武田氏は何が原因で強くなったのか?
神長 信虎時代は反乱ばっかで全然安定してなかったのになんで信玄の代になってあんなに領地を拡大できたのか?信玄の能力?家臣の質?甲州法度?政策?騎馬隊?外交?など・・・これぞ!というものを一人一個に絞って聞いてみたいです。
いろいろ考えたけど、『信虎の甲斐統一』かな・・・。信虎が追放されずにいればあれぐらい行ったんじゃないかな?諏訪を占拠してないのは痛いけど・・・。
宮下帯刀(1)
山内 素人考えで申し訳ありませんが、一つの要因としてお金が考えられると思います。
大河ドラマでは信虎時代より信玄時代の方が金山からの採掘量が飛躍的に伸びていましたし、徳川家臣で元武田家臣の大久保さん(名前をど忘れしてしまいました)の金山開発の技能により初期の徳川幕府の財政がかなり助かっていたと聞いたことがあります。大河ドラマでも真田幸隆さんが甲州金を掴ませれば簡単に寝返るでしょうと言うような台詞がありました。ドラマを鵜呑みにしてはいけないと思いますが。
宮下帯刀 大久保長安の父は金春七郎喜然といい、猿楽衆(いまの能楽師)でした。どのようにして、あれだけの技能を身につけたんでしょうかね。
>大河ドラマでも真田幸隆さんが甲州金を掴ませれば簡単に寝返るでしょうと言うような台詞がありました。
そのセリフ、確かにありましたよね(笑)。人間は、昔も今も金には弱いんですかねぇ。
宮下帯刀(1) 信虎の力量では無理だと思いますよ。悪逆無道の振舞いが多かった為、家臣や領民たちから非常に憎まれていました。多分、寝首をかかれるか有力国人に謀叛を起こされて討死するか、そのどちらかだったと思います。信虎は勇猛ですが、政権は長続きしないでしょう。
小林 私は武田家中原に覇を唱えることが出来た一番の理由は、やはり信玄が家督を継いだ時の状況が良かったのではないかと思います。
1.信虎によって甲斐は取り敢えず平定されていた。
2.近隣の大国・今川氏と良好な関係にあった。
3.侵略目標となる信濃に大勢力がいなかった。
そしてこれが一番重要であると思うのですが、
4.国人領主の支持を受けて血を流すことなく家督を継いだ。
1により信玄堤等の国家プロジェクトを行うことが出来、国人領主連合の盟主と言う立場を強化できました。2、3により後顧の憂いなく信濃を攻めることが出来、領土を拡大することによって(論功恩賞)国人領主からの支持を引き続き受けることが出来ました。このことが武田家を後進的な組織とはいえ強力な集団にしていったのだと思います。信虎の功績は大きいようですね。ただ、信虎では国人領主の支持を受けつづけることが出来るとも思わないので、4がポイントになるかと思います。翻って、武田家の滅亡のことを考えると、国人領主の支持を失ったことが大きな原因の一つであると思います。やはり人間が一番大事ということでしょうか。
蛇足ですが、義信事件の起こった時期・設楽ヶ原の合戦前などのことを考えると、国人領主と言うのは論功恩賞が期待できないとなると直ぐに騒ぎ始めるような気がします。義信事件の頃は、上杉の頑強な抵抗から武田の北進策が頓挫した頃ですし、設楽ヶ原の前の勝頼の積極的な行動は、領土拡大することによって国人領主の支持を取り付けようと焦っているようにも見えます。憶測ですが。
宮下帯刀(2)
神長 国人領主とは小山田・穴山のほかに飯富や板垣なども含まれているのですか?武田氏は国人領主の盟主だったのでしょうか。たしかに武田氏の軍団の基礎は在地領主の連合ですが、指示されていたのでしょうか。それよりも支配化に入らざるを得ないぐらいに武田氏が強力であった(甲斐国内では)と考えられる気がします。その根拠は信玄の代になったほうが重税であるにも関わらず、国人領主(?)が指示しているはずがない・・・って思います。
信虎追放の原因はなんであったのか。信虎の粗暴さが原因なのでしょうか?信玄の政策は初期では甲州法度や棟別銭などがありますが、それらは信虎が基礎になっていることが言われています。信虎追放が武田家臣内の北条派と今川派の政権争いであるならば、たしかに以後一つのまとまりになったわけですが、たまたま頭首が変わったに過ぎず、信玄が家督を継いだことが飛躍の原因とは・・・。
小林
> 国人領主とは小山田・穴山のほかに飯富や板垣なども含まれているのですか?
甲斐国内で有力な国人領主です。続に言う武田24将などで、信玄期前期に活躍した侍大将は殆ど国人領主的性格の強いものではないでしょうか。逆に足軽大将衆の小幡・原(虎胤)・山本らは出自からいっても元来浪人等で、武田家直轄部隊だと思いますが。
> 武田氏は国人領主の盟主だったのでしょうか。たしかに武田氏の軍団の基礎は在地領主の連合ですが、指示されていたのでしょうか。それよりも支配化に入らざるを得ないぐらいに武田氏が強力であった(甲斐国内では)と考えられる気がします。その根拠は信玄の代になったほうが重税であるにも関わらず、国人領主(?)が指示しているはずがない・・・って思います。
国人領主の考え方としては、団結しないと他国の侵略を受けると言う惧れと、武田家の下で戦えば新たな所領が増えるという信用があったと思います。多くの国人領主が不満を持ったままでは、政権は長続きしないと思います。特に戦国期のような時代においては。
> 信虎追放の原因はなんであったのか。信虎の粗暴さが原因なのでしょうか?信玄の政策は初期では甲州法度や棟別銭などがありますが、それらは信虎が基礎になっていることが言われています。信虎追放が武田家臣内の北条派と今川派の政権争いであるならば、たしかに以後一つのまとまりになったわけですが、
信虎も信玄も親今川だと思いますが…。(少なくとも家督相続時は)甲州法度次第については、既得権益の承認や通例となっていることを明文化したものが多いと思います。裁判権を合法的に行使することは、権威の象徴ですね。
>たまたま頭首が変わったに過ぎず、信玄が家督を継いだことが飛躍の原因とは・・・。
私は信玄が当主となったのが武田家飛躍の原因であるとは言っていません。信玄が家督を継いだ状況が、武田家にとっては非常に好条件であったと言っているのです。
宮下帯刀(2)
> 1.信虎によって甲斐は取り敢えず平定されていた。
河内の穴山氏・郡内の小山田氏を抑えてあったのが大きいですね。しかし家督相続直後、小山田信有なんかは言うことを聞いてくれなかったようですね。
> 2.近隣の大国・今川氏と良好な関係にあった。
同感です。今川氏は義元が桶狭間で横死しなければ、昔の大内氏のようになっていたでしょうね。
南の脅威がある限り、信濃へは思うように侵略できなかったと思います。
> 3.侵略目標となる信濃に大勢力がいなかった。
信玄の飛躍の要因は、なんといっても信濃併合でしょう。私はこれを第一に考えています。信濃では守護職・小笠原氏の内輪もめが長く続き、領主達はバラバラでした。それに、利害関係にさとい領主がほとんどで、徹底抗戦が少なく感じられます。武田氏が永年領したわりには、その本質は変わらず、滅亡時にも同じ結果になってしまいましたね。
> そしてこれが一番重要であると思うのですが、
4.国人領主の支持を受けて血を流すことなく家督を継いだ。
これも重要ですね。一から甲斐を統一するのは至難の業です。
> 設楽ヶ原の前の勝頼の積極的な行動は、領土拡大することによって国人領主の支持を取り付けようと焦っているようにも見えます。
そうですね。勝頼は躍起になっていたと思います。父の喪にさほど服さず、出兵を繰り返しました。これにより領国が疲弊して重税を取り立てる結果となり、家臣からの信望を失ってしまいましたね。
小林
> 信玄の飛躍の要因は、なんといっても信濃併合でしょう。私はこれを第一に考えています。信濃では守護職・小笠原氏の内輪もめが長く続き、領主達はバラバラでした。それに、利害関係にさとい領主がほとんどで、徹底抗戦が少なく感じられます。武田氏が永年領したわりには、その本質は変わらず、滅亡時にも同じ結果になってしまいましたね。
そうですね。本質的には何も変わっていなかったと思います。逆に考えると、どうして織田信長は、あのような完全なトップダウン式の組織を作ることが出来たのか興味があります。
> そうですね。勝頼は躍起になっていたと思います。父の喪にさほど服さず、出兵を繰り返しました。これにより領国が疲弊して重税を取り立てる結果となり、家臣からの信望を失ってしまいましたね。
喪に服したという訳でもないでしょうが、勝頼家督相続時に武田家の活動が鈍った時期がありました。短い期間だったはずですが、その間に浅井・朝倉・長島一向一揆が滅ぼされたのは、武田家にとって致命的でしたね。
私は、武田家滅亡の間接的原因の第一に挙げたいと思います。このような状況からも焦りはあったんでしょうね。そしてそこを信長に上手く付け込まれて設楽ヶ原で大敗し、その後家康の消耗策にやられてしまったような気がします。
宮下帯刀
>逆に考えると、どうして織田信長は、あのような完全なトップダウン式の組織を作ることが出来たのか興味があります。
何故でしょう。色々な要素が考えられると思いますが・・・。出自にとらわれず能力のある者を登用して適所に配置し、そして家臣に非常に畏怖されていたからでしょうか。
>喪に服したという訳でもないでしょうが、勝頼家督相続時に武田家の活動が鈍った時期がありました。短い期間だったはずですが、その間に浅井・朝倉・長島一向一揆が滅ぼされたのは、武田家にとって致命的でしたね。
そうですね。石山本願寺が信長に降参したことによって、武田氏の滅亡は決定的になったと思います。同盟国の上杉氏は頼りになりませんしね。
>信長に上手く付け込まれて設楽ヶ原で大敗し、その後家康の消耗策にやられてしまったような気がします。
同感です。武田氏は家康の消耗作戦に苦しめられました。高天神城に救援に行けなくなる程、事態が悪化してしまったんですからね。小林さんがおっしゃる通り、私も駿河に本拠を移すべきであったと思います。穴山梅雪が住していた江尻城なんかは如何でしょうか。そこには海に面した立派な天守閣があったそうですね。
ノ貫@茶人 良いことに着目されましたぞ!皆様方!やっと出番がきたかな!
(1)当地の英雄 信長様は、家来に畏怖されていたとか、能力制を敷いたとかも非常に重要なポイントだと思いますが、以下の3点を重要と考えます。
@組織の目標が非常にクリヤーであり、共有するビジョンが合理的かつ斬新なこと。
Aそれを実現させ得る土地の豊かさと人材に恵まれたこと。
B運に恵まれた。
ことだと思います。彼自身のパーソナリティー的には50%ぐらいではないでしょうか。
(2)信濃の田舎大名では、居城をシフトさせることなどできないでしょう!
小林(1)
上総介 十四歳で家督を継ぎ、内外の厳しい情勢によく耐え、甲斐・武田家を守護大名から戦国大名にさせた信虎が『武田氏は何が原因で強くなったのか』大きな要因ですが、皆さん触れておいでですので私は武田家中興の祖とうたわれた信昌(信武もいわれますが)から考えます。
信昌の治世は信濃勢の甲州侵入、地下一揆の頻発、飢饉、疫病など危機の連続でした(『妙法事記』「甲州兵乱起こる」)。終いには、次男・信恵に家督を譲ろうとしたため、一族の相克が持ち上がり、国を二分する(『妙法事記』「甲州乱国に成り始める)危機を生みましたが、国政を欲しいままにした守護代・跡部氏を討ったことは(諏訪氏の援助を受けたが)武田家の権威を回復することに成功しました。守護代の下克上を退け、最大の危機を克服した信昌は武田家の躍進に貢献したと思います(新たな問題を起こした人物ともいえますが)。
味舌政宗 まったくもって同感です。特に武田氏は上杉禅秀の乱で禅秀方についたことから鎌倉公方の追撃を受け、守護としては当初甲斐国人衆から入部を拒否され、信濃守護小笠原氏の助けを借りて入部できるありさまでした。たしか、守護代跡部氏はその入部に際してつけられたのではなかったかと思いましたが。(信昌の祖父信重の時代)でも甲斐国人からすれば、よそ者が威張っていたから反発したんでしょう。そして信昌はうまく乗っかったというべきか。この英断が、甲斐守護職の権威復活の第1歩だったのではないでしょうか。ただ後年の油川の乱は、わがままだったとしか思えませんね。
小林(1)
> @組織の目標が非常にクリヤーであり、共有するビジョンが合理的かつ斬新なこと。
Aそれを実現させ得る土地の豊かさと人材に恵まれたこと。
B運に恵まれた。
ことだと思います。彼自身のパーソナリティー的には50%ぐらいではないでしょうか。
@の組織の目標ですが、どのようなものだったのでしょう?
Aは同感です。甲信と尾張では経済力が違い過ぎますね。
Bについては、運も実力の内と考えれば…。ただ、信長の戦略眼の確かさはありますね。戦はお世辞にも上手いとは言えませんが、機を見る感覚はずば抜けていると思います。
> (2)信濃の田舎大名では、居城をシフトさせることなどできないでしょう!
重要なのはどのような組織だったかと言うことだと思います。例えば、徳川も天正年間の初めまでは酒井・石川の両氏にかなり阿っているように思いますが、岡崎から浜松に居城を移しています。田舎大名だからと言うことで居城を移せないと言うことは、一概には言えないと思います。私は、勝頼が居城を移すことが出来なかったのは、信玄の時代に取り立てられた侍大将衆(山県・内藤など)と対抗する勢力=古くからの国人領主を支持基盤にしていた為だと思います。信玄時代の反動勢力とでも言えましょうか。そうした保守的な勢力からの支持を受けつつ中央集権化を進めなくてはいけなかったところに、勝頼の限界と不運を感じます。
味舌政宗
> 重要なのはどのような組織だったかと言うことだと思います。例えば、徳川も天正年間の初めまでは酒井・石川の両氏にかなり阿っているように思いますが、岡崎から浜松に居城を移しています。田舎大名だからと言うことで居城を移せないと言うことは、一概には言えないと思います。
政治的思惑で居城を移した例は多いものです。実際武田氏でも信虎の時代には甲斐の石和から躑躅ヶ崎(甲府)へ移していますし、他の大名でも、政治の思惑で本拠を移す例は戦国時代初期には多く見受けられますね。
例をあげると、伊達氏は梁川−西山−米沢と50年の間に3箇所、北条氏は韮山−小田原、朝倉氏は黒丸(福井市)−一乗谷などがあげられるんです。今上げた居城移転後、各氏とも内部統制が進んでいます。
> 私は、勝頼が居城を移すことが出来なかったのは、信玄の時代に取り立てられた侍大将衆(山県・内藤など)と対抗する勢力=古くからの国人領主を支持基盤にしていた為だと思います。信玄時代の反動勢力とでも言えましょうか。そうした保守的な勢力からの支持を受けつつ中央集権化を進めなくてはいけなかったところに、勝頼の限界と不運を感じます。
どこにでも保守勢力がおり、英断を下すのには労力と時には大きな反発を食らうものですが、勝頼の不運は信玄にありと思っております。そう、信玄の残した遺言(勝頼は当主でなく後見人)は大きいとおもいますよ。さらに武田氏の場合は、信濃衆と甲斐衆の対立なども大きな影響があると思います。そう、信濃は武田にとっては被支配地であり、甲斐が一番、信濃が二番というような感じがあったんでしょう。信濃出身の勝頼では、甲斐衆は押さえられなかったのかもしれません。
宮下帯刀
> 実際武田氏でも信虎の時代には甲斐の石和から躑躅ヶ崎(甲府)へ移していますし
この時に、甲斐国府も移動しているんですよね。これは驚くべきことだと思います。この事例は他国にもあるのでしょうか。
> どこにでも保守勢力がおり、英断を下すのには労力と時には大きな反発を食らうものですが勝頼の不運は信玄にありと思っております。そう、信玄の残した遺言(勝頼は当主でなく後見人)は大きいとおもいますよ。
信玄の遺言が『甲陽軍鑑』に記述されていますが、あの「陣代」という言葉は非常に気にかかりますね。軍鑑は、後世の人達によって仮託されている部分が多いとは言え、真実が多分に含まれています。
> さらに武田氏の場合は信濃衆と甲斐衆の対立なども大きな影響があると思います。
そうですね。確かに伊奈郡代時代の側近は重用されていると思います。
また、信玄は諏方社の権威を背景として、信濃一国を一枚岩にしようと考えました。出自をかわれた勝頼がその任に当たったのですが、義信の事件により、信玄の意図はもろくも崩れました。勝頼が家督を継ぐと、信玄時代に日の目を見ることがなかった譜代衆らが勝頼を擁立し、信玄が重く用いた譜代衆らを排斥するようになり、家中に対立が生じました。
勝頼が家臣を統制しきれなかった要因は、信濃衆と甲斐衆との対立もありますが、それ以上に小林さまのおっしゃる「古くからの国人領主と侍大将衆との対立」が一番大きいと思います。
政宗さんは戦国時代前期の歴史についてお詳しいとお見受けしますが、甲斐武田氏歴代は親子間で対立していますよね。これは、前述した事柄の延長線上での出来事と言えるのではないかと思うのですが、如何お考えでしょうか。
味舌政宗(1)
神長 確かにそのとおりだと思うのですが、藤木久志氏の「貫高制と戦国的権力の編成」って論文を読むと違う視点からの武田氏の政策がうかがえ、興味深いです。信濃の在地の実態は『郷』の団結が強く、武田氏が諏方社の神事を再興する上で農民が神事を拒否している実態などがうかがえます。更に神事再興の目的が家臣団編成や在地支配にあったことが書かれており、この論文はとても興味深いものがあります。自分にはとても視野を広げる論考だったので呼んだ事のない人にお勧めしたいと思います。
味舌政宗(1)
> この時に、甲斐国府も移動しているんですよね。これは驚くべきことだと思います。この事例は他国にもあるのでしょうか。
どうなんでしょうか?甲斐の場合は守護所=国府だったから、そうなったんでしょうね。律令制時代の国府なんてこの時代は有名無実化していて、守護所に吸収されてしまっている例が多いので...。
>勝頼が家臣を統制しきれなかった要因は、信濃衆と甲斐衆との対立もありますが、それ以上に小林さまのおっしゃる「古くからの国人領主と侍大将衆との対立」が一番大きいと思います。政宗さんは戦国時代前期の歴史についてお詳しいとお見受けしますが、甲斐武田氏歴代は親子間で対立していますよね。これは、前述した事柄の延長線上での出来事と言えるのではないかと思うのですが、如何お考えでしょうか。
武田氏に限らず室町から戦国にかけては、多くの大名家で父子、兄弟が家督を争っています。江戸時代のような長子相続の決まりなどないので紛争はことのほか大きくなりますし、それぞれの家臣が権勢を得ようとどちらかにつき、大きな派閥の争いになります。室町時代の家督の原則は足利将軍がその大名家の惣領職の決定権があり、大名家においては当主の一存だけではなく守護代などの家臣との衆議同意の上、次期惣領職を決め将軍が了承するという形でした。だから室町時代でも守護の家の多くは、当主の死後必ずといっていいほど家督争いが起ってます。室町幕府が機能していた時代でも争ってたんですから、幕府の力が無くなればどうなるか。そう、実力で相手を倒して家督をもぎ取ることが普通の時代だったのかもしれません。それほどに惣領職は魅力のある職ですから。武田だけでなく伊達、大友、今川、など守護大名系の家に多いようです。たとえば、北条や朝倉など応仁の乱以降新しく起きた家ではあまり少ないようです。(そうとはいいきれませんけど)
宮下帯刀
> 甲斐の場合は守護所=国府だったからそうなったんでしょうね。律令制時代の国府なんてこの時代は有名無実化していて守護所に吸収されてしまっている例が多いので...。
そうですね。しかし、越前の国府は一乗谷ではないですし、越後春日山も違いますよね。
>北条や朝倉など応仁の乱以降新しく起きた家ではあまり少ないようです。
特に後北条氏は一族が結束していますよね。何かしらの要因があるのでしょうが、ご存じの方にお教え願いたいものです。
上総介 相模・北条家はけっして強い団結力を誇ったのではありません。天正末期には、氏直と氏照に軋轢が生じてます。このことが小田原合戦の結果に出ています。秀吉の対応を巡って、氏政・氏照(強硬派)対氏直・氏規が有名ですし。この点、下山治久氏が『小田原合戦』、『北条氏照』で述べられていますよ。
宮下帯刀 そうでしたね。一族間に合戦を引き起こすほどの内訌はありませんでしたが、確かに意見の対立はありましたね。小田原合戦の時、もう少しマシな対応策はとれなかったものでしょうか。
上総介
> 一族間に合戦を引き起こすほどの内訌はありませんでした。
相模・北条氏に関しては、血で血を洗うような御家騒動は見られないですね。私も味舌氏の指摘どおり、北条家は稀有な例だと思います。氏康の息子達は同母兄弟と一般に言われて、これを理由に挙げている先生がいましたが、同母兄弟でも争っている家がありますよね。理由としては弱いように感じますね。
>小田原合戦の時、もう少しマシな対応策はとれなかったものでしょうか。
この点、合議制が裏目に出たと考えています(諸刃の剣となった)。
他に八王子城に城主である氏照が在城しない篭城戦、北条家の兵農未分離が言われていますね。
宮下帯刀
> 氏康の息子達は同母兄弟と一般に言われて、これを理由に上げている先生がいましたが、同母兄弟でも争っている家がありますよね。理由としては弱いように感じますね。
そうですね。戦国の世に「同母意識」はないですね。
>他に八王子城に城主である氏照が在城しない篭城戦
あの攻城戦は確か数時間で決着がついたと思いますが、氏照が在城していたとしても、結果は同じような気がしませんか?後世において、氏照の人気があがるだけだと思います(笑)。武田氏の仁科盛信のように・・・。
上総介
> あの攻城戦は確か数時間で決着がついたと思いますが、氏照が在城していたとしても、結果は同じような気がしませんか?
下山治久氏の説ですと「決戦を主張した氏照は八王子城を出て小田原城の守備につくことになり、肝心の居城は配下の離反を防ぐための人質を篭めておくだけという、まったく本末転倒の結果となってしまった。これでは大軍に攻められれば、いかな八王子城でも半日の命となっても致し方なし、といわざるを得ない。城主を欠いた城がいかに弱いかは、百戦錬磨の秀吉には筒抜けであった」そうです。
角川書店の角川選書279『小田原合戦-豊臣秀吉の天下統一』から引用させて頂きました。
>後世において、氏照の人気があがるだけだと思います(笑)。武田氏の仁科盛信のように・・・。
下山氏も御著書の中でもおっしゃられていますが、小田原合戦においての氏照の行動には謎が残ります。これからの課題でもありますね。氏照と盛信の置かれた状況が違うので、難しい問題ですね。
戻 る
|