摩守。真田幸隆(幸綱)の弟にあたる。諏方神氏流の矢沢氏の家督を相続する。矢沢氏は真田氏と同様に武田氏に臣従した家である。
 神氏は、諏方上社大祝である諏方氏を嫡流とする家柄で、信濃国一帯に広く分布している。小県郡の矢島氏も同族である。神氏の先祖は出雲系の神である建御名方命(たけのみなかたのみこと)と妃神八坂刀売命(やさかとめのみこと)で、父である大国主の国譲りに最後まで反対して、大和朝廷系の神である建御雷之男神(たけみかづちおのかみ)と戦い、諏方の海まで逃げて帰順したとされる。これは神代に激しい戦があったことを意味していると考えられ、建御名方命側が負けたのである。この建御名方命は諏方社に、建御雷之男神は鹿島神宮に祭られている。どちらも武神として戦国時代の武将たちの信仰があつい。また建御名方命は武南方神とも表記され、信玄が旗印として用いた事で知られる。
 頼綱は武勇に優れた武将であったといわれ、真田軍の中核、副将として常に幸隆(幸綱)を助けて戦場を往来した人物である。頼綱以降の矢沢氏は六文銭を表紋としているが、本来の家紋は鳥居であったとされる。
 真田氏三代に仕え、昌幸の時代になって完全に真田氏の家臣となった。神川の合戦と呼ばれる第一次上田城攻略戦においては、沼田城代としてその守りを固めている。
 慶長二年五月、八十年間生きた頼綱は天寿を全うして死去した。

山田 与惣兵尉

 頼綱の子と伝わる。長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。

湯本 善太郎
湯本 九右衛門
湯本 三郎右衛門
湯本 三郎左衛門尉

 湯本氏は草津谷の土豪でいかにもそれらしい家名である。地理的に見て鎌原氏に仕えていたものと推測される。
 善太郎は長野原合戦を契機に武田氏に仕官した。幸隆(幸綱)はこの善太郎の武勇を重んじ、岩櫃城攻略戦では二百余りの小隊を率いさせたと言う。その後の嶽山合戦で深手を負いながらも戦功をあげ、城代として主に幸隆(幸綱)時代に活躍した。善太郎は長篠の合戦で討死を遂げている。
 湯本の家督は甥の三郎右衛門が継いだ。九右衛門は善太郎の息子にあたる。

横谷(左近)幸重
横谷 惣左衛門
横谷(庄八郎)重氏

 真田氏譜代の重臣で、雁ヶ沢要害を任される。左近は真田氏の戦にはほとんど参加している。惣左衛門は左近の弟である。この二人は東軍として関ヶ原、大坂の陣に参加している。庄八郎重氏は兄と別れて昌幸・信繁(幸村)に臣従した。

割田 下総  長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。


沼田藩真田氏家臣総覧寛永五年〜天和元年




真田氏掲示板時 の 掲 示 板


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