越中先方衆について



宮下帯刀 この議論は、私が「棒道(リンク)」に荒法師様のホームページ(『椎名康胤と松倉城』)を「越中先方衆・椎名氏のページ」と紹介したことに始まります。


荒法師 越中先方衆について疑問があります。「甲陽軍鑑」に、「武田法院信玄公御代総人数之事」として、越中先方衆に椎名康胤 百七十騎 永禄8年亀松を人質として信玄に従うとあります。椎名家家老であったという、「武隈家文書」には、天文18年甲州に赴き、信州更級郡に数千畝の田地与えられたという伝説が記述されています。
 また、松倉城落城の原因となったのは、信州からの領地からの百姓が食糧を届けにきたと偽って、城内に入り、城の東に火を放ったからだと伝えます。「北越軍談」にも、「甲陽軍鑑」と同様の記述があるのです。
 また、飛騨の神岡城(東町城)は、山県三郎兵衛昌景が築城したと伝えます。事実、武田が好んで用いた三日月堀が古図に残っています。文書でも、信玄は一向一揆に椎名康胤支援を要請しています。
 これだけの資料があれば、椎名康胤が武田信玄の越中先方衆であったとするのは誰も否定しないでしょうが、荒法師はこれは史実とは異なるという見方をし、明快にこれを否定します。この理由を荒法師のサイト、「椎名康胤と松倉城」・松倉城史話(資料 1)に所載します。活発な議論をしたいと思います。



     (資料 1) 『椎名康胤と松倉城』ホームページ 「松倉城史話」より転載 


               「武田の松倉攻め」   

                                   平成12年12月17日


 

 飛騨神岡城のパンフレットに、神岡城(東町城)は、山県三郎兵衛昌景がこの城を拠点として、飛騨・越中攻撃の拠点としたとあります。 事実、武田が好んで用いた三日月堀が古図に残っています。たしかに武田信玄は、飛騨に勢力を広げ、上杉謙信はその対応として川中島にも出陣しました。「甲陽軍鑑」には、「武田法院信玄公御代総人数之事」として、越中先方衆に椎名康胤 百七十騎 永禄8年亀松を人質として信玄に従うとあります。更に、椎名甚衛門、是は五騎にて馬場美濃守与付也ともあります。椎名家家老であったという、「武隈家文書」には、天文18年甲州に赴き、信州更級郡に数千畝の田地与えられたという伝説が記述されています。「北越軍談」にも、「甲陽軍鑑」と同様の記述があるのです。 また、松倉城落城の原因となったのは、信州からの領地からの百姓が食糧を届けにきたと偽って、城内に入り、城の東に火を放ったからだと伝えます。椎名康胤が上杉謙信に反旗を翻し、謙信が松倉城を攻めた永禄11年がら12年、信玄は一向一揆の勝興寺に椎名康胤支援を要請しています。 これだけの資料があれば、「甲陽軍鑑」にあるように、椎名康胤が武田信玄の越中先方衆であったとするのは誰も否定しないでしょうが、荒法師はこれは史実とは異なるという見方をし、明快にこれを否定します。

 それは、永禄11年から12年にかけて、越後の上杉謙信に反旗を翻したのは、椎名康胤だけでは無いという事実です。永禄11年、突然、神保長職の家臣、寺島職定がこの年突然、立山町にある池田城に入城しました。職定はかなり用意周到な戦の準備をしていたようです。椎名の持ち城であった新庄城にも人を派遣するなど、明らかに、椎名氏と連携していたようです。 

 これは越中の武将を上げて、上杉に対抗しようという意図があったのです。

理由は、背後にあった一向一揆であったと考えます。越中は、古来より真宗の布教が進んだ地域です。加賀に一向一揆の持ちたる国が出来、これを能登畠山は押さえることが出来ず、越後の力を借りなければなりませんでした。それでも、鎮定に出陣した長尾能景が越中で討ち死にするくらいで、以来、永正年間にも、為景と越中の国人団が合戦に及んでいます。 

 永禄11年に、本願寺は加賀だけでなく越中も一向一揆が持ちたる国にしようと画策したのではないでしょうか。松倉は、親鸞伝説が伝わる位、真宗との関わりが深い地域です。椎名康胤の配下の武士の大半は、真宗と深い絆があったと考えます。しかし、上杉謙信は無敵の武将で、椎名康胤単独ではとても戦えません。越中の神保氏がこれに同調し、一向一揆の寺院と連合を組んで上杉と対抗したのです。決して武田の越中先方衆という位置づけでは無かったと考えます。


宮下帯刀 武田氏の飛騨出兵について少し調べてみました。

1.永禄7年1月、山県昌景が桜洞城下を放火した。
2.元亀3年7月、山村良利らの木曽衆が高原諏訪城を攻撃。これによって、江馬輝盛は越中に逃亡した。(その後、山村氏は美濃安弘見・茄子川の300貫文の恩賞を与えられた)

 このような軍事行動がみられます。私まだまだ不勉強で、現在の時点では越中先方衆・椎名康胤について分かりません。飛騨国司の三木氏には属しておらず、康胤の弟・甚左衛門は馬場美濃守の寄子ですので、先方衆といえる存在だとは思うのですが・・・。誰か教えて欲しいものです。


荒法師

 この当時、越中では、上杉謙信と一向一揆が富山城で合戦していました。上杉謙信は、江馬輝盛に越中出陣を求め、輝盛は越中に出兵しました。これは、一級文書によって確認された史実です。したがって高原諏訪城攻撃は疑問です。また、三木と江馬は仲が悪くかったのですが、越中を敵に回すと塩の道が閉ざされるので、越中の武将とは割と良好な関係にあったようです。江馬も三木も越中に商いのための出城がありました。この関係はたいへん面白いのです。


宮下帯刀

 「武田の松倉攻め」を読ませて頂きました。永禄十一年、椎名康胤は一向一揆や寺島職定(神保家臣)と共に上杉輝虎(謙信)に叛したのですね。
 私が思うに、康胤は武田氏の傘下になるというかたちで、信玄の力を借りようとしたのではないでしょうか。信玄が一向一揆の勝興寺に対して康胤支援を依頼していることからみても、従属関係にあると思われます。越中において康胤本人が独立性を主張していたとしても、武田氏の視点からすれば「越中先方衆」になってしまうような気が致します。


小林

 ニュアンス的には違うと思いますが、郡内小山田氏も北条氏の家臣団に加えられていることがありますね。もともと独立領主ですし、地理的にも経済的にも相模とは繋がりが強かった為当然かもしれませんが。郡内小山田氏・河内穴山氏の勢力を考えると、武田宗家の力は、甲斐国内だけで見ると対して大きくない様に感じますね。圧倒的な力の差がない限り、国人領主を家臣化するということは難しいですね。


荒法師

 先方衆。これは難しい問題ですね。例えば、元亀3年の江馬輝盛の話をしますが、江馬輝盛は、上杉謙信の求めに応じて越中に出陣するのですが、突然帰陣してしまいます。後で、謙信に詫びを入れるのですが、その背景には、武田信玄の密使が江馬に密書を届けているのではないかと思います。武田信玄はそんな武将です。謙信は天才ですから、裏切りなんか全く気にしないですね。だって戦えば勝のですから。椎名から見て、武田は上杉の遙か彼方です。先方衆という概念は無かったと思いますが。


宮下帯刀


>椎名から見て、武田は上杉の遙か彼方です。先方衆という概念は無かったと思いますが。
 この論理(遠近の問題)は通用しないと思います。(強い申しようでスイマセン)俗に「信長包囲網」と呼ばれているものがありますが、この構想を練った一員である信玄は、非常に大局的な考え方をする人物だと思います。飛騨なら、まだ近いような気が致しますが・・・。


荒法師

 越中先方衆ですが、この問題は、歴史の盲点かもしれません。

>この論理(遠近の問題)は通用しないと思います。(強い申しようでスイマセン)俗に「信長包囲網」と呼ばれているものがありますが、この構想を練った一員である信玄公は、非常に大局的な考え方をする人物だと思います。飛騨なら、まだ近いような気が致しますが・・・。
 これは、確かにそうかもしれません。しかし、荒法師の「論」をご検討下さい。

 武田信玄と椎名康胤は間接的に連携していたことは歴史の事実であります。これを本願寺(一向一揆)の側から見てみましょう。本願寺と武田信玄は対等の関係にありました。武田信玄が京を目指し進発したとき、本願寺はこれを支援するため、領国加賀一向一揆に、越中の上杉討伐を命じました。この背景には、伊勢長島の一向一揆が織田の攻撃にさらされており、本願寺にとっては、この危機を救う目的がありました。すなわち、相互互恵です。本願寺にとっては、武田信玄を手駒として使い、信長という法難を跳ね返すことが目的でした。したがって、越中の椎名康胤も門徒の一人として、法難を救うため参陣したのです。決して、武田の越中先方衆という目的で参陣したのでは無いのであります。
 越前・加賀・越中は、浄土真宗の根強いところであります。荒法師宅もその一軒で、寺院とのおつきあいは親密です。
 連如創建の城端町善徳寺は、織田の攻撃に唯一落城しなかった鉄壁の城塞寺院で、善徳寺空勝は大坂を初め各地を転戦し、本願寺を支えました。この善徳寺には、明治の終わり頃まで、大谷家の「お姫様」が住んでおられました。御殿もそのまま残っています。信仰厚き人なら誰でも見学できますよ。現在も残る風土から考えても、むしろ武田は本願寺の甲斐先方衆であって、椎名康胤は決して決して、武田の越中先方衆では無いのであります。


小林


>本願寺と武田信玄は対等の関係にありました。武田信玄が京を目指し進発したとき、本願寺はこれを支援するため、領国加賀一向一揆に、越中の上杉討伐を命じました。この背景には、伊勢長島の一向一揆が織田の攻撃にさらされており、本願寺にとっては、この危機を救う目的がありました。すなわち、相互互恵です。
 これはその通りですね。また、信玄の正妻と顕如の妻はたしか姉妹でしたよね?

>本願寺にとっては、武田信玄を手駒として使い、信長という法難を跳ね返すことが目的でした。したがって、越中の椎名康胤も門徒の一人として、法難を救うため参陣したのです。決して、武田の越中先方衆という目的で参陣したのでは無いのであります。
 越中の国そのものが本願寺体制であったと思います。
つまり、他国では村社会を基本にした寄親寄子制度が軍制の根幹ですが、越中においては村社会を纏めるものとしての寺院の力が強く(信仰が深く根付いている)、そのため国人領主の思惑だけでは行動出来なかったのではないでしょうか。配下の寄親寄子が付いて来てくれなければ何も出来ません。従って、やはり武田先方衆というよりも本願寺の思惑で行動していたと考えられます。

>越前・加賀・越中は、浄土真宗の根強いところであります。荒法師宅もその一軒で、寺院とのおつきあいは親密です。連如創建の城端町善徳寺は、織田の攻撃に唯一落城しなかった鉄壁の城塞寺院で、善徳寺空勝は大坂を初め各地を転戦し、本願寺を支えました。この善徳寺には、明治の終わり頃まで、大谷家の「お姫様」が住んでおられました。御殿もそのまま残っています。信仰厚き人なら誰でも見学できますよ。
 私も砺波の近くの寺院(名前は失念しましたが)を見学したことがあります。
正門に竜の立派な彫り物のある寺院でしたが、こちらでは考えられないほどの規模のもので、当時の本願寺の財力・政治力の大きさが窺えました。

>現在も残る風土から考えても、むしろ武田は本願寺の甲斐先方衆であって
 甲斐・信濃においては本願寺の影響力はそれほど強くありません。村社会においても本願寺の影響は見られません。よって、対等な同盟者ではあってもどちらかが先方衆ということは無いですね。私は「先方衆=大国の圧力をまともに受けた国人領主」だと考えます。
 2大国の領国の境界にいた国人領主は、そういった意味でどちらの先方衆に数えられても仕方が無いと思います。逆に強い影響力を及ぼせない地域に先方衆は基本的に存在しないと思います。
 当時は現在の常識では考えられない程地理的条件により行動が制限されていましたから、そのあたりも念頭において考えて見る必要があると思いますね。


荒法師 武田信玄が、本願寺から見たら甲斐先方衆というのは、荒法師の書き過ぎで撤回いたします。いずれにしろ、以上の結論から、武田方の越中先方衆というのは、存在しなかったということに立ち至ると考えられます。


小林

 先方衆という組織に組み込んだものではありませんが、越中に打ち込んだ武田の楔くらいに考えれば良いのではないでしょうか。信玄は、本願寺と利害が対立しない限り、対上杉に越中方面で使える勢力と考えていたのかもしれませんね。


荒法師

 たしかにそうかもそれません。永禄11年から12年の越中ですが、諸将の動きが不穏です。
上杉謙信は、飛騨の三木氏に越中新川郡を任せてもいいと言っています。椎名も三木氏が越中東郡内(新川郡)に進出しても認めると言っています。椎名は、自分が、越後につこうが武田につこうがどうでも良いとも言っています。しかし、寺島職定は信州への商人の往来を禁止しています。
 方策がすごく矛盾しているのです。恐らく椎名康胤等の越中の武将は、考えられるありとあらゆる方策を駆使し生き残りをかけたのでしょうが、弱小大名の悲哀でしょうか。上杉謙信の圧倒的な力には、矢尽き刀折れて滅亡の道を歩んだのでしょう。


宮下帯刀

 お二人とも、よく勉強されていて凄いですね。私の出る幕はなさそうです。
 私は「先方衆」という言葉が、くせ者なのだと思います。先方衆は武田氏に従属する他国衆を指しますから、椎名氏は当てはまらないということですね。小林さまがおっしゃる「楔」という表現が一番当たっているような気が致します。
 椎名氏を「越中先方衆」に位置付けしたのは『甲陽軍鑑』の作者ですので、その説を史実として捉えてはならぬと感じました。


上総介


>私は「先方衆」という言葉が、くせものなのだと思います。先方衆は武田氏に従属する他国衆ですから、椎名氏は当てはまらないということですね。小林さまがおっしゃる「楔」という表現が一番当たっているような気が致します。
 越中・椎名氏は甲斐・武田氏から見れば、「越中先方衆」という位置付けになってしまうのではないでしょうか。
 武田家では、一般に新占領地(信濃・西上野)の武士団を先方衆と定義していますが、先方衆には従来の家臣・領地を持ったまま武田氏に服属した武士団もいます。私は越中・椎名氏はこの意味で「先方衆」の部類に入ると考察します。現に椎名氏は、武田氏から干渉も、介入もされた形跡がありません(時間的他国間との問題で先延ばしされたともいえますが)。

>椎名氏を「越中先方衆」に位置付けしたのは『甲陽軍鑑』の作者ですので、その説を史実として捉えてはならぬと感じました。
 『甲陽軍鑑』は従来、研究者の間では一次史料とは呼べない悪書と定義されてきましたが、近年は書誌学的な研究が進んだ結果、信じられる史料として復権されました(それでもまだ問題点も残りますが)。
 また、『軍鑑』が悪書という評価を受けてた頃でも、武田家の編成表は、確実な原書を元に写された、信用できるものとされてきました。私は以上の点から、武田家から見れば、越中・椎名氏は一時的にでも「越中先方衆」という位置付けでいいのではと考察します。


荒法師

 時間が無いので結論から申し上げて、「甲陽軍鑑」は、非常にまじめに書かれた名著だと思います。よく調査されており、かなり事実が含まれていると考えます。問題は、非常にまじめに書きすぎて、武士の世である近世の価値観で書いてしまったことにあります。
 中世には武家だけでなく、僧や商人を生業にする人も生き残るために城を築き戦った社会背景が忘却しています。戦国時代、武家だけ取り上げるのは問題です。私が、椎名康胤ではなく、あえて「荒法師」と名乗るのもそこにあります。椎名康胤の父は出家して道山と名乗りました。武田信玄や上杉謙信もそうでしょう。神仏の世界が中世です。
 たとえば、諏訪は、諏訪氏の所領と考えるのは間違いで、諏訪大社の所領と考えるべきです。戦国大名はこれを否定しましたが。ということで、難しいことを述べましたが、「軍鑑」だけ読んで越中椎名氏を武田の越中先方衆とするのには問題があると考えます。


上総介

 荒法師さんの『甲陽軍鑑』の評価も適切だと思います。述べれられた問題点は『軍鑑』が持つ問題点の一つと私も思いますが、『軍鑑』の(品第十七)の「武田法性院信玄公御大惣人数之事」という武田家の編成表は確実な原書から写されたもので、『軍鑑』の評価が低かった頃でも、この部分は確実な史料という評価が与えられてきました。論文でも昭和47年7月の『日本歴史』に小林計一郎氏の「甲陽軍艦の武田家臣編成表について」という素晴らしい研究があります。この論文に反対論文は聞きませんし、「越中先方衆」という言葉はこの編成表から来ているものですから、『軍鑑』のこの記述は重要です。荒法師さんの御見解は『軍鑑』のこの部分が問題となりますから、『軍鑑』の書誌学的な考察も含めて話さなければならないので膨大な問題です。
 武田家でいう先方衆は新占領地の武士団を呼ぶ事もありますが、従来通り領地、家臣も安堵され服属した武士団も「先方衆」と呼んでいます。椎名氏は後者の例で「先方衆」という呼ばれ方をしたのではないでしょうか。椎名氏は必ずしも、武田家に従属した「先方衆」でない事は『勝興寺文書』の信玄が神保・椎名が和睦して謙信に挑む事を期待し、一向宗勝興寺に調略を依頼している事からも窺えます。
 このような「先方衆」の武田家の矛盾は武田家の問題点の一つで、その家臣団が崩壊しやすいものだったという見解を柴辻氏が述べています。
 荒法師さんの越中・椎名氏は武田家の「越中先方衆」ではないという御見解は先学の方には無いご意見ですから、よっぽどの史料の提示が必要とされるでしょう。滅亡した家のため、史料が少ないですが、頑張って下さい。帯刀さんの荒法師さんのリンク紹介の文字に「越中先方衆」という言葉は削るというので、これで一つの答えで宜しいのではないでしょうか。


荒法師

 この中世の歴史の見直しは、若手の歴史家によってすでに始まっています。参考までに、伊藤正敏氏の『日本の中世寺院』(吉川弘文館)をご一読ください。内容は、過激です。印象に残るのは、同氏は、「寺院と宗教の関係を切り離す」と述べていることです。あと10年すれば、日本の歴史の教科書は書き換えられていると思います。もしお時間がおありなら、「城郭寺院研究会」のサイトをお尋ねください。荒法師が運営しています。「椎名康胤と松倉城」のサイトのリンクから入ることが出きると思います。


上総介


>この中世の歴史の見直しは、若手の歴史家によってすでに始まっています。
 これは存じています。神田千里先生を始めとする諸先生から御教示を頂いております。

>あと10年すれば、日本の歴史の教科書は書き換えられていると思います。
 う〜ん。大幅な書き換えは難しいのではないでしょうか。文部省の検定は厳しいですし、ご存知のように権威主義ですからね。もっと長い年数をかけて論じていかなければいけないでしょう。

>もしお時間がおありなら、「城郭寺院研究会」のサイトをお尋ねください。
 越中・椎名氏は「越中先方衆」にあらずから、お話が中世の寺院のお話になってしまいましたね。寺院は専門外になりますから、眺めさせて頂くだけにさせていただきます。荒法師さんの越中・椎名氏研究、楽しみです。


なべ@静岡

 椎名氏をめぐる論戦、一通り拝見させていただきました。当時の武田氏と椎名氏の力関係は対等だったんでしょうか?私はこの点が疑問です。
 武田氏から見た場合、椎名氏は対等以下の存在だったのではないでしょうか。その結果が「越中先方衆」という言葉に表れているように思います。直接の主従関係があったかどうかは別として・・・。
 当時の椎名氏側からした場合、「先方衆と言われる筋合いはない」という感情があったのでしょうか?この点も疑問です。現代人の見方と当時の見方は大分違うはず。この点、もっと、もっと深く掘り下げてみて欲しいです。


荒法師


> 当時の武田氏と椎名氏の力関係は対等だったんでしょうか?私はこの点が疑問です。武田氏から見た場合、椎名氏は対等以下の存在だったのではないでしょうか。その結果が「越中先方衆」という言葉に表れているように思います。
 上杉と武田はライバルと言われていますが、上杉景勝が上杉謙信没後の跡目争いの際、武田勝頼を頼りました。その見返りに、武田は、越後領内の根知城を得ました。根知城は、糸魚川市街のすぐ近くで、北陸道を制圧する拠点となる要衝です。景勝は思い切った決断をしたと思います。しかし、「軍鑑」は上杉を武田の越後先方衆とは書きませんでした。恐らくこのことを知らなかったのか。知っていても書けなかったと思います。

> 直接の主従関係があったかどうかは別として・・・。当時の椎名氏側からした場合、「先方衆と言われる筋合いはない」という感情があったのでしょうか?この点も疑問です。現代人の見方と当時の見方は大分違うはず。この点、もっと、もっと深く掘り下げてみて欲しいです。
 確かにこの点が、どうしても議論のすれ違いになるところです。「先方衆」というのは、軍学的色彩の強い武家中心の江戸時代の発想だと思います。繰り返すことになりますが、当時の椎名から見て、そのとき何が重要だったのか。椎名のサイトで、松倉城下から魚津に退転した寺院を調べたのですが、大半が浄土真宗の寺院でした。越中の武士団には、「南無阿弥陀仏」の中に自分たちがある。という考えが強いと思います。越後の上杉(長尾)と越中武士団との合戦の背景には、「一向一揆」があります。加賀に「百姓が持ちたる国」が100年も続きました。北陸に居住する者として、皆様にぜひこれを理解していただきたいものだと思います。
 ただ、一向一揆というものはどのようなものだったのか。私たちは、これに迫ろうとするのですが、どうしても近世の概念に縛られます。これは、私たちには理解できないところが余りにもありすぎます。歴史の教科書が変わらないと難しいなと思いますよ。この点で議論する必要があるなら、別項で新規にお願いしたいと思います。


なべ@静岡


> 上杉と武田はライバルと言われていますが、上杉景勝が上杉謙信没後の跡目争いの際、武田勝頼を頼りました。その見返りに、武田は、越後領内の根知城を得ました。根知城は、糸魚川市街のすぐ近くで、北陸道を制圧する拠点となる要衝です景勝は思い切った決断をしたと思います。しかし、「軍鑑」は上杉を武田の越後先方衆とは書きませんでした。恐らくこのことを知らなかったのか。知っていても書けなかったと思います。
 この点は、明らかに基準となる年代が異なると思います。「軍鑑」の「総人数之事」は永録・元亀年代を基準に置いていると思われます。この時点で、上杉家は敵対関係と言って良いはずです。両家とも上杉家に敵対していたという点は同じですが、力に差がありすぎるように思います。永録8年の段階で子供(男子)を人質に送っているということは、武田>椎名という力関係であったことは明白と思われます。(記述が正しいならばですが・・・。)人質を送る=従属するということはごく当たり前の判断と思われます。もし、対等であったならば、人質のやり取りは無いか、婚姻関係という形で姫を送るという形になったと思われます。
 他の越中の国人達がそういった直接武田家と同盟あるいは従属に結びつくような関係を持っていなかったがために、「軍鑑」にも記述が無いのではないでしょうか。


荒法師


> 永録8年の段階で子供(男子)を人質に送っているということは、武田>椎名という力関係であったことは明白と思われます。(記述が正しいならばですが・・・。)
 この記述は誤りだと思います。まず、椎名康胤の長男は、元亀2年52歳で没しています。椎名康胤のもう一人の子は、越後長尾家に人質に出され、永禄3年には、長尾遠江守の跡目をついて、長尾小四郎景直と名乗っています。椎名康胤は、天正4年に没しますが、系譜が事実なら80歳近い高齢で没したことになります。年齢から考えて永禄8年で亀松を養子に出したといいますが、元服前の子供は居なかったと思います。もっとも、荒法師はこの年齢に疑問を持ち、椎名の系譜を再検討しようとしていますが。
 今ひとつ、江戸の初期に書かれた松倉城の古城記「新川郷庄古城」には、武田の話は一切出ません。江戸の後期に書かれた「家記」に武田の話が出ます。どうも、「甲陽軍鑑」などを読んでこれに伝説をあわせたふしがあります。名著に歴史が振り回されているような気がします。





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