大島城(台城)について




上片桐 長野県下伊那郡松川町の天竜川のほとりにあるのが、大島城(台城)です。はじめは南信濃源氏片切氏の支族大島八郎宗綱が平安時代この地に館を築いた。戦国時代、大島氏が武田氏に服属すると、武田信玄は元亀2年に伊那郡代秋山信友に命じて当城を大修築して、高遠・飯田城と共に伊那計略の一大拠点とした。伊那郡下33の郷村から城普請の人足を強制的に厳しく取り立てた(ひどい話だ。今は適正な税金を払わない輩もいるのに。)ことを物語る武田信玄の朱印状が現存している。現状の大島城はその時のもので、戦国時代の武田氏の築城法を伝えている。天正10年、織田氏の侵攻により落城し、武田信廉らが自ら城に火を放ち、逃亡した。とういうような略史です。皆様一度訪れてみてはいかが?ちなみに私は、大学で日本史を専攻しただけで、今は関係のない仕事に就いております。伊那谷生まれの育ちであります。いわゆるオタクではありません。まー地元でない人が、伊那谷のことを詳しいことには驚きました


宮下帯刀

>長野県下伊那郡松川町の天竜川のほとりにあるのが、大島城(台城)です。はじめは南信濃源氏片切氏の支族大島八郎宗綱が平安時代この地に館を築いた。

 保元・平治の乱で活躍した片切景重の弟ですね。

>戦国時代、大島氏が武田氏に服属すると、武田信玄は元亀2年に伊那郡代秋山信友に命じて当城を大修築して、高遠・飯田城と共に伊那計略の一大拠点とした。伊那郡下33の郷村から城普請の人足を強制的に厳しく取り立てた(ひどい話だ。今は適正な税金を払わない輩もいるのに。)ことを物語る武田信玄の朱印状が現存している。
 前々から不思議に思っていたんですが、なぜ大島城周辺の大島・片切郷の人足が駆り立てられなかったのでしょうか。この地域は秋山信友同心衆の支配下にあるというのに。

>現状の大島城はその時のもので、戦国時代の武田氏の築城法を伝えている。
 昔の姿をよくとどめていますね。松川町指定史跡じゃもったいないくらいです。長野県指定史跡にすべきです。

> 天正10年、織田氏の侵攻により落城し、武田信廉らが自ら城に火を放ち、逃亡した。
 地下人に火を放たれ、籠城どころじゃなかったようですね。皆、逃亡したと考えられているのですが、『開善寺過去帳』を見ると切腹した人もいるんですよ。

>まー地元でない人が、伊那谷のことを詳しいことには驚きました。
 武田氏が領有したからだと思いますよ。例えば鈴岡小笠原氏が大島郷に城を築いたとしても(まずあり得ない話だが)、さほど注目されないでしょうからね。


荒法師 荒法師は、大島城を訪れて城の精密な実測図を作成しました。

>現状の大島城はその時のもので、戦国時代の武田氏の築城法を伝えている。
 まさにその通りです。その中でも、大島城は遺構の保存状態が良く特筆すべき城です。武田の城作りは、虎口(こぐち)の三日月堀に特徴があります。この虎口の特徴の比較研究が最近の中世城郭研究の発端になりました。関東の後北条や、近畿の織豊系武将の虎口編年研究によって、この城は誰が築いたのかが判るようになりました。

> 天正10年、織田氏の侵攻により落城し、武田信廉らが自ら城に火を放ち、逃亡した。
 しかしです。どんなに立派な城を築いても所詮守るのは人です。「人は石垣」「人は城」というのは、実に名言だと思います。


荒法師 昔の大島城は、今と比較にならない数倍広い、広大な城でしたよね。荒法師は富山に住んでいますが、武田の著名な城はいくつも歩きました。いちばん記憶にあるのが、新府城のはるかかなたにある総構えです。これを見ると、新府城は篭城するためにあるのでは無いことが判ります。


小林

> いちばん記憶にあるのが、新府城のはるかかなたにある総構えです。
> これを見ると、新府城は篭城するためにあるのでは無いことが判ります。
 七里岩台地を横断する空掘りは、タンク郎さんによると徳川家康が北条氏直と対陣した時に築いた可能性が大きいそうです。私は武田家が築いたものとした方が利に適っていると思いますが、若しかしたら武田家が時期的・財政的に実現できなかったものを家康が引き継いで完成させたのかも知れませんね。憶測ですが。
 また、以前から私が疑問に思っているのは、新府城の丸馬出しの位置です。当然攻撃正面に来るはずの施設が、何故か南側の中腹にあるように通説ではなっています。大島城を見ても分るように、台地の突端を利用して城砦とするのが武田家後期の城には良く見られます。攻撃正面を限定して戦う為だと思われますが、丸馬出しはこの時攻城軍に対して砦(出構)のような働きをするものだと思います。北側の鉄砲出構えも小さなもので、とても火力の集中運用はできそうもありません。
 いずれにしても、地形の大きさ(城郭だけではなく)からみれば、新府城は武田の決戦用の城として納得の行く規模の要塞だと思います。戦術上は1万程の兵力でも充分に倍、3倍の織田軍と戦えたのではないでしょうか。


荒法師

> 大島城を見ても分るように、台地の突端を利用して城砦とするのが武田家後期の城には良く見られます。攻撃正面を限定して戦う為だと思われますが、丸馬出しはこの時攻城軍に対して砦(出構)のような働きをするものだと思います。
 城郭の構造について、荒法師の考えを述べたいと思います。武田は独自の三日月堀を用いた丸馬出を考え出しました。新府城や大島城、牧之島城などは、全く同様の虎口構造を持っています。
 丸馬出と二重平虎口。これについて述べると長くなるので省略しますが、武田の戦術が標準化されていることが窺えます。馬出しは砦の意味もありますが、虎口の防御に最も適していると考えたのでしょう。

> 北側の鉄砲出構えも小さなもので、とても火力の集中運用はできそうもありません。
 荒法師は、これを実見してものすごい発想をしているなと感じました。攻撃軍に対して横矢を入れているのです。横矢というより楔ですよ。これは
横矢をかけるというのは攻撃の常道で、兵の脇を狙うことで戦国期の城には横矢を入れる工夫がふんだんに取り入れてあります。
この城の縄張りは尋常の人物が考えたのではないと思います。

> いずれにしても、地形の大きさ(城郭だけではなく)からみれば、新府城は武田の決戦用の城として納得の行く規模の要塞だと思います。
> 戦術上は1万程の兵力でも充分に倍、3倍の織田軍と戦えたのではないでしょうか。
 戦術的にはそのように考えられるかもしれませんが、城は権威の象徴です。織田信長が安土城を築いた理由は、安土城で決戦するためではありません。家臣を威圧するためのものです。新府城も家臣に武田の武威を誇示するためのもので、外壁も「どうだ見て見ろ」といった類でしょうね。
 また、篭城するなら新府城は大きすぎます。このように大きな城は、家臣の心が離反したらもろいのです。早く岩殿城に入っておれば今しばらく持ちこたえたかもしれません。岩殿城なら300名おれば守れます。という風に荒法師は考えます。


小林

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荒法師は、これを実見してものすごい発想をしているなと感じました。攻撃軍に対して横矢を入れているのです。横矢というより楔ですよ。これは横矢をかけるというのは攻撃の常道で、兵の脇を狙うことで戦国期の城には横矢を入れる工夫がふんだんに取り入れてあります。この城の縄張りは尋常の人物が考えたのではないと思います。
 西洋で言えばウィーン城・ロードス島、日本でいえば五稜郭ほどの規模で突出した出構えであれば、私もそう考えます。
 しかし、新府城の出構えは低く、狭い。せいぜい1箇所に20〜30人程度しか入れません。突出した出構えは当然第一攻撃目標になりますから、相応の防備が必要です。新府城の鉄砲出構えは、その点で効果を発揮できたか疑問ですね。

>
戦術的にはそのように考えられるかもしれませんが、城は権威の象徴です。織田信長が安土城を築いた理由は、安土城で決戦するためではありません。家臣を威圧するためのものです。新府城も家臣に武田の武威を誇示するためのもので、外壁も「どうだ見て見ろ」といった類でしょうね。
  これはタンク郎さんから教えていただいたのですが、新府城の本曲輪・二の曲輪は躑躅ヶ崎とほぼ同じ面積らしいです。政庁機能を持っていたのは間違いなさそうです。
 ただ、威信のために築いたという見方には疑問的です。当時の武田家の財政上、威信のためという理由で城を築くような余裕はないと思われます。やはり、第一義には織田との戦いを意識しての行動でしょう。

>
また、篭城するなら新府城は大きすぎます。このように大きな城は、家臣の心が離反したらもろいのです。早く岩殿城に入っておれば今しばらく持ちこたえたかもしれません。岩殿城なら300名おれば守れます。
 私は新府城の運用の仕方は、所謂一般的に思われている篭城戦を行うものではないと思います。七里岩台地という天嶮を利用した野戦用の作戦本部のようなものだと思います。私が前回書き込んだ1万程度の兵力で…というのは、能見城などの支城との連携を保ちつつ積極的に打って出る行動を念頭に置いています。
 現在韮崎市の教育委員会が新府城の調査を行っています。通説での大手門の位置を疑うに足るものも出土しているみたいですね。(資料 1)



(資料 1)山梨日日新聞 2000年(平成12年) 12月26日より転載

新府城跡 搦手付近で炭出土 韮崎市教委 礎石6個も確認

 韮崎市の国指定史跡・新府城跡の搦手(からめて・裏門)があったとされる場所から、門が焼けてできたとみられる炭や、門柱の礎石が二十五日までに韮崎市教委の試掘調査で見つかった。同城は武田勝頼が一五八一(天正九)年に築城、翌年に自ら火を放った城として知られているが、門の存在とともに、焼け落ちたことを裏付ける遺構が確認されたのは初めて。一方、これまで大手門(正門)があったとされる城跡南側からは、これまでの調査で礎石が見つからず、大手門が定説とは違った場所にあった可能性も浮上している。
 同市教委によると、搦手は新府城跡の北西にあり、礎石は城の入り口にあたる枡形虎口(ますがたこぐち)の内側で見つかった。三個ずつ並んだ礎石が二列、合計六個あり、礎石の上や周辺に門の建築材が焼けてできたとみられる炭が残っていた。焼けたことで赤みを帯びた土もあった。
 礎石は約五十センチ四方の大きさで、約一・五メートル間隔で並んでいた。門の間は一間(約一・八メートル)離れていた。二つの礎石の上に門が建ち、残りの四つの礎石に設けた柱で支える四脚門とみられている。鉄くぎは礎石の周辺に約二十本見つかった。礎石の外側には土止め用の石積みも確認された。市教委は今後、炭を分析し材質など門の全容を解明する。
 一方、市教委のこれまでの調査で、城跡南側の大手門があったとされる場所からは門の礎石が発見されなかった。城跡東側に位置する空き地からは大きな枡形虎口と土塁が見つかっており、大手門が城跡の東側に位置していたのではないかとの見方も出ている。
 市教委は来春から城跡東側の空き地を試掘調査する。調査結果によっては大手門の位置に関する定説が覆される可能性もあるという。一方で、市教委は「大手門が定説通りに城跡南側に作られたが、未完成だったために礎石が発見されていないことなども考えられる」として、今後の調査や専門家の意見を聞きながら、大手門の位置を探る方針。



荒法師

> 私は新府城の運用の仕方は、所謂一般的に思われている篭城戦を行うものではないと思います。七里岩台地という天嶮を利用した野戦用の作戦本部のようなものだと思います。
 小林様と結論は同じなのですが、荒法師が考えるプロセスが異なります。戦国末期の城郭は、軍事的目的よりも、政治的目的が大きいのです。

>
現在韮崎市の教育委員会が新府城の調査を行っています。通説での大手門の位置を疑うに足るものも出土しているみたいですね。
 荒法師も搦め手門を実見しました。礎石の城門は、他からの移設(寺院等)です。そのような事例があります。戦国末期、銃砲火の激しい城門は、この攻撃から門を守るため、門を正面に向けない築城法が発達しました。馬出しや枡形門です。但し、そうであろうと思うだけで、誰も実際の合戦を見た人がいないので、本当かと訪ねられたら、「推定でしかありません」と答えざるを得ません。武田の丸馬出は、考古学的には、立証不可能な事例です。門の柱は地中深く埋めた事例もあります。但し、考古学的には立証されていません。しかし能登の七尾城からは、地中から深く埋め込まれて門の柱が掘り出され、資料館に残っています。教育委員会の報告は評価が疑問。お城に関しては、残念ながら考古学的な蓄積がまだ不十分です。それから、お城は、考古学的手法では解明が困難な場合が多いと思います。史料を含め多方面からの検証が必要です。もう一段深い考察を期待します。 


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