信濃先方衆 真田氏家臣総覧 |
|
執 筆 石 野 真 琴 編 集 宮 下 帯 刀 |
『延宝期分限帳』の「知行召し上げ候組」の中に、以下七人の名がある。その名から察すると、これらはすべて代々の家臣であるから、藩主と家臣との間に大きないさかいがあったと思われる。いずれも真田幸綱・昌幸時代からの家臣であろうと思われる。
|
◎ 真 田 氏 家 臣 総 覧 |
名 前 | 事 項 |
荒牧 宮内少輔右衛門 | 長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。 |
蟻川 入道 | 西中城主。 |
池田 重安 |
受領名佐渡守。池田重安は斎藤憲宗(憲広の嫡子)が嶽山に戻って来た時に、幸隆(幸綱)がその知謀を惜しんで説得し、重安が退去した後に嶽山城を攻めたとされる。嶽山城攻めは城を完全に包囲して、下から上に攻め上げると言うもので、城に立て籠もっている者を全滅させる戦であった。昌幸の代となっての真田氏の戦で武功をあげ、信幸に従って関ヶ原では東軍に参加し、その家名をのこしている。 |
一場 太郎左衛門 | 長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。 |
一場 茂左衛門 | 天正八年、中城小城を北条氏より奪還した。 |
出浦 盛清 |
受領名対馬守。更級郡上平城主。横谷左近と共に松代藩の忍者の頭領といわれ、昌幸・信幸に仕えた。天正十八年の武州忍城攻めで活躍したという。 |
出浦 上総介 |
天正十年の大戸城攻撃で手柄をあげ、慶長二年には岩櫃城代となっている。 |
植栗 河内守 植栗 安芸守 |
植栗城主で永禄六年の長野原合戦の時に武田氏に降る。以降真田氏の合戦に参加。安芸守は河内守の息子で、大戸城攻略戦で敗死した。 |
浦野 七左衛門尉 | 根小屋城主。天正八年沼田攻略に従軍した。 |
海野 左馬允 |
左馬允は幸隆の従兄弟とされている。海野を名乗っているが、どのような経緯かは分からない。竜宝が出家した後に海野の家督を継いだのであろうか。 |
海野(長門守)幸光 海野(能登守)輝幸 海野(中務太輔)幸貞 海野 太郎 |
この四人は海野氏を名乗っているが小県郡海野氏ではなく、吾妻郡海野氏である。 |
大熊 五郎左衛門 大熊 勘右衛門 大熊(靱負)秀行 |
大熊氏は越後長尾氏の重臣であったが、反旗を翻して後に武田氏に臣従した。武田氏滅亡後は昌幸に仕えた。五郎左衛門は備前守朝秀の嫡子で、勘右衛門は次男、靱負秀行は勘右衛門の息子である。五郎左衛門は沼田城攻略戦、対北条・徳川連合軍との合戦に参加。また関ヶ原合戦時には五郎左衛門と秀行は東軍として参加し、勘右衛門は大坂の陣で東軍に加わっている。 |
大戸 真楽斎 大戸(但馬守)重勝 |
長野原合戦で真田軍に居城大戸城を攻められ、開城して武田氏に随臣している。岩櫃城攻略戦で人質として出されたのが但馬守重勝である。この親子は北条氏の大戸城攻めで自害して果てた。 |
小山田 茂誠(重誠) |
仮名六左衛門、受領名壱岐守。昌幸の長女で村松様と呼ばれる宝寿院は、甲斐の豪族小山田氏に嫁いでいる。相手は小山田備中守昌辰の息子茂誠である。昌辰は武田氏崩壊時に高遠城で討死しているが、茂誠は生き残り昌幸を頼って信濃へ向かい、真田氏の家臣となった。 |
加津野(真田)信尹 |
仮名源次郎・市右衛門。官途名隠岐守。幸隆(幸綱)の四男で加津野氏へ養子に入った。永禄十二年の深沢城攻めでは北条綱成の旗指物を奪い名を馳せた。子孫は旗本として続いている。 |
金子 美濃守 | 天正八年に昌幸に出仕した。 |
河原 隆正 |
受領名丹波守。隆正は幸隆の元に嫁いだ河原夫人の兄に当たる。従って義兄である。河原氏は小県海野氏において、代官衆に位置する家系であったとされる。 |
河原 綱家 |
官途名右京亮。三人の兄が長篠合戦で討死したため家督を継ぎ、昌幸の家老となった。 |
唐沢 杢之助 唐沢 玄蕃 |
杢之助は斎藤氏の家臣であったが、岩櫃城攻略戦で内応し武田氏に臣従。後に嶽山合戦で討死した。玄蕃は父の死後、家督を継いで真田氏の合戦に参加している。 |
鎌原 幸定 |
幸隆の末弟とされる幸定は鎌原氏に養子へ出されているらしい。その後の消息は不明であり、鎌原氏には同年代の嫡子重澄がいる事から、この幸走が鎌原の家督を継いだとは思えない。いつの事だか判明しないが、鎌原氏と真田氏との間には同盟関係があったものと思われる。その時の人質であろうか。子孫は沼田真田氏の筆頭家老となった。 |
鎌原 幸重 |
官途名宮内少輔。鎌原氏は鎌倉御家人海野幸氏の子孫で、滋野姓海野氏に連なる家系である。この鎌原氏は同族羽尾氏との領地争いがあって、永禄三年の春、幸隆(幸綱)に通じて武田氏に随臣した。一度その本領を羽尾に奪われるも(永禄五年十月)、武田氏および真田氏の尽力(長野原合戦)により、その本領を回復している。武田氏崩壊後は昌幸の配下として幾つもの合戦に参陣している。天正十年大戸城攻撃の戦で討死した。 |
鎌原(筑前守)重澄 鎌原(宮内少輔)重春 鎌原(石見守)重宗 |
幸重の子が重澄、重澄の子が重春、重春の子が重宗である。武田氏に随臣した重澄は長篠合戦で討死。重春も天正十八年北条攻めの一環である松井田城攻めで討死し、また重宗は大坂の陣に従軍した。 |
斎藤 憲実 |
仮名弥三郎。斎藤氏は吾妻氏で碓氷秋間氏と同族である。南北朝時代初期に岩櫃城主斎藤行盛(吾妻太郎)は里見氏と戦い戦死している。このことから見てこの吾妻郡に古くから覇を唱えて来た豪族であると言えよう。この行盛から数えて五代目の当主が斎藤憲広で、憲実はその甥に当たる。 |
真田 信綱 | 信濃先方衆の項に掲載。 |
真田 昌輝 |
官途名兵部丞。昌輝は幸隆の次子である。兄信綱の補佐役として、また真田氏の副将として、兄と一緒に戦っていたと思われる。天正三年の長篠合戦で討死した。 |
真田(武藤)昌幸 | 信濃先方衆の項に掲載。 |
塩谷 掃部介 |
和利宮城主。長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。 |
鹿野 佑直 鹿野(志摩守)佑清 鹿野(和泉守)祐保 |
鹿野氏は代々斎藤氏家臣の家柄である。岩櫃城が攻略されて武田氏に出仕。後に真田氏の戦に参戦。特に天正十年以降の合戦に参加している形跡がある。 |
鈴木 重則 |
官途名主水。名胡桃城代。この重則の正覚寺での切腹が、太閤秀吉の小田原攻めの契機なったとして、日本史上にその名が残る武将である。子の右近忠重は信之の重臣となった。 |
常田 隆永・幸真・俊綱 (道堯) |
仮名新六郎。幸隆の弟の隆永は小県郡上田の常田に移住しそれ以降、常田を家名としている。新六郎は永禄六年九月に吾妻郡長野原合戦で長野原砦の守将として働き、討死したという。また元亀三年に討死したともいわれている。 |
富沢(但馬守)行連 富沢 伊予守 |
富沢氏は吾妻郡の大豪族で岩下城を預かっており、斎藤氏の重臣であったと思われる。斎藤憲広率いる武士団は岩下衆と呼ばれ、この地名をもって呼ばれる。 |
富沢 出羽守 富沢 大学 富沢 豊前守 富沢 治部少輔 |
岩井城主が出羽守で、行連らと同族であろうと思われる。出羽守はすぐに嫡子大学に家督を譲ったものか、その業績は伝わらない。大学は第一次上田城攻略戦に参加し、また対北条氏戦などにも参戦している。豊前守は大学の次子で、長篠の合戦、沼田城攻略戦、第一次上田城攻略戦、対北条氏戦など真田氏の戦に参加している。治部少輔は三男で長篠合戦で討死した。 |
西窪(治部左衛門)重知 西窪 蔵千代丸 西窪 治部少輔 |
西窪氏は鎌原氏同様に滋野姓海野の血を引く家である、重知は幸隆(幸綱)が鎌原城と羽尾城を攻略した時に武田氏に臣従している。蔵千代丸は重知の息子である。 |
祢津 元直 | 官途名宮内大輔。祢津氏は矢沢氏と同様に神氏に連なる家である。太古の時代に祢津氏は諏方神氏と繋がってその勢力を伸ばしたものと推測できる。滋野三家では海野氏をも凌ぐ所領を持つ家であった。海野家が加わった合戦ではしばし大将を引き受けていることから、往年の栄華が推測できる 祢津氏の合戦として知られるのは、天文十年の信虎による小県侵攻戦で海野氏滅亡時に、矢沢頼綱と一緒に武田氏に捕まったが諏方頼重に助けられた。この時信虎は、祢津城を攻め落としているらしい。 元直は幸隆(幸綱)の武田氏出仕後、砥石城攻略において戦功があったらしく、真田氏が本領を回復すると同時に祢津の地も回復している。この時祢津氏が本領を回復したとすれば、祢津、田中、桜井、大石、柴生田、別府、賀沢、浦野、岡、青木、馬越、塩原、田沢、13ヶ村にものぼる。海野家の領地もおおよそ13ヶ村である。 祢津元直は長篠合戦で討死する。 真田昌幸が小県郡を平定するに当たって、真田氏と敵対していたが昌幸に屈して、真田氏は小領ながら独立を果たしている。 |
祢津 松鶴軒 祢津 常安兄 祢津 助右衛門尉 祢津(美濃守)信直 |
祢津元直以外で祢津氏としてその名が見られるのは四人であるが、三人はその諱が伝わっていない。松鶴軒・常安兄の二人は元直の兄弟と見られるが詳細は不明で、元直が家督を継いだ同時期に庄内(更級郡)に千貫文を拝領したとある。おそらく祢津分家を開いたものであろう。 |
蜂須賀 縫殿助 |
忍者であったといわれる人物だけに、活躍もその出自も伝わらない。この縫殿助は岩櫃城攻略戦で真田氏に内応した一人である。 |
春原 惣左衛門 春原 角八 春原 右衛門 |
真田氏譜代の家臣として名が伝わる。角八は惣左衛門の子、右衛門は孫である。幸隆(幸綱)の砥石城攻略戦に参加したとされる。大坂の陣で信繁(幸村)について戦ったという。 |
丸山 土佐守 |
真田氏譜代の家臣として名が残る。信幸の警護役を務めたという。天正八年沼田攻略に従軍した。 |
宮下 藤右衛門 | 孫兵衛の子。後に信之の家老となった。 |
矢沢 頼貞(頼康) |
仮名三十郎、受領名但馬守。矢沢頼綱の嫡子で父の死後矢沢氏の家督を相続する。父の名に恥じない猛将で昌幸および信幸を良く助けたとされる。後に矢沢の家は頼貞の弟頼邦が継いで、信幸時代以降、真田氏の重臣として活躍し、現在までその血を残している。現在松代に残る屋敷門が矢沢氏の往時を忍ばせている。 |
矢沢 頼綱(頼幸) |
仮名源之助、受領名薩摩守。真田幸隆(幸綱)の弟にあたる。諏方神氏流の矢沢氏の家督を相続する。矢沢氏は真田氏と同様に武田氏に臣従した家である。 |
山田 与惣兵尉 |
頼綱の子と伝わる。長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。 |
湯本 善太郎 湯本 九右衛門 湯本 三郎右衛門 湯本 三郎左衛門尉 |
湯本氏は草津谷の土豪でいかにもそれらしい家名である。地理的に見て鎌原氏に仕えていたものと推測される。 |
横谷(左近)幸重 横谷 惣左衛門 横谷(庄八郎)重氏 |
真田氏譜代の重臣で、雁ヶ沢要害を任される。左近は真田氏の戦にはほとんど参加している。惣左衛門は左近の弟である。この二人は東軍として関ヶ原、大坂の陣に参加している。庄八郎重氏は兄と別れて昌幸・信繁(幸村)に臣従した。 |
割田 下総 | 長篠合戦、天正八年沼田攻略に従軍した。 |
◎沼田藩真田氏家臣総覧(寛永五年〜天和元年) ◎真田氏掲示板「時 の 掲 示 板」へ |