長篠合戦について




荒法師 織田信長と武田勝頼の直接対決となった長篠合戦について一言述べたいと思います。長篠合戦で、長い間不明であった織田信長の本陣跡推定地が、越中の城郭研究家によって発見されて10年を過ぎようとしています。その場所は、石座神社背後地で、空堀で囲まれた陣営が残っていました。荒法師をもとより、関東や地元の研究家がこれを実見したのですが、城郭研究家の池田誠氏が、「中世城郭研究第6号」の中で、長篠合戦を騎馬戦と鉄砲三段撃ちのイメージから、相互に陣を築いた中で、早く着陣した織田方の「占地の優位性」に対する武田の脆弱性が、武田の敗北の原因となったと言っています。武田と織田は、信長の本陣前面の丸山で激しく合戦しましたが、どうも騎馬戦ができるような地形ではありません。馬防柵は、馬を防ぐのではなく、武田の荒武者が突進してくるのを防ぐための柵でような気がしますが。
 ところで、荒法師も鉄砲(古式銃)を所持していますが、(あくまで研究目的で、許可も受けています)武田の鉄砲隊というのはどうなっていたのでしょうかね。もしご存知の方がいたら教えていただきたいものです。


小林 武田家の鉄砲に関する記述としては、(資料に疎いので名前は分りませんが)信玄の時代に信濃の旭山城に300丁配備したというのが有名ですよね?川中島の陣立の絵図(屏風だったかな)にも鉄砲足軽の姿が見えます。勝頼期では、これは設楽ヶ原の後になりますが、軍役を定める書状にとにかく鉄砲を優先してもって来いという記述がありますね。武田家は鉄砲を軽視していたという人がいますが、例えば甲陽軍鑑に米倉丹後守が鉄砲避けの竹束の盾を考案したとかいう記述があるように、鉄砲の有効性・怖さは十分知っていたでしょう。勝頼の最上胴にしても鉄小札の鎧ですから、鉄砲を非常に意識していると思います。
 設楽ヶ原において武田軍は朝の6時から午後2時まで奮戦しています。高柳光寿氏の説では、織田・徳川死者600人・武田1千人くらいではないかとしています。敗走する際の損害が大きいことから考えると、陣城を築いた織田軍に対して、少なくとも互角の戦いをしていたと想像できます。また、鉄砲の怖さを知っている武田軍が無謀に騎馬の突撃を敢行するはずも無く、第一陣城を攻めるのに騎馬を用いる筈もありません。
 私は勝頼は無謀な戦いを仕掛けたのではなく、勝つか負けるか分らない戦いに武田の存亡を賭けざるを得なかったのだと思います。そこまで勝頼を追いこんだのは、武田と織田の経済格差・日を追うごとに両家の力の差が開いてくる焦りと、外線作戦を行うための有力な同盟者を失ったことが原因だと思います。 
 甲陽軍鑑の記述を信じるなら、穴山・信豊らの戦線離脱による前線の混乱から武田家の部将は討たれたのではないでしょうか?甲陽軍鑑は面白い本で、勝頼とその側近に武田家滅亡の原因を擦り付け様とする一方、このような「おや?」という様な記述もありますね。何れにしろ、設楽ヶ原に付いての記述は甲陽軍鑑は信を置けませんし(参戦部将の食い違いなど)、信長公記に付いても同様ですね。(鉄砲の数・記述が短く曖昧なこと)


荒法師 武田は織田と同様に十分な装備があったと思いますよ。ただどうしても内陸と沿岸地では物流の調達面で差があると思います。  

>鉄砲の怖さを知っている武田軍が無謀に騎馬の突撃を敢行するはずも無く、第一陣城を攻めるのに騎馬を用いる筈もありません。
 荒法師も同感です。武田の敗因は、地勢に負けたと思います。「長篠合戦屏風」では、両軍が連吾川で対峙していますが、連吾川というのは、織田方の陣の近くに流れているのです。山裾から川まで50メートル余り、織田の部隊は、丘陵上にあって、陣の内側から射撃していたようです。武田は、平野部に出てしまいました。陣から数百メートルあります。地形がその逆なら武田が有利だったと思います。しかし、これは明らかに織田の作戦勝ちだと思います。武田は寡兵で城攻めをしているのですから。それに武田の騎馬隊も疑問ですね。「長篠合戦屏風」にも、武田の騎馬武者は織田と変わらないくらいです。皆、鉄砲の弾が飛んでくるので伏せています。火縄銃は距離があると効力は劣るのでしょうが、それでも連吾川真近の丸山は、織田の陣から70メートルほどです。若干の手負いもでてしまうと思います。

>甲陽軍鑑の記述を信じるなら、穴山・信豊らの戦線離脱による前線の混乱から武田家の部将は討たれたのではないでしょうか?
 武田が敗れる直接原因は、武田が平野部に出た兵を引き上げようとしたのではないかと思います。織田の兵は、ほとんどが丘の上にいました。武田の先陣が引いたので、織田は山から押し出したのではないかと思います。それまで柵の中にいたのですから。平地に長時間さらされた武田は戦意を喪失していたと思います。武田はあっけなく潰れてしまいました。
 荒法師が武田勝頼なら、決戦場として設楽ヶ原というこの場所は選ばなかったかもしれませんが、よほど切迫していたように感じます。どうも引き出された感じですよね。


宮下帯刀

>また、鉄砲の怖さを知っている武田軍が無謀に騎馬の突撃を敢行するはずも無く
 『信長公記』は山県昌景・武田信綱・小幡信真・武田信豊・馬場信春らが次々に突撃し、鉄炮によって散々に打たれたと記述しています。また小幡氏の突撃時の記述は「関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行(てだて)にて」とあり、確かに騎馬で突撃しているのです。『信長公記』のこの部分の記述は、伝聞とは思えぬ描写が多々あり、真実性があると思われます。

>武田の敗因は、地勢に負けたと思います。 「長篠合戦屏風」では、両軍が連吾川で対峙していますが、連吾川というのは、織田方の陣の近くに流れているのです。山裾から川まで50メートル余り織田の部隊は、丘陵上にあって、陣の内側から射撃していたようです。武田は、平野部に出てしまいました。陣から数百メートルあります。地形がその逆なら武田が有利だったと思います。しかし、これは明らかに織田の作戦勝ちだと思います。武田は寡兵で城攻めをしているのですから。
 そうですね。『信長公記』でも、武田軍の敗因は二十日に移動したことだとしていますね。背後に敵を受けたのですから、平野部に進出せざるを得ないのは当然のことです。これはおっしゃるように織田・徳川軍の作戦勝ちですね。この時点で勝負は決まったようなものです。三分の一の兵で、鉄炮を多量に装備した兵が立て籠もる陣城を攻めるのですから。ここで一旦退却していれば(多少の損害は覚悟して)、あのようなことにはならなかったでしょう。勝頼の若さが感じられます。

>武田が敗れる直接原因は、武田が平野部に出た兵を引き上げようとしたのではないかと思います。織田の兵は、ほとんどが丘の上にいました。武田の先陣が引いたので、織田は山から押し出したのではないかと思います。それまで柵の中にいたのですから。平地に長時間さらされた武田は戦意を喪失していたと思います。武田はあっけなく潰れてしまいました。
 私は兵力が少なかったことが、武田軍の敗北原因の第一だと思います。もし織田・徳川軍と武田軍の兵力が同等だったなら、鳶ノ巣山砦攻略に精鋭四千も割けなかったはずだし、追撃戦でもあれだけのダメージを与えることが出来なかったと思います。


小林

>『信長公記』は山県昌景・武田信綱・小幡信真・武田信豊・馬場信春らが次々に突撃し、鉄炮によって散々に打たれたと記述しています。また小幡氏の突撃時の記述は「関東衆馬上の巧者にて、是又馬入るべき行(てだて)にて」とあり、確かに騎馬で突撃しているのです。『信長公記』のこの部分の記述は、伝聞とは思えぬ描写が多々あり、真実性があると思われます。
 設楽ヶ原についての信長公記の疑問点としては、鉄砲1千丁という記述に対し、後に3千丁と加筆訂正している点です。余りに数が違い過ぎることから、太田牛一は従軍していなかったと思われます。参戦部将からの伝聞で書いたと思われますが、本陣にでもいない限り合戦全体の流れを把握するのは難しかったと思います。
 また、陣城を攻めるに当たって、武田軍が徒で正面攻撃のみを行っていたとは考えにくいと思います。迂回して側面・背後を突くのが常套手段です。あくまでも足軽・徒武者が戦闘の主役だったでしょうが、柵をめぐる戦闘の駆け引きにおいて柵内に退却する足軽を追尾して敵陣内に侵入を試みる場合、局所的に当然騎馬も使用したでしょう。それと、付け加えるなら1千丁の鉄砲では前線全体に配備することは数量的に難しいのではないでしょうか。やはり陣城に集中配備した筈です。つまり、陣城前面の戦闘と迂回攻撃を敢行した箇所の戦闘は様相がかなり変わっていたと思います。
 また、当時の布陣から考えれば、信長公記の次から次へと入れ替わり立ち替わり武田軍が攻めて来たという記述はありえないですね。信長公記の記述通りの戦闘を行うには、縦列に布陣していなければなりません。その辺りの記述の曖昧さと、あれ程の大規模な合戦の割に記述が少ないのが、私が設楽ヶ原に付いての信長公記には信を置けない理由です。

>『信長公記』でも、武田軍の敗因は二十日に移動したことだとしていますね。背後に敵を受けたのですから、平野部に進出せざるを得ないのは当然のことです。これはおっしゃるように織田・徳川軍の作戦勝ちですね。この時点で勝負は決まったようなものです。三分の一の兵で、鉄炮を多量に装備した兵が立て籠もる陣城を攻めるのですから。ここで一旦退却していれば(多少の損害は覚悟して)、あのようなことにはならなかったでしょう。勝頼の若さが感じられます。
 当時の戦国大名家は殆どが国人領主連合の盟主のような存在で、勝頼個人の判断で全てを決定することは出来ない状況だったと思います。決戦に踏み切ったのは、織田家と武田家の国力の差の開きに対する認識と、多少なりとも勝算ありとみた武田家の総意だと思いますね。

>私は兵力が少なかったことが、武田軍敗北原因の第一だと思います。もし織田・徳川軍と武田軍の兵力が同等だったなら、鳶ノ巣山砦攻略に精鋭四千も割けなかったはずだし、追撃戦でもあれだけのダメージを与えることが出来なかったと思います。
 結果的には、私も寡兵であったことが敗因だと思います。長時間の戦闘で消耗したところで一気に潰された感があります。ある程度の予備兵力があれば、兵の消耗も少なく、夜まで支えることができれば損害は出たとしても敗走することなく退却出来たと思いますね。
 兵数が多いと信長は出馬せず、少ないと戦にならない。信長を誘い出して一気に討ち取る考えを逆手に取られてしまったようですね。


上総介

>設楽ヶ原についての信長公記の疑問点としては、鉄砲1千丁という記述に対し、後に3千丁と加筆訂正している点です。
 これは『信長公記』に異本が多数あることから生じた問題の一つではないでしょうか。どうも牛一は池田家の求めに応じて、ありもしない池田家の活躍を記述しています。千丁から三千丁への改竄もその一つの過程から生じた問題とおもわれます。この点は藤本正行氏の『信長の戦国軍事学』に詳しい考察があります。また、『信長公記』の記述の信憑性には谷口克広氏の詳細な論文がありますから、中期から後半の記述は正しいものといえます。

>陣城を攻めるに当たって、武田軍が徒に正面攻撃のみを行っていたとは考えにくいと思います。迂回して側面・背後を突くのが常套手段です。
 同感です。

>当時の戦国大名家は殆どが国人領主連合の盟主のような存在で、勝頼個人の判断で全てを決定することは出来ない状況だったと思います。決戦に踏み切ったのは、織田家と武田家の国力の差の開きに対する認識と、多少なりとも勝算ありとみた武田家の総意だと思いますね。
 この点も同感です。只、勝頼が決戦前に側室に送った手紙の中に「この度の戦を危ぶむ者もいるが・・・」という箇所は気になりますね。誰が反対だったのでしょうか。憶測で申し上げて失礼なのですが、私は内藤だったと思っています。

>結果的には、私も寡兵であったことが敗因だと思います。長時間の戦闘で消耗したところで一気に潰された感があります。ある程度の予備兵力があれば、兵の消耗も少なく、夜まで支えることができれば損害は出たしても敗走することなく退却出来たと思いますね。
 同感です。どうも勝頼は信長が出馬するとは思ってなかった節があります。明智城への救援を渋ったように今回も信長は現れないと踏んだようですね。家康が信長に今回は是非に出馬を求めている書状がありますね。家康にとって長篠は死活問題ですからね。せめて、勝頼が長篠城を落としていたら、戦いの展開も違った事でしょうね。長篠城に大量の鉄砲が搬入された事など興味深いですね。
 信長はホトトギスの逸話が普及しているためか、恐ろしく短気な武将のようにいわれますが、実際の信長は熟慮型の武将です。また、戦場での戦いを極力避けた傾向が見られます。
 長篠の合戦については、前途した藤本氏の『信長の戦国軍事学』と藤井尚夫氏の『中世の城と合戦』、『フィールドワーク関ヶ原』が参考になります。鉄砲については鈴木真也氏の『鉄砲と日本人』が参考になります。同書では武田家の鉄砲の記載があり、今回のツリーへの答えになる部分が記載されています。


荒法師(1)


小林

>勝頼が決戦前に側室に送った手紙の中に「この度の戦を危ぶむ者もいるが・・・」という箇所は気になりますね。誰が反対だったのでしょうか。憶測で申し上げて失礼なのですが、私は内藤だったと思っています。
 内藤修理は勝頼家督相続時にも起請文を要求するなど、かなり思いきった行動をしていますよね。私は内藤・高坂(春日)・秋山らは宿将であることは間違いないとは思いますが、あくまでも出先の責任者であって(支店長のような感じでしょうか)、軍政の中心にいたのは山県・原・土屋らの竜朱印奏者ではないかと考えています。馬場については良く判断がつきません。つまり、武田家中に於ける発言力は内藤らはそれほど大きくなかったのではないかと思えるのです。その辺りの武田家中の勢力分布が内藤の行動に影響を与えているような気がします。そのようにして考えてみると、合戦に反対したのが内藤であると言う説はかなり説得力がありますよね。





荒法師(1)

 武田軍の騎馬の突撃?現地を実地踏査し、織田信長の陣所を実見したものとして考えられないな。合戦場は浅い谷の窪地です。
 本当に武田の騎馬武者っていたのかな。馬は走れないと思うけど。お互いに鉄砲の撃ち合いをしていたのでは。


宮下帯刀(1)


上総介

>武田軍の騎馬の突撃?
 武田家は馬から下りて、攻撃したと思います。一部では小幡勢のような騎馬での突撃がありましたが。

>本当に武田の騎馬武者っていたのかな。
 私は存在しないと思います。どこの戦国大名の家にも騎馬隊は存在しなかったでしょう。ですが、『甲陽軍鑑』にあるように、武田家は他家と比べて騎馬の比率は多いですね。また、前途した小幡勢は「関東衆馬上の巧者」として有名です。

>馬は走れないと思うけど。
 長篠の戦場は湿地や川、丘陵があったので馬から下りて戦ったと考えた方が自然ですね。

>お互いに鉄砲の撃ち合いをしていたのでは。
 武田家は長篠城にも鉄砲を盛んに撃ち込んだ形跡がありますね。


荒法師 荒法師は騎馬の突撃はありえないと考えています。理由は、
 1・連吾川西岸から織田の陣所の麓まで50メートル程度であること。
 2・そこからは比高さ10メートルの崖があること。
 3・鉄砲の有効射程は100メートルと考えられること。
 以上の理由から、連吾川を渡っても崖の上、比高10メートルの高所鉄砲の的になります。織田は、連吾川と台地の上に柵を引き築城していましたから、直線的な突撃は絶対に不可能です。西部劇のインデアンと騎兵隊になってバタバタやられてしまう。
 城はよろいです。織田は遺構が残るくらいの陣城を築いていました。作戦の常道として、敵を城から引き出して野戦で決戦する。これを考えなければなりません。騎兵は野戦での決戦にしか使えません。
 荒法師が考えている長篠合戦顛末(仮説)は、
 午前中、武田は陣から押し出して連吾川まで来たが、ここに織田の柵があり、ここで織田と射激戦となった。しかし、物量に勝る織田方の攻撃に前衛が潰れ始めた。午後、武田は陣容の立て直しを図るため、兵を引こうとした。すると、織田が突撃してきた。混戦になった。武田の諸将が出馬したが戦線が崩れ手の施しようが無かった。結局、騎馬の活躍する場が無かった。


上総介  荒法師さんは、藤本正行氏『信長の戦国軍事学』、『戦国合戦本当はこうだった』、藤井尚夫氏『フィールドワーク関ヶ原合戦』、『中世の城と合戦』、鈴木真也氏『鉄砲と天下人』、『戦国合戦の虚実』はお読みになられていますでしょうか?今回のツリーでの討論の答えが出ています。荒法師さんが最初にお尋ねになられた「武田家の鉄砲の装備」も鈴木氏の『鉄砲と天下人』には記述がありますから、お読みになられていらっしゃいのなら、是非お薦めです。


荒法師 書評ですが、「歴史群像」94年6月号に、「長篠合戦論」の特集があり、藤本正行・藤井尚夫氏が対談されています。これをベースとして翌年、藤井尚夫氏は「中世の城と合戦」の中で、「長篠合戦」を執筆されました。藤井氏は軍事の専門家であると同時に「後詰決戦論」を展開されております。「歴史群像」の中では、「鉄砲」「騎馬軍団」について通説への疑問を提示され、「設楽原」は「城郭」であったが「勝頼の設楽原での突撃」を是として討論されております。特に藤井氏は、富山県の城郭研究の草分け的存在でご尊敬申し上げており、荒法師も御著にサインを頂きました。両氏の論考に批判することは恐れ多いのですが、設楽原決戦は「攻城戦」としながら「武田の突撃」を肯定する矛盾を荒法師は指摘しておるのです。
 山県昌景は銃撃を受け死亡したと言われます。荒法師は、武田は「突撃」ではなく「射撃戦」で破れたのではないかと考えています。「信長公記」を読み返し、後世書かれた多数の解説書を読み返すとますます疑問が沸くのです。


上総介

>両氏の論考に批判することは恐れ多いのですが、設楽原決戦は「攻城戦」としながら「武田の突撃」を肯定する矛盾を荒法師は指摘しておるのです。
 同氏も忌憚の無い意見を求められている事でしょうから、最低限のマナーさえ守れば、恐れ多い事ではありませんよ。





宮下帯刀(1)


>武田軍の騎馬の突撃?現地を実地踏査し、織田信長の陣所を実見したものとして考えられないな。合戦場は浅い谷の窪地です。本当に武田の騎馬武者っていたのかな馬は走れないと思うけど。
 徳川家康は家臣に対して、「柵などの工事を入念に行うようにせよ。敵は馬一筋で突撃してくるぞ」と命じています(『竜城神社文書』)。この書状は五月十八日付ですので、家康は現地を実見してからこの指示を出していることになります。四百年以上も前と現代とでは、様相はだいぶ変わってきております。武田軍は騎馬を中心として突撃したのではないでしょうか(もちろん戦闘時は下馬して戦う)。この文書の存在がある限り、馬が走れないなどとは言えないと思います。
 私は武田軍がこの合戦に敗北した理由に、織田・徳川連合軍の総兵力を把握出来なかったことも挙げることが出来ると思います。勝頼は合戦前に「敵は方策を失って、一段と逼迫している様子であるから、わきめもふらずに敵陣に攻め懸ける」という書状を家臣に送っています。また『信長公記』には、「信長は敵から見えぬように大軍を後方に留めた」と書かれています。武田軍は織田・徳川軍の兵力は少ないと考えていたのではないでしょうか。ですから、あれだけの長時間に渡って波状攻撃をかけたのだと思います。三倍の敵に対して、一方的に攻めかかるはずがありません。あともう少しで敵陣を崩せるかも知れないと思いつつ、戦っていたのではないでしょうか。


小林

>徳川家康は家臣に対して、「柵などの工事を入念に行うようにせよ。敵は馬一筋で突撃してくるぞ」と命じています(『竜城神社文書』)。この書状は五月十八日付ですので、家康は現地を実見してからこの指示を出していることになります。四百年以上も前と現代とでは、様相は大分変わってきております。武田軍は騎馬を中心として、突撃したのではないでしょうか。この文書の存在がある限り、馬が走れないなどとは言えないと思います。
 先に私が書きこんだ「陣城前面と迂回攻撃個所の戦闘の様相はかなり違うだろう」という説は、このことも意識して書き込みました。徳川の担当する戦線は、山県三郎兵衛らが迂回攻撃するために突撃してくるところです。迂回攻撃箇所においては十分騎馬の使用もあると思いますよ。足軽が攻撃の主体ではあると思いますが。ただ、このころの地勢を私は余り良く知りません。(田?荒地?)

>勝頼は合戦前に「敵は方策を失って、一段と逼迫している様子であるから、わきめもふらずに敵陣に攻め懸ける」という書状を家臣に送っています。また『信長公記』には、「信長は敵から見えぬように大軍を後方に留めた」と書かれています。武田軍は織田・徳川軍の兵力は少ないと考えていたのではないでしょうか。ですから、あれだけの長時間に渡って波状攻撃をかけたのだと思います。三倍の敵に対して、一方的に攻めかかるはずがありません。あともう少しで敵陣を崩せるかも知れないと思いつつ、戦っていたのではないでしょうか。
 部将の書状は文面通りに受け取る事は危険です。たしか長坂長閑からの書状に対する返書だったと思いますが、「此度の戦を危ぶむ者が居るそうだが、心配しない様に」と言う内容の書状がありますよね。徒に本国の者を動揺させないための書状だと思います。甲斐に居る者でさえ合戦の行方を危ぶむ者がいたと言うことは、それだけ織田・徳川連合軍の兵力が大きいことを早い内から掴んでいたためではないでしょうか?大軍の動員を掛ければ必ず細作の目に触れますし、兵数を隠すということは難しいことだと思います。何よりも、武田の第一の関心は相手の兵力・士気・作戦に付いての情報だったはずで、必死に情報を集めたと考えるのが自然のような気がします。
 武田が決戦を選択する根底にあったものは、やはり早期に織田に痛撃を与えないと、国力差が開き過ぎ太刀打ちできなくなるという焦りだったと思います。


宮下帯刀

>「此度の戦を危ぶむ者が居るそうだが、心配しない様に」と言う内容の書状がありますよね。徒に本国の者を動揺させないための書状だと思います。甲斐に居る者でさえ合戦の行方を危ぶむ者がいたと言うことは、それだけ織田・徳川連合軍の兵力が大きいことを早い内から掴んでいたためではないでしょうか?
 そうですね。ですから、後続の兵士が到着する前に一気に勝負を着けてしまおうと考えたのでしょう。後詰として出陣してきたにもかかわらず、敵を目の前にして進撃をストップしてしまったのですから、武田軍は織田・徳川軍のことを寡兵だと感じたはずです。

>武田が決戦を選択する根底にあったものは、やはり早期に織田に痛撃を与えないと、国力差が開き過ぎ太刀打ちできなくなるという焦りだったと思います。
 同感です。勝頼は、うずうずしていたんでしょうね。信長は自分の方が不利だと思うと、すぐに退却してしまいますから。


荒法師 今までの議論をまとめてみると、武田勝頼の武将としての資質の問題であるとか、武将との不和まで出ています。1万5千対3万の兵力差。いくら若干弱い織田軍団とはいえ、用意周到な作戦展開。「信長公記」ですら、今回の勝頼の行動に批判的です。これでは、勝頼が一方的に悪いよう思えてなりません。確かに私が勝頼なら、山岳に城を築いて持久戦に持ち込んで、別働隊を美濃あたりに動かし、信長の動揺を誘うのですが。
 大敗した勝頼が余りにかわいそうですが仕方ないですね。その後、高天神城の攻防戦になるのですがこれも救援が困難になっていく。勝頼の周辺がどんどん悪くなっていってしまう。同情的な、意見を述べたいけど述べる余地がありません。なにかいいところはなかったのですかね。


小林

> 1万5千対3万の兵力差。いくら若干弱い織田軍団とはいえ、用意周到な作戦展開。「信長公記」ですら、今回の勝頼の行動に批判的です。これでは、勝頼が一方的に悪いよう思えてなりません。
 局所的な、戦術的な見方をするとそうかもしれませんが、何故決戦に踏み切ったのか(踏み切りざるを得なかったのか)は、武田家が置かれていた当時の状況を考える必要があると思います。

>確かに私が勝頼なら、山岳に城を築いて持久戦に持ち込んで、別働隊を美濃あたりに動かし、信長の動揺を誘うのですが。
 持久戦に持ちこんで不利に成るのは武田です。理由としては
 1.戦場が徳川家の勢力範囲であり、兵站を整えるのが困難であること。
 2.外線作戦を行うための有力な同盟勢力が少ないこと。対して織田には上杉と いう強力な駒があります。
 3.信長には直ぐに決戦を行う必要が無いこと。戦わなくても彼我の経済格差は 開いて行きます。
 決戦を行い劣勢を挽回する必要があったのは武田家であり、信長としては戦に負けないだけで戦略的に勝利となります。

> 同情的な、意見を述べたいけど述べる余地がありません。なにかいいところはなかったのですかね。
 私は設楽ヶ原において武田家は非常に奮戦したと思います。農兵の粘り強さが遺憾なく発揮されていると思います。川中島も同じだと思いますが、この粘り強さが仇となって損害が膨れ上がることもあったみたいですね。北条との三増峠の戦いでも大勝したとは言え、武田軍も900余りの損害を出した様ですから。
 それと話しはそれますが、見落としがちですが関東においては武田家は設楽ヶ原以降も勢力を拡張し続けています。東海道方面での出兵の負担を減らすには、武田家の組織の構造上不可能とは思いますが、駿府に遷都するのが一番効果的な方法だったと思いますね。かなり経済的に楽になった筈です。


荒法師

>決戦を行い劣勢を挽回する必要があったのは武田家であり、信長としては戦に負けないだけで戦略的に勝利となります。
 はたしてそうでしょうか? それなら何故勝頼は、高坂弾正の信州の兵8千を待たなかったのでしょうか?高坂弾正は、駒場まで来ていたと言います。「甲陽軍鑑」の記述が正しければ織田がこれを察知していて、後詰が来ないうちに武田に仕掛けた疑いはありませんか?

>東海道方面での出兵の負担を減らすには、武田家の組織の構造上不可能とは思いますが、駿府に遷都するのが一番効果的な方法だったと思いますね。かなり経済的に楽になった筈です。
 思い切ったアイデアですね。これには脱帽です。しかし、甲斐や信州は山があり盆地が多く、金山もあり経済的には豊かだったと思いますよ。
 例えば、中世では、遺跡だけ見ると越中より飛騨の方が豊かだったように感じます。現代の尺度で考えると山間地の過疎化が進んでいますけど、山の生活というのは案外豊かなのです。これは石高では表せません。ですから武田は、経済的には問題が無かったと思っています。それと中世物流を考えると、領国と物流は別物と考えます。ですからよほどの理由が無いと、甲州からの遷都は難しいですよね。


小林

>何故勝頼は、高坂弾正の信州の兵8千を待たなかったのでしょうか?高坂弾正は、駒場まで来ていたと言います。「甲陽軍鑑」の記述が正しければ織田がこれを察知していて、後詰が来ないうちに武田に仕掛けた疑いはありませんか?
 たしか、高坂は勝頼敗戦の報を聞き伊奈まで来た筈です。武田が設楽ヶ原へ全兵力を投入しなかったのは、あくまでも織田信長を引きずり出して決戦するためだと思います。

>甲斐や信州は山があり盆地が多く、金山もあり経済的には豊かだったと思いますよ。例えば、中世では、遺跡だけ見ると越中より飛騨の方が豊かだったように感じます。現代の尺度で考えると山間地の過疎化が進んでいますけど、山の生活というのは案外豊かなのです。これは石高では表せません。ですから武田は、経済的には問題が無かったと思っています。それと中世物流を考えると、領国と物流は別物と考えます。ですからよほどの理由が無いと、甲州からの遷都は難しいですよね。
 まず、勝頼期には金山の産金量が減っています。武田の収入の多くは田畑からの租税や棟別等だったと思いますが、甲信地方は当時でも人口の少ない地域です。人口が少ないということは、税収も限られてくるということです。人口の少ないところでは経済も発展しません。また、耕作地についても、慶長5年の石高の記録によれば甲斐23万石弱、信濃40万石と二カ国併せてやっと尾張一国程度の石高です。稲も現在の品種とは異なり冷害に弱く、度々飢饉なども起こった様です。林業からなどの収入があったにしても、とても経済大国とはいえないと思いますね。
 甲陽軍鑑に、勝頼の時代になって商人が躑躅ヶ崎に出入してけしからん、という記述があります。これは地元の豪商の力を借りて財政を再建しようとしていたのだと思います。それに対して軍鑑の記述のように感じている武士が多かったとしたら、やはり武田家には経済に明るい部将が少なかったということでしょう。
 勝頼が駿河を穴山信君に任せたのは、穴山の領地が駿河と隣接していて駿河の事情に明るいという他に、経済感覚の鋭い穴山に駿河経営を期待したのかもしれないですね。信玄が股肱の臣・山県を駿河に配置したのも、武田にとって駿河がどれほど重要だったかが伺えると思います。そして、駿河の重要性とは海であり、港であり、流通です。軍政上・経済的に義信を廃嫡してまで武田家には必要だったということだと思います。(国人領主の支持を得つづけるためと、人口の少ない甲信のみでは経済的にも頭打ちという危機感があったという意味です)


荒法師

>耕作地についても、慶長5年の石高の記録によれば甲斐23万石弱、信濃40万石と二カ国併せてやっと尾張一国程度の石高です。稲も現在の品種とは異なり冷害に弱く、度々飢饉なども起こった様です。林業からなどの収入があったにしても、とても経済大国とはいえないと思いますね。
 この石高で判定するのは、問題があると思います。指標として、中世城郭は、長野県が1000ヶ所、山梨県は400築かれているでしょうか。静岡県は、500ヶ所程度、これは「日本城郭体系」から引用しました。特に信濃の城は、縄張(土木工事)のものすごい城が多いのです。それだけ蓄積があるということに尽きます。

>駿河の重要性とは海であり、港であり、流通です。軍政上・経済的に義信を廃嫡してまで武田家には必要だったということだと思います。
 問題は、湊の機能です。塩や米は水路で運ばれました。魚は人が山越えして運びました。(明治の初めまで)これは付加価値の違いです。付加価値の高い商品は、黙っていても商人が運んできます。特に武器のような商品はブラックマーケットがあり、これは昔も現在も変わっていないと思います。商人が立山を越えて信濃を往来するので、これを禁制する指示が出ている程です。
 この中世においては、戦国武将という軍事的側面ばかり議論されて、経済の問題は、なおざりにされてるように感じます。これが、中世が解明されない原因と考えています。


小林

> この石高で判定するのは、問題があると思います。
 具体的にはどのような点でしょうか。

>指標として、中世城郭は、長野県が1000ヶ所、山梨県は400築かれているでしょうか。静岡県は、500ヶ所程度、これは「日本城郭体系」から引用しました。
 私はこの数字は知りませんが、地勢による違い・それまでの守護等の支配状況の違い等ではないでしょうか。

>特に信濃の城は、縄張(土木工事)のものすごい城が多いのです。それだけ蓄積があるということに尽きます。
 必ずしも一つの城が一期工事のみで完了したとは限らないでしょうし、戦国期以前の中世の城は当然として、戦国期においても山城が数的には主であったと思います。山城は基本的には既存の地形を利用していますから、戦国後期の平山城ほどの土木作業量は無かったのではないでしょうか。仮に徴用により築城したとしても、住民の生活を圧迫し、逆に経済的には弱体化すると思います。

>問題は、湊の機能です。塩や米は水路で運ばれました。魚は人が山越えして運びました。(明治の初めまで)これは付加価値の違いです。付加価値の高い商品は、黙っていても商人が運んできます。
 貿易そのものからの利益・貿易による関税・商人からの税、町が発展し人口が増えればその分の租税・棟別等、港を支配することによって得る利益は莫大なものであると思います。それに流通を握れば付加価値の高い商品を買わずに済みますし。

>特に武器のような商品はブラックマーケットがあり、これは昔も現在も変わっていないと思います。
 纏まった数を安価に揃えるのは難しいでしょうね。


荒法師 石高だけから豊かさを判定することは危険です。例えば飛騨の例では、高原諏訪郷を領した江馬氏は、諏訪高原城を築き、下館には庭園を配した豪奢な館を造営しました。江馬氏は、表向きの石高は八千石なのに、三千の兵を擁していました。江馬が裕福なのは鉱山でした。金山や銀山など、鉱山は石高にカウントされません。江馬氏に関しては「椎名康胤と松倉城」のサイトで「松倉史話」の「塩屋秋貞」の項に、「飛越の物流」に関して数年前公開した拙稿が所載されています。答えになるかどうか判りませんがご笑覧下さい。
 荒法師も当初山地は貧しいと考えていました。しかし東北のある地域を研究対象にしていますが、自然があれば、衣食住が自給可能な生活が出来ることに気付きました。山地の経済は、自給自足からの余剰を貯蔵加工し、蓄積があれば豊かな生活が出来ます。その体験から荒法師自身も農園を開いて実証をしているのですが、果樹を中心に山地に植生すると十分な成物が得られます。問題は搾取です。近世の幕藩体制の搾取にはものすごいものがありました。
 中世の経済と近世の経済の根本的な違いは、中世の租税は地域に還元されました。近世はそれが地域外に持ち出されたため、経済の循環が起きず地域が疲弊したのです。これによる山村の疲弊は非常に大きかったと思います。更に現代の利便性から来る、都市圏への人口の集中と山村の過疎という我が国の致命的な問題に行き当たっています。
 次に築城は、陣城を除いて城郭の築城では必要な資材・労力の対価は支払があったと考えています。例えば、豊臣秀吉が出世のきっかけとなった清洲城の普請の逸話が有名です。最後に「都市と経済」を考えると、ご指摘の通りで「楽市楽座」は画期的でした。しかしこれは織田信長のアイデアです。
 今回対象にしている武田の場合、「甲州法度」を読む限り「中世そのもの」でこのようなアイデアはあったのでしょうか?


小林(1)


荒法師  長篠合戦の顛末について話を薦めたいと思います。
 長篠合戦での午後からの武田軍ですが、前衛の真田が潰れ織田軍が武田勝頼の本陣に殺到してきました。織田は、勝頼の馬印目指して突進してきたようです。武田勝頼は、本陣を捨てて後退しました。「甲陽軍鑑」には、勝頼の兜は、置き去りにされていたのを小山田弥助が見つけて持ち帰ったと書いてあります。甲冑ですが、甲州には戦国時代名声の高い甲冑職人がいたようです。飛騨の江馬輝盛が甲州に甲冑を発注している文書を見た記憶があります。「信長公記」には、武田軍は討ち取られた兵1万余とあり、勝頼の秘蔵の駿馬も乗り捨てられ壊滅的な打撃であったように書いてあります。
 いずれにしても、武田が敗北したのは事実ですが、「決破」の論議からしてもその顛末はますます不可解です。「甲陽軍鑑」は歴史的事実を秘めた文学書で、固有名詞は事実としても、修飾語は作者の創造でしょう。これから秘められた歴史の真実を読み解く努力をしなければならないと思います。





小林(1)


>石高だけから豊かさを判定することは危険です。例えば飛騨の例では、高原諏訪郷を領した江馬氏は、諏訪高原城を築き、下館には庭園を配した豪奢な館を造営しました。江馬氏は、表向きの石高は八千石なのに、三千の兵を擁していました。江馬が裕福なのは鉱山でした。金山や銀山など、鉱山は石高にカウントされません。江馬氏に関しては「椎名康胤と松倉城」のサイトで「松倉史話」の「塩屋秋貞」の項に、「飛越の物流」に関して数年前公開した拙稿が所載されています。
 非常に参考になりました。武田家が飛騨に進出しようとしたのも、金山が目当てだったかもしれませんね。

>荒法師も当初山地は貧しいと考えていました。しかし東北のある地域を研究対象にしていますが、自然があれば、衣食住が自給可能な生活が出来ることに気付きました。山地の経済は、自給自足からの余剰を貯蔵加工し、蓄積があれば豊かな生活が出来ます。その体験から荒法師自身も農園を開いて実証をしているのですが、果樹を中心に山地に植生すると十分な成物が得られます。問題は搾取です。近世の幕藩体制の搾取にはものすごいものがありました。
 しかし、そこから生まれる経済効果は、商業地の経済に比べると非常に限られたものだと思います。

>中世の経済と近世の経済の根本的な違いは、中世の租税は地域に還元されました。近世はそれが地粋外に持ち出されたため、経済の循環が起きず地域が疲弊したのです。これによる山村の疲弊は非常に大きかったと思います。更に現代の利便性から来る、都市圏への人口の集中と山村の過疎という我が国の致命的な問題に行き当たっています。
 利便性と言うより、人が集まるのは職があるから=金があるからということだと思います。

>次に築城は、陣城を除いて城郭の築城では必要な資材・労力の対価は支払があったと考えています。
 人足手当てに付いては分りませんが、諸役免除という条件がついたものが多いと思います。

>最後に「都市と経済」を考えると、ご指摘の通りで「楽市楽座」は画期的でした。しかしこれは織田信長のアイデアです。
 楽座はともかく、楽市については各地で行っていますよ。信長の先進性はむしろ関所の撤廃の方で、これは流通=経済効果ということを良く認識していたからこそ出来たのだと思います。関所の関税は戦国大名にとっては大きな収入源でしたが、これを撤廃したことによって経済の活性化を行った信長は、経済観念については信玄の及ぶところではないと思います。というより、二人の育った環境の差といった方が適切であると思いますが。


荒法師

>しかし、そこから生まれる経済効果は、商業地の経済に比べると非常に限られたものだと思います。
 この商業地の「経済効果」という文字は、実は幻影なのです。商人には生産がありません。付加価値の相場でお金が循環して見かけ上利益が上がっているだけのことです。これはバブルの崩壊が示しているではありませんか。貨幣には、本質的な価値はありません。
 しかし、山地は、実態ある衣・蚕、食・産物、住・森林に恵まれています。現物を生産しているのです。したがって、搾取が無い限り滅ぶことはありません。


小林 申し訳ありません、ちょっとご意見の主旨が掴めません。


荒法師 長篠合戦が経済問題に発展してしまいました(笑)。補足しますと、

>貨幣には、本質的な価値はありません。

 昔の小判は金貨でした。現在の貨幣は紙で燃やすと価値はゼロになります。マネーゲームという言葉がありましたが、この現代の貨幣の価値は、信用力の相場で決まると言いたかったのです。

> 商人には生産がありません。
 商人は「信用第一」だ。ということは良く聞かれます。商人は、生産物を取り扱います。信用で価値を生み出すのが商人なのですと言いたかったのです。
 商人は、大昔からいました。戦国時代も信用ある商人達がいましたね。

> 現物を生産しているのです。
 例えば、山に栗の木を植えると、水と空気と太陽だけで実が成ります。毎年、安定的な生産高があります。貨幣経済は、相場と信用で成り立ちますが、山はそれとは無縁で、水と食物があれば、人は滅ぶことは無いと言いたかったのです。
 また、経済の発展には、ハードウエア(商品・街道)とソフトウエア(取引ルール)の側面があります。中世の荘園の経済は、月数回、市が立ち、物々交換が主ではなかったかと言われています。また租税は現物が主でした。しかし、慶長年間頃から大名が街道をつけかえて都市に引き入れていますね。越中でも、徳川家康の街道整備を受けて、前田家は北国街道・飛騨街道の整備に力を入れました。社会が安定を増したこの頃から信用力が更に増し、本格的な物流による都市の商業市場が生まれてきたと考えます。本格的な貨幣経済は、近世でしょう。従って、「商業地」の経済効果というのは近世の話であろうと考えます。


小林

> > 商人には生産がありません。
> 商人は「信用第一」だ。ということは良く聞かれます商人は、生産物を取り扱います。信用で価値を生み出すのが商人なのです。と言いたかったのです。商人は、大昔からいました。戦国時代も信用ある商人達がいましたね。
 商人の存在意義は、あるものを必要とされる人・場所へ供給するということであると思いますが?商人の得る利益は、信用云々よりも流通させたことに対する報酬ではないでしょうか?

> 山に栗の木を植えると、水と空気と太陽だけで実が成ります。毎年、安定的な生産高があります。貨幣経済は、相場と信用で成り立ちますが、山はそれとは無縁で、水と食物があれば、人は滅ぶことは無いと言いたかったのです。
 大規模な軍事行動・インフラの整備・行政を行うに当たって、これらのものだけでは当然賄えるはずがありません。だからこそ、金山の経営、経済・産業振興などに戦国大名は腐心したのではないでしょうか?ただその土地で暮らすだけなら充分でしょうが。

> 経済の発展には、ハードウエア(商品・街道)とソフトウエア(取引ルール)の側面があります。中世の荘園の経済は、月数回、市が立ち、物々交換が主ではなかったかと言われています。また租税は現物が主でした。
 棟別その他の税は文単位ですよね?また、銭で納税すると税が割安になるような政策を実施していた筈ですが。社会全体が貨幣経済へ移行しようとしていた時期であったというのが一般的な考え方ではないのですか?米では鉄砲も鑓も買えませんよ、換金しない限り。換金=売却自体、立派な商業活動ではないですか?

> 慶長年間頃から大名が街道をつけかえて都市に引き入れていますね。越中でも、徳川家康の街道整備を受けて、前田家は北国街道・飛騨街道の整備に力を入れました。社会が安定を増したこの頃から信用力が更に増し、本格的な物流による都市の商業市場が生まれてきたと考えます。本格的な貨幣経済は、近世でしょう。従って、「商業地」の経済効果というのは近世の話であろうと考えます。
 堺・大津などの都市はどのように捉えておられますか?各地で盛んに楽市が催されたのは、物々交換のためではないと思うのですが?城下に町を作り、職人等を保護して住まわせ、商人を誘致したりするのは商業地の形成ではないでしょうか?
 近世に比べれば戦国期は完全な貨幣経済ではないかもしれませんが、貨幣が果した役割を無視することの出来るようなものではなかったと思います。
 少々議論が噛み合わない様ですね。


荒法師

> 少々議論が噛み合わない様ですね。
 そうです。それが戦国時代なのです。荘園体制が崩壊し、守護大名が滅亡して戦国大名が登場する。荘園中心の経済から、豊臣秀吉の太閤検地に始まる石高制に移行していったわけですが、戦国時代を経済問題と考えても良いと思います。


いりの井しか吾 私は、ついこの前、設楽原他長篠周辺を訪れました。この討論の冒頭のころにあった騎馬突撃の否定は賛成ですね。(連吾川の前が湿田だったので=しかし今冬なので乾いていた)それゆえ“畷”を創造してしまいました。縦列攻撃でもして織田方の的になったのでしょうか?(九州の沖田畷の合戦みたく)・・・いやあやっぱり原っぱだったのでしょうか?
 それにしてもあれですね。騎馬とは申せ当時は一騎に対して郎党が数人編成されていたはずですし、道産子のような日本馬の周りに郎党が駆け回る・・・これが戦国時代の合戦風景ですよね。インディアンの集団のようにさっそうととはいかなかったはずですよね。

(以下、データ消滅)

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