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穴山 信友

 永正三年(1506)〜永禄三年(1560)。穴山信綱の子。甲斐河内下山城主。伊豆守、幡竜斎と称した。武田穴山氏は信友の父の代の大永元年(1521)に武田氏に帰順し、その後武田氏有力一門として重きをなした。




穴山(武田)信君

 天文十年(1541)〜天正十年(1582)。母は信虎の娘・南松院。幼名勝千代。仮名彦六郎、左衛門大夫・玄蕃頭、陸奥守、梅雪斎不白と称した。本領の甲斐河内領の他に駿河興津・江尻を領し、親類衆筆頭の地位にあった。永禄元年(1558)に父信友より家督を継承し、天正八年に出家とともに隠居した。
 天正三年、山県昌景の跡をうけて江尻城代となり、駿河を支配した。同十年二月には徳川家康に内通して本領を安堵され、武田氏の名跡を継承した。六月二日、本能寺の変により家康と共に本国を目指したが、梅雪は持病の痔が起きて馬に乗れなかったため別行動となった。そして山城国綴喜郡草内村のあたりで土民に襲撃され殺害された。四十二歳。ルイス・フロイス『日本史』には「穴山殿は遅れ、また少数の部下を従したため、更に不幸にして一度ならず襲撃せられ、先ず部下と荷物とを失ひ、最後に殺されたり」と最期の模様が記されている。
 『甲陽軍鑑』には、梅雪は異相人で夷子大黒のような姿をしており、紙子の衣を造ってそれを着て歩いていると書かかれている。




穴山(武田)信治

 元亀三年(1572)〜天正十五年(1587)。母は信玄の娘・見性院。幼名勝千代。甲斐河内・駿河江尻領主。天正八年、九歳にして父信君より家督を譲られたという。同年六月に疱瘡のため死去。十六歳。その名跡は家康五男・万千代(信吉)に継承された。

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一条 信竜

 〜天正十年(1582)。信虎の九男。市川郷上野城主。駿府・田中城代を務める。官途名右衛門大夫、上野介。松永久秀・石山本願寺との外交は信竜が担当した。武田氏滅亡時には、上野城で子の信就と共に徳川軍を迎え撃ち討死した。『信長公記』では信忠が処刑したとしている。『甲陽軍鑑』のなかで山県昌景が「伊達男にして花麗を好む性質なり」と評している。




一条 信就

 〜天正十年(1582)。信竜の嫡男。官途名右衛門大夫。市川郷上野城主。父信竜に代わって駿河田中城代を務め、天正十年に父と共に討死した。

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海野 信親

 天文十年(1541)〜天正十年(1582)。信玄の次男。竜宝と号す。若年時に海野幸義の名跡を継承したが、盲目であったため長延寺実了の弟子となり、「御聖道様」と称された。武田氏滅亡時に自刃。子孫は幕府の高家になった。

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葛山 信貞

 〜天正十年(1582)。信玄の六男。仮名十郎。葛山氏元の養子となって家督を継ぎ、元亀二年の小田原北条氏との同盟成立によって本領を回復した。政務は葛山氏の一族の御宿友綱が執った。信貞は武田氏滅亡時に甲府善光寺で誅された。

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木曽 義昌

 天文九年(1540)〜文禄四年(1595)。義康の嫡男。仮名宗太郎、左馬頭、伊予守を称した。信玄の娘を娶り親類衆に列せられた。天正十年(1582)二月に叛旗を翻し、武田氏滅亡の契機を作った。同十八年、徳川氏の関東転封に属して下総阿知戸一万石に移封され、その後嫡子の義利が家督を継いだ。

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下条 信氏

 享禄二年(1529)〜天正十年(1582)。信濃国伊奈吉岡城主下条時氏の嫡男。兵庫助、伊豆守を称す。妻は信玄の妹。山県昌景の相備衆となって各地を転戦した。天正十年(1582)二月に家老の下条氏長が織田氏に内通したため三河黒瀬へ逃亡し、六月に死去した。孫の康長が徳川氏に仕え家名を再興したが、同十五年に没落した。

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武田 勝頼


 天文十五年(1546)〜天正十年(1582)。信玄の四男で仮名四郎、家督継承後に大膳大夫を称す。永禄五年(1562)に母の実家諏方氏の名跡を継承して諏方四郎勝頼と称し、信濃高遠城主となった。同八年に織田信長の養女遠山直廉の娘を妻に迎えた。同十年の兄義信の死によって信玄の嫡男となり、元亀二年に躑躅ケ崎館に移り名字を武田氏に改めた。同四年(1573)四月、信玄死去により家督を継承したが、信玄の死は秘せられたため、七月頃に家督を継承したという形がとられた。天正三年五月、織田・徳川連合軍と三河長篠で合戦におよび大敗を喫した。同五年には北条氏政の妹を後妻に迎えたが、同六年の越後御館の乱で上杉景勝と同盟したため、織田・徳川氏の他に北条氏とも敵対することになり、東西からの脅威に晒されることになった。同九年には家臣の反対を押しきって韮崎に築城し、躑躅ケ崎館より未完成の新府城に移転した。同十年二月よりの織田氏の侵攻によって三月十一日に田野において討死した。三十七歳。

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武田 信勝

 永禄十年(1567)〜天正十年(1582)。武田勝頼の嫡男で幼名武王丸、仮名太郎。天正七年(1579)頃元服したと考えられている。同十年三月十一日、父勝頼らと共に討死した。十六歳。

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武田 信廉

 天文元年(1532)〜天正十年(1582)。信虎の六男。仮名孫六、官途名刑部少輔。信玄死後に出家して逍遥軒信綱と称した。元亀元年(1570)に内藤昌秀に代わって信濃深志城代、同二年には勝頼に代わって信濃高遠城主を務めた。天正九年(1581)には信濃大島城に在城した。翌十年二月の織田氏侵攻の際にはろくな抵抗も見せずに甲斐に退却し、三月七日に織田信忠によって斬首された。五十一歳。




武田 信澄

 永禄三年(1560)〜天正四年(1576)。武田信廉の長男。仮名平太郎。

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武田(河窪

 〜天正三年(1575)。信虎の十男。官途名兵庫助。元亀二年の兄信是の死後、嫡子信俊がその遺跡を継承すると、信是の遺領もあわせて管轄した。天正三年五月二十一日の三河長篠合戦では鳶ノ巣砦を守備したが、徳川軍の猛攻により討死した。




武田(河窪)信俊

 永禄七年(1564)〜寛永十六年(1639)。信実の嫡男。仮名新十郎、官途名与左衛門尉。元亀二年の叔父信是の死後その家督を継ぎ松尾氏を称した。天正三年に父が討死すると、その遺領もあわせて継承した。天正十一年に徳川家康に仕え、子孫は旗本となった。

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武田(吉田)信繁

 大永五年(1525)〜永禄四年(1561)。信虎の四男。仮名次郎、官途名左馬助。天文二十年武田氏庶流吉田氏の名跡を継承。信玄の信頼が厚く信玄に代わってしばしば全軍の総大将を務めた。永禄四年九月十日の信濃川中島合戦で柿崎景家軍と戦って討死した。三十七歳。




望月 信頼

 天文十六年(1547)〜永禄七年(1564)。武田信繁の長男。仮名三郎。信濃望月氏の名跡を継承して望月三郎と称した。永禄七年に十八歳という若さで死去した。




武田 信豊

 天文十八年(1549)〜天正十年(1582)。武田信繁の次男だが嫡子とされた。幼名長老、仮名六郎次郎。永禄十二年より官途名左馬助、天正八年より受領名相模守を称す。天正二年には勝頼に代わって全軍の総大将を務め、父と同様「副将」と俗称された。また、足利将軍家や上杉氏・関東諸勢力などとの外交を幅広く担った。天正十年二月に、離反した木曽氏討伐を実行するが破れて甲斐に退却した。関東での再起を図って信濃小室城に逃れるが、城代の下曽根氏の謀叛にあい討死した。三十四歳。

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武田 信友

 〜天正十年(1582)。信虎の五男。仮名六郎、官途名左京亮。元亀元年より受領名上野介を称す。名は信基とも。永禄十一年(1568)十二月に信玄が駿河に侵攻してくると今川氏から離反してこれに従った。天正三年の長篠合戦の後に隠遁したが、同十年の武田氏滅亡時に織田信忠によって斬首された。




武田 信堯

 天文二十三年(1554)〜天正十年(1582)。武田信友の長男。幼名勝千代、官途名左衛門佐。駿府城代を務めたといわれる。天正十年二月の徳川氏の侵攻により撤退したが、翌月に織田信忠によって甲斐善光寺で斬首された。二十九歳。

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武田 義信

 天文七年(1538)〜永禄十年(1567)。信玄の長男。仮名太郎。天文二十二年に将軍義輝の偏諱をうけて実名を義信と名乗った。同二十三年、十七歳で初陣し、信玄に従って信濃伊奈郡の平定にあたった。その後、信玄の嫡子として徐々に武田氏権力において重きをなしていったとみられるが、永禄八年頃から今川氏政策をめぐって対立した。八月頃に宿老飯富虎昌らと謀って謀叛を企てたが失敗して甲斐東光寺に幽閉され、同年十月十九日に自害させられた。三十歳。

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仁科 盛信

 弘治三年(1557)〜天正十年(1582)。信玄の五男。仮名五郎。信濃の国衆仁科盛政の名跡を継承し仁科氏を称す。天正九年、仁科森城より高遠に移り高遠城主となる。翌年三月二日、織田氏の猛攻により討死した。二十六歳。

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松尾 信是

 〜元亀二年(1571)。信虎の七男。官途名民部少輔。松尾氏の名跡を継承し、松尾源十郎と称す。元亀二年に死去したため、家督は弟信実の子信俊が信是の娘を娶って継承した。

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安田(武田)信清

 永禄六年(1563)〜寛永十九年(1642)。信玄の七男で幼名大勝。永禄十年に加賀美法善寺に入って玄竜と号した。天正六年(1578)に兄勝頼の命により還俗し安田三郎信清と名乗った。同十年の武田氏滅亡時には僧姿に変装して高野山無量光院に逃れ、その後姉菊姫を頼り上杉景勝の家臣となった。名字を武田に改めて大膳大夫を称し、上杉氏の一門に列せられた。寛永十九年三月二十一日に八十歳で病死した。子孫は米沢藩上杉氏の高家衆筆頭として続いた。




      主要参考文献 柴辻俊六 編 『武田信玄大事典』 新人物往来社


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