信玄の母親に別人説?




上総介 何方か、信玄の母が大井氏ではなく、上杉朝興・女とする武田系図を発見されたという矢崎勝巳氏の記事が載った1999年11月25日・朝日新聞山梨版をご存じの方、詳しいお話と事実を是非ともご教示お願い致します。 


宮下帯刀 朝日新聞の記事を読ませて頂きました。
率直な感想を申し上げますと、この系図(信玄七男・信清の末裔が米沢図書館に寄贈)の記述は信に足るものとは思えません。内容は『甲陽軍鑑』より引用*しており、それは軍鑑の記述のなかでも首をかしげてしまう部分です。また系図の記載方法が幼稚に感じられます。内容についてもう一度、よく吟味されれば、おかしいとお気づきになると思います。

 * 幼名を勝千代としていること。初陣で平賀源心を討取ったとしていることや、山本菅助ではなく、山本勘助道鬼としていることなど。

「晴信 大永元年 生 甲府。母 川越女。小名 勝千代、或 太郎。天文五年三月 執 前髪、時十六歳。号 大膳大夫、又 信濃守、甲斐守、或 左京大夫。(中略)同十二月廿八日、於 信州海口 討 平賀源心、始 著 武名。(中略)山本勘助道鬼(以下略)」


上総介(1)


小林 やはり、後世の人が信玄の最初の妻と生母を取り違えて書いたものでしょうか?内藤昌豊→昌秀、真田幸隆→幸綱など部将の諱も誤って伝わっているものがあるようですね。
 ところで、馬場美濃守の諱の信房は実際使われていたものでしょうか?民部を名乗っていた頃に使用していたのかな?


上総介

> やはり、後世の人が信玄の最初の妻と生母を取り違えて書いたものでしょうか?
 私もそのように考えました。よくある例ですからね。

>内藤昌豊→昌秀、真田幸隆→幸綱など部将の諱も誤って伝わっているものがあるようですね。
 このような誤伝は多いですね。林通勝→秀貞、織田信行→信勝。

> ところで、馬場美濃守の諱の信房は実際使われていたものでしょうか?民部を名乗っていた頃に使用していたのかな?
 『武田信玄大事典』でも、諱に様々なものが伝わっていると執筆者の方もお困りの様でしたね。馬場は今後、調べがいのある人物ともいえますね。


宮下帯刀

> 内藤昌豊→昌秀、真田幸隆→幸綱など部将の諱も誤って伝わっているものがあるようですね。
> このような誤伝は多いですね。林通勝→秀貞、織田信行→信勝。
 本当にそうですね。内藤・真田ならともかく、織田家筆頭家老の林秀貞の名前が、何故誤伝されたのでしょうか。不思議でたまりません。

> > ところで、馬場美濃守の諱の信房は実際使われていたものでしょうか?民部を名乗っていた頃に使用していたのかな?
 私は、改名後(教来石姓時代の実名景政から)は「信春」のままであったと思います。「信房」は誤伝ではないですかね(あくまでも推測ですが)。
 そう言えば『下之郷起請文』(馬場氏のものは現存せず)では、「信春」となっていましたね。


上総介

>内藤・真田ならともかく、織田家筆頭家老の林秀貞の名前が、何故誤伝されたのでしょうか。不思議でたまりません。
 林通勝は本来、大和・信貴山城城主である松永久秀の家臣ですから織田家臣・林秀貞と混同されたそうです。このような事例は本当多いですよね。真田幸村→信繁、浅野長政→長吉。まあ、長政の場合は晩年の名乗りですから、割引いてもいいですが、幸村は謎ですね。

宮下帯刀 林通勝という人は実在していたんですかぁ。

>このような事例は本当多いですよね。真田幸村→信繁、浅野長政→長吉。まあ、長政の場合は晩年の名乗りですから、割引いてもいいですが、幸村は謎ですね。
 真田信繁は武田左典厩にあやかるべく、同じ諱を称したんでしょうね。あるいは父が奨めたのでしょうか・・・。





上総介(1)

 なるほど。信玄の幼名は太郎、初陣に平賀源心はないですし、山本菅助道鬼とするのは初歩的な間違いですね。母を上杉氏としたのは、信玄の初婚の相手である上杉朝興・女を誤伝したのでしょうね。


宮下帯刀

>  なるほど。信玄の幼名は太郎、初陣に平賀源心はないですし、山本菅助
道鬼とするのは初歩的な間違いですね。母を上杉氏としたのは、信玄の初婚の相手である上杉朝興・女を誤伝したのでしょうね。
 そうですね。江戸時代に佐々木玄信などの凄腕の系図作者がいましたが、それに比べれば、大したことないなと思いました。


上総介 六角ですね(笑)。それにしても、あれは良く作ってありますよね。まぁ、今回の武田系図は偽系図として、作成された訳では無さそうですが、よく大発見みたいに記事が載りましたよね(笑)。



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