三浦一郎先生 武田氏甲冑小論集



               変わりゆく古戦場


 小生は青年時代によく長篠の地を訪れたものである。史跡保存館初代館長の故丸山彭先生の御指導のもと、その度に設楽原を歩いたものである。いつぞやは、思いあまって学校をさぼり、途中の豊橋駅で指導員に保護され、お世話になったこともあった。いわばこの地は、小生にとってメッカと呼ぶに相応しい地なのである。当時は訪れる人も疎らで、古戦場に散る石碑を探すのにも苦労したものである。弾正山も信玄台地に挟まれた設楽原もそれなりの風景を残していた。
 しかし、ここ十年程であの懐かしき風景は一変し、山は削られ驚く程の開発の手が及んだ。小生の年代が、当時の地形を知る最後の年代になってしまったようである。削り取られ変わり果てた信玄台地の上には、真新しい新城市の資料館が建っている。中を覗けば、多数の武具が飾られ、この地が史上名高き古戦場であることを大にした展示がなされている。しかし、言うまでもなく合戦当時の武具などあろうはずがない。中でもあきれたのは、「戦国期の筋兜」なるものである。その鑑定は明らかに幕末の下級品であるのに、学芸員は根拠らしき根拠も言えぬまま「戦国期」の一点張り。議論にも何もならず館を出る。ふとあたりを見渡せば、やはりそこは小生が一番大切に思ってきた土地なのである。変わりゆく風景ではあるが、そこはまぎれもなく武田軍が壊滅した設楽原なのである。




              恵林寺蔵の甲冑について


 恵林寺蔵の甲冑群に、甲斐武田氏との関係を示す資料は一つもありません。これらはすべて江戸期のものであります。十五年程前、武田信玄公宝物館で当時事務局長をされていた野沢公次郎氏に、この件で議論を求めましたが、何等の回答も得られぬまま今日に至っております。
 小生の考えでは、これらの製作年代から、むしろ柳沢氏との関連を重視すべきだと思います。しかし、これらが本当に恵林寺に伝来したものかどうかも分からず、終戦後に寺が買い集めたという噂も耳にしたことがあります。




            甲斐武田氏関係武具について


 『甲陽軍鑑』にもみられます「明珍」の銘の兜は、信玄、勝頼の時代にはまだありません。寒川の兜も「房宗」とだけ書かれ、あとに花押があるのみです。つまりは「明珍」銘のものは、見るまでもなく駄目だということです。この「明珍」を姓とするのは、古くても慶長期のものが限界なのです
 以前はよく「上州明珍」とか「相州明珍」という言い方をしていました。しかし、現在では「上州系」とか「相州系」という言い方をします。つまりは、江戸期に勝手にこれらの作者を一派に引き入れ、都合のよい系譜を作り上げたからです。本来は鉄工集団の一員が兜鉢を作っていただけなのでしょう。また甲斐に有名な甲冑師がいたという伝説があります。「明珍信家」といって「信」の一字を信玄より賜ったというのです。まさに笑えてきますよね。ただ言えることは、「甲斐府中住○○」という室町期の遺物がないのです。江戸期になると甲州胴や甲州籠手、はたまた楯無形などという言葉が出てきます。これらは『甲陽軍鑑』に影響された国学者が勝手に付けた名称なのです。




       武田勝頼所用紅糸威最上胴丸の名称について


 武田勝頼の紅糸威最上胴丸(冨士山本宮浅間大社)なのですが、藤枝市郷土博物館特別展図録『駿河の武田氏』を見たところ同人物の同所蔵で「鉄板礼紅糸威五枚胴具足」があるのです。もしかして同じものなのでしょうか・・・同じだとしたら、この名称の違いは何からくるものなのでしょうね。(以上 榧木ひかる様)

 これは明らかに同じものです。実は「鉄板札紅糸威五枚胴具足」の名称で静岡県の文化財登録がされているためなのです。しかし、これは明らかに「紅糸威最上胴丸」です。恐らく甲冑の「か」の字も知らない人間が登録の折に誤って付けたのでしょう。藤枝市の教育委員会がこれをそのまま引用したためでしょう。
確かに室町期に甲冑を総称して「具足」と呼んでいました。しかし、現在の甲冑の分類においては「胴丸」と呼ぶべきでしょう。「具足」とは「当世具足」の略称であって、これを「具足」とは呼びません。「胴丸」の中でも四隅の蝶番で開閉して装着するものを「最上胴丸」と呼んでいます。また「最上胴丸」の中でも鉄で作られたものと革で作られたものとがあり、各々「鉄胴丸」、「革胴丸」の別称で呼ばれています。「胴丸」と「当世具足」の違いは胴の段数や金具廻りの形状にあります。市販されている甲冑の図録で見比べて下さい。




             「ムカデの旗指物」について


 「ムカデ衆」は信玄の使番衆として知られています。過去にそうした伝承を持つ「ムカデをあしらう旗」を沢山見たことがあります。中には、羅紗を用いて刺繍でムカデを施した高価なものもありました。これらはすべて江戸期以降のものであり、伝承を聞きながら苦笑したものです。以前にも言いましたように信玄、勝頼の時代に当世具足は未だ発生しておりません。つまり、当時の甲冑には合当理や受筒、待受と称する小旗を立てるための装置はありません。故に映画やテレビで見るような光景にはなるよしもありません。

  百足の指物を差した武者は信玄の御使衆(十二名)と言われています(『甲陽軍鑑』)。白地に黒、黒地朱・金、青地に金で百足が描かれた旗だったそうです。現在、朱地に金の旗が伝わっています。ただし製作年代は不明です。(宮下帯刀補足)




               「旗 指 物」 に つ い て


 信玄、勝頼の時代は未だ胴丸、腹巻の時代です。この認識が大前提として考察下さい。この時期には背に立てる「小旗」はありません。あるとしても「背旗」ではなく、袖に結ぶ「袖印」(大山祇神社蔵 袖印旗参照)か、兜の祓立や後勝鐶の結ぶ「兜印」(県立山口美術館蔵 大内義輿画像参照)程度のものでしょう。映画やテレビで見る合戦シーンの画像とかなり違ったイメージでしょ。
 信玄、勝頼の時代には大幟や大馬印はなかったものと思われます。故に「孫子の旗」と称するものも、信玄の代のものではないように思われます。むしろ、信玄の代は『甲陽軍鑑』にみられるように風、林、火、山の四旗に分かれていたという方が、信憑性があるように思われます。具体的に大幟や大馬印が現れるのは安土桃山期になってからだといわれています。このころになると、その目的のために作られた「旗指具足」なるものが現れるからです。小生は過去に一度だけ天正期のものを見たことがあります。非常に大柄な胴で、背負い籠のように大きな受筒のような装置があったと想像されますが、これについては未だ発見がなく詳細は不明です。余談ですが、合当理と総角鐶を混同してみえる方が多いように思われます。両者の用途はまったくもって別のものです。詳しくは市販の書物を参照して下さい。




                草 摺 の 分 割 化


 草摺の分割化は甲斐武田家に限ったことではありません。大分県柞原八幡宮、愛媛県大山祇神社、山形県酒井家、東京都西光寺等の蔵品をご確認下さい。これらはいずれも元亀、天正期の遺物であり、足捌きの円滑化を求めたものといわれています。つまりは騎馬ではなく徒歩を重視した戦闘が頻繁に行われていたという証拠となります。小生はこの現象を胴丸、腹巻が当世具足化していく一過程と捕らえています。





              藤 村 記 念 館 の 馬 骨


 実は十数年前に当地で発掘された馬骨のレプリカが展示してあるのです。館の門にあたる地で発見され、当時大いにニュースになりました。現代の馬から思うとかなり小柄で、落胆された方が多くおられたと聞いております。しかし、肩の高さで五尺はあるので、当時としては堂々たる馬だったと推測しています。恐らく武田家当主の愛馬だったと思われます。
 発見された状態は、四本の足はすべて折り畳まれ、頭を北にして顔は西に向けられていたそうです。まさに西方浄土の思想そのものです。
 興味深いことが一つあります。この馬骨はほぼ完璧な形で発見されたのですが、尾の骨だけが無いのです。それと骨盤にも鋭い傷跡があるのです。恐らく槍か何かを受けたのでしょう。
 ここに展示してあるものはレプリカであって、実物は確か日本競馬会で保存されていると聞いております。




                信  玄  鍔


 刀剣の研究家に藤枝市で行なわれた「駿河の武田氏」に出品されていた鍔(目録の裏表紙に掲載)について聞きました。彼はこれをすぐに「信玄鍔」だと言われました。しかし、それは江戸期の俗称とのことで、直接武田氏に結び付ける根拠はないとのことです。こうした鍔は江戸期を通じて同形のものが幾つも作られ、その名で呼ばれていたとのことです。
 この品については、現物を見ていないのでなんとも言えませんが、少なくても太刀に用いたものではないようです。しかし、覆輪の形状等が古風であるため、天正期頃のものという意見でまとまりました。
 ムカデを表すといわれる特有の模様の象嵌ですが、そこからムカデ衆を連想し、この名が付いたのではないでしょうか。前にも言いましたが、ムカデの旗に古い遺物は一例なく、このムカデ衆という言葉についても『甲陽軍鑑』に見られるものが最も古い記録だと思います。これ以前の古文書等に記載が確認できる史料があれば教えて下さい。




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