三浦一郎先生 甲冑小論集



                明珍家について


 明珍っていうのは、元来甲冑師じゃなくって轡や鉄の金具を作る鉄工集団だったといわれています。ただ、元禄期の当主だった宗介がやたら宣伝上手で、このときに他流派と思われる作者まで組み込んで明珍系譜なるものを作ったのです。故にこれ以前のことに関しての信憑性はあまりないと思います。それと、『甲陽軍鑑』にも「明珍の兜」とみられますが信玄、勝頼の時代には「明珍」なんてまだ存在しません。遺物から想像して慶長期くらいがやっとという気がします。




             甲冑所用者の伝承について


 伝承のみで遺物を判断するのは、研究上大変危険なことだと思います。科学的な根拠に基づいた製作年代の測定をはじめそれを示す明らかな史料があって、はじめて「○○の甲冑」といえるのではないでしょうか。お遊びならばそれでもいい。しかし、世の中には真剣に何年何十年もかけて「信玄の甲冑」を追い求めている人もいるのです。思い込みのみの発想を「研究」なんて言われては、そうした人達に失礼だと小生は思いますがいかがでしょう。




              真実への探究心が大切


 博物館とかがいうことを鵜呑みにしていては、到底真実は得られません。真実は己の努力と足、そして信頼できる友人を作ることで得られるのです。経験が浅いといってしまえば、誰もが大差ないように思います。人間いくら頑張っても八十年、いや百年が限度でしょ。それを前提に考えれば、経験なんてあまり意味が無いように思います。むしろ、「これって本当に信玄の兜?」って疑い、それが事実かどうかを確かめてみようとする姿勢こそが大切だと思います。分からないことは、分かっている人に聴けばいい。真実を得ようという探究心は、それよりも「疑う」ということができるかできないか。そのセンスにかかっているように思います。あえて言えば、学歴社会が生み出した縮図が、真実への探究心を奪ったと考えます。「○○先生が言っていたから正しい」が真実ではありません。
 甲冑研究は立派な学問です。たとえ今は認められていなくても、我々がそうしなければならないと思います。甲冑研究とは、それ程大切だということを冷静に認識して頂きたいと思います。
 このサイトにご参加の皆さんに認識して欲しいことがあります。それは、当世具足の発生時期です。少なくても勝頼は知らずに天目山を迎えたでしょう。これは事実です。




                 仏 胴 の 定 義


 仏胴の定義は「当世具足の胴の形態を示す語の一つで、継ぎ目が分からないように漆で塗りつぶした胴。または一枚の鉄板や練革を打ち出して作られた胴。」(三浦一郎作成「甲冑用語集」より引用)となります。古くても天正後年のものが精一杯でしょう。




              秀吉所用の具足について


 秀吉清正記念館蔵の「伝秀吉所用の甲冑」は、「色々威」との表示がされていますが、そうではなく兜、胴、袖ともすべて別物で構成されているのです。袖に大きな桐紋の金物が打たれ、木下家伝来ということから秀吉所用といわれるようになったのでしょう。しかし、その形式を確認する限り、古く見ても寛文が限度といわざるを得ないのが事実です。
 秀吉の唯一の遺物が仙台藩伊達家に伝わった(重文)「銀箔押白糸威丸胴具足」といわれています。これは天正後年のものとして十分に頷け、いわれているとおりの小振りで伝承ともほぼ一致します。この両者をよく見比べて下さい。その違いこそが、明らかに年代観を示す特徴となります。




               伝秀吉の甲冑について



 仙台博蔵の「伝秀吉の甲冑」は、非常に小振りに作られ、また非常に軽いことでも知られています。以前伺ったときに女性の学芸員から兜、胴、小具足のすべてを片手で持てる程と聞いたことがあります。秀吉が小柄だったという伝承の裏付けにもなるでしょう。
 これは天正十八年の段階で最も発展した形式の甲冑だったと思われ、いわば初期的当世具足を代表する遺物に該当する数少ない資料です。また年期が特定できることから、安土桃山期における甲冑の変遷を裏付ける絶好の基準資料としても注目されます。
 恐らく受け取った政宗は「なんじゃこりゃ!」状態だったでしょう。その反対に秀吉は「見たことねーだろー」と優越感状態だったと想像します。その拝領の真意は、西国の発展ぶりを東国を代表する政宗に見せ付けるためであり、つまりは豊臣傘下に服従することを促すためと思われます。





            伊達政宗所用の甲冑について


 伊達政宗の所用と伝えられる仙台博蔵の「仙台胴(五枚)具足」は、明らかに天正十八年以降のものです。つまり、この小田原の陣を切掛に政宗は鎌倉の雪の下に住む甲冑師を仙台に呼び寄せて、いわゆる「仙台胴具足」を製作に着手させたのです。仙台胴の原型が雪の下胴にあるといわれる訳がそこにあるのです。これは甲冑研究の定説となっています。
 また、三日月の前立は俗に「剣月」とも称し、桧板に和紙を張って作られ、先端程紙のように薄くなっています。その六十二間の筋兜鉢は明らかに相州系の作者の特徴をあらわにし、「宗久(宗冬か?)」の銘が認められます。
 胴は古式の形態を残しながらも、やはり慶長以降の作と思われます。西国では当世具足がかなり普及していたにも関わらず、東国では未だこのような形態の甲冑が当たり前のように使われていたのです。
 このあたりが研究者に時代的な錯誤を生じさせ、この甲冑を政宗全盛期の天正前年のものとみなすようになったのでしょう。





        「三宝荒神形兜付両引胴具足」について



 この甲冑は元来、甘粕家のもので、何らかの経緯で親戚の登坂家に移り、登坂家から伊達家に献上され、いつの頃からか謙信所用品の伝承が発生したと仙台市博物館・学芸員の嘉藤美代子氏が述べられていました。(以上 上総介様)

 小生も以前に嘉藤氏と議論したことがあります。このときに氏は「謙信ぎりぎりではないか」と言っておられました。この兜は張掛部分が外せ、中に古頭形の鉢が見られます。この鉢は天正期を十分に伺わせるもので、故に一時は兜のみが伝承と共に一人歩きした時期もありました。しかし、シコロの形式や付随する胴、小具足を見る限りやはり慶長頃のものと言わざるを得ません。やはり謙信のものでないとこは明らかのようです。





             上杉神社の甲冑について


 四年程前になりますか、上杉神社で新たな発見があったのをご存じですか。形式から想像して謙信の時代のものと推測される兜です。鉢は同蔵「金箔押頭形兜」に見られるような古頭形で錆止め程度に粗く黒漆が塗られています。シコロがかわっていて、すこぶる長く三つに分かれた割ジコロで、先端が三角形に尖っているのです。それを広げて置くとイカのようにみえるのです。これを被ると先端が肩先にかかると想像され、また素朴な鉢の塗りから張掛兜の内鉢ではないかと想像されます。ある研究家は「舞楽に使う被り物ではないか」と言っておられましたが、とにかく表現のしようがない変なものでした。
 日月前立で有名な伝謙信所用の「紫糸綴丸胴具足」は、実は景勝の所用品というのが正しいようです。前述のように謙信の時代には当世具足はまだありません。この時期に漸く胴丸や腹巻に変化が訪れたのです。それも畿内を中心に起こったことであり、これが越後に到達までには相当の時間がかかったと想像されます。この甲冑の大きな特徴は、通常佩楯に用いる伊予札で形成されている点です。同社には今一領こうしたタイプの丸胴具足があり、これが上杉家特有のものと想像されます。その効果について考察を重ねていますが、残念ながら未だ不明です。すなわち、こうした形式を持つ胴丸、腹巻であれば十分に謙信の所用と頷けるのではないでしょうか。小生は過去に一度だけこうした形式の胴丸を見たことがあります。




               川上村の兜について



 川上村福源寺に伝わる自天王の兜は凄いものです。小生も一度は実見した名品です。これに胴丸と大袖が付いているのをご存じでしたか。兜と大袖は今でも完全な形で保存されていますが、胴丸は残念にも明暦二年に火災で焼失し、金具廻りをはじめ金物、鉄札を残すのみとなってしまいました。ここ十数年前にこれらの部品を参考にして復元されたと聞いております。残された兜と大袖は、すこぶる保存状態が良好で、製作時のままの姿で現在に至ったことは誠に貴重です。一見すると幕末にでも作ったものかと思う程美しいと聞いております。ここまでの保存状態を保てたのは、あまり人目に晒されることがなかったからだと思われます。そこにはベールに包まれながらも、地元民の弛まぬ努力とものへの愛情があったからだと思います。このため、現在でも拝見できる日は御開帳の二月五日の一日で、最近ではそれも写真の公開のみになったとも聞いています。
 山上先生の甲冑研究に対する功績は素晴らしいものがあります。それは研究家の多くが認めることです。それ以上は言いたくないし、聞かない方がいいと思います。実物と照合しながら先生が書かれた本を読んで下さい。大いに勉強になりますよ。




                戦 国 時 代 と は


 応仁の乱以降、各地に群雄が割拠し抗争を繰り広げた。この時代を我々は戦国時代と呼んでいる。この時期、俗に戦国大名と称する者が独自の領土を獲得し、その拡大を計って抗争を繰り広げたのである。この時代は国民的人気も高く面白い。だから、小説として読まれたりテレビや映画で多く放映されるのである。この当然のようなことに大いに疑問を抱くのである。
 それは甲冑の研究の中で生じた疑問からだった。南北両朝の合致以後しばしの安定期の後、再び戦乱が起こり戦国乱世へと突入する。このパターンで想像すると甲冑はより強固に変化発展を遂げるはずである。しかし、室町期の甲冑をトータル的にみると明らかに代が下がる程美しく、形式化されたものになっていくのである。その代表として腹巻の流行が挙げられる。腹巻はもともと下級士卒のために開発されたものといわれ、着脱に際して背中で開閉する中世甲冑の一種である。これに、わざわざ袖や兜を付け、さらに背板まで付けるのである。すなわち、これがこの時期の武将のステータスなのである。そこには日本史の通説に反比例した状態が見られるのである。この事実をどのように捉えるかによって、真の戦国時代の様相が見えてくると思うがいかがなものか。
 腹巻は大変不便なものでこれに大袖や背板を付けると、付き人の手を介さないと着用すら困難になります。元来は下級士卒が軽便に行動するために開発されたものといわれ、室町期に描かれた合戦図を見ると胴のみの着用を常としています。これに袖や兜が付くようになったのは、恐らく室町の中期以降と考えられます。すなわち「戦国時代」の到来と共に腹巻が流行するのです。その原因について我々の先輩は「戦闘の激化に伴い軽便さが要求されたため」と解いておられました。もしもそうであるならば、もっと早くに当世具足のようなものが出現していてもいいと思います。しかし、現状では阿古陀の兜に大袖を付けた色々威の腹巻が流行しているのです。不思議でしょ。川中島合戦の時代は、未だにこうした美しい甲冑を着ていた時代なのです。





               渡 辺 守 綱 の 甲 冑


 吹雪氏の誘いに応じて豊田市郷土資料館を見学。渡辺守綱が家康より拝領したといわれる南蛮胴具足を拝見。久しぶりに味わう本物との確認に言い知れぬ感銘を覚えた。兜、胴に南蛮胴特有の鉄製の上満智羅、越中頬、瓢籠手、粗め伊予佩楯、越中臑当、板脇引、背旗と旗指の装置である板合当理と受筒等の小具足をすべて揃えた皆具資料として大いに注目される。「亀のようである」との吹雪氏の評価の画像も、飾り気のない真実を伝えようとする一念で描かれた貴重なものと思われる。祖先の功績を現代の世まで伝えた子孫一族の厚い思いを感じさせるまさに貴重なる一品である。

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                金溜塗具足の由緒



 久能山東照宮博物館所蔵の金溜塗具足が永禄三年(1560)五月、織田勢に包囲された今川勢の大高城に家康が兵糧を運び込んだ際の着料具足と比定されたのは明治期の『久能山御宮御宝物目録』あたりかららしく、古い記録にはそうした由緒は見当たりません。『信長公記』には、「今度家康は朱武者にて先懸をさせられ大高へ兵糧入れ」とあります。(以上 上総介様)

 久能山の「金溜塗黒糸威二枚胴具足」は明らかに永禄年間のものではありません。小生が名付けた如く、これは完成された当世具足の形式です。推定される製作年代は江戸前期寛永頃と思われます。家康を神格化させるために、幕府がこうした伝承をもとに作り上げたものと考えられます。『信長公記』もこうした時代に書かれたものであり、甲冑に関する記述の信憑性はかなり低いものと思われます。




                『信長公記』について


 『信長公記』の確たる成立年代については何とも言えません。しかし、基本的なこととして原本といわれていた内閣文庫のものは古写本であって、最古の写本でも町田本の寛永頃のものと認識しています。元和はたまた慶長期の原本、写本があるのであればご教授下さい。この寛永期は事実上江戸幕府のすべての体制が確立した時期であります。家康所用なる甲冑を捏造し、『三河物語』に代表される多くの戦国時代を描いた書物が刊行された時期でもあります。
 小生は文献や古文書の専門ではありませんが、何かこの時期にひっかかるのです。もしも、『信長公記』が慶長初年に成立しているのであれば、あまりにも武具や合戦に対しての書き方が甘いように思えてならないのです。当時の甲冑(胴丸、腹巻)を装着して、そこに描かれているような方法で戦をしたとはどうしても思えないのです。その逆に、これらの書物が真の戦国時代をベールで包み隠そうとしているかのように思えるのですがいかがでしょう。
 小生がこれらの文献に疑問を持つようになったのは『武功夜話』にあります。当時はこれを大発見と大いに評価したものです。偶然これを裏付ける史料の『前野文書』を拝見する機会があり、このときに浅からぬ経験から紙質に大いに疑問を抱いたものです。この後は誰もがご存じのとおりです。江戸期にはこうした行為が多分に行われ、戦国時代という時代を捏造していたということです。そこで、専攻する武具の立場でものを見ると、そこには真実の欠片も無いことが徐々に分かってきたのです。それは、あたかも真実をベールで覆い隠そうとしているが如くです。戦国というには、あまりにも武具や戦闘に関する記述があいまいにかかれているのです。この文献と遺物との大差をどう埋めるべきか考察を重ねている最中です。しかし、そこに究極の優先順位を付けるとすれば、小生は現物である遺物を取るでしょう。
 「書く」ということはどんなことでも書けますし、書き直すことも容易にできます。しかし、遺物は修補すれば必ず分かります。近い将来、これまでの利害や学閥を超越し、真実のみの探求という意味から、両面の専門家が意見を交わせるときが必ず来ると小生は信じています。




               軍 装 に つ い て


 当時はよほどの人でないかぎり甲冑武具を個人では所持できなかったでしょう。つまり、多くは共有品ということになります。山梨県の郡内地方で発見された刀(昭和六十一年に県文指定)はそれを示す好史料だと思います。「天文十七年」の年期と「元近」なる作銘が認められるこの刀は決して特定の権力者によって作られたものではありません。『甲斐国志』に五口の所在が認められ、これらは土民により緒郷村を統括していたと思われる社に奉納されたものなのです。つまりは、村の共有品として有事に際して出征する者に貸し与えられたものと推測します。こうしたかたちで甲冑も持ち回りしたと思われます。中世社会の思想は、我々現代人では到底理解し難い部分が沢山あります。「○○所用の甲冑」という考え方も、実は近世以降の考え方なのです。
 今一つは奉納品という考え方の認識の違いです。これが甲冑であれば着古した中古を奉納することはなかったといわれています。袖も通さぬ新品を神に捧げたのです。これらの中には前述の刀のように共有品的な要素もあったと思われますが、基本的には奉納品は新品でなくてはならなかったようです。話が反れましたが、当時の軍装について想像するなら、勇壮に甲冑を着込んで行軍するのではなく、そのほとんどが普段着(野良着)だったでしょう。そして、いざというときにだけ限られた数の甲冑を借り受けて戦に挑んだものと考えられます。




            討ち取った敵の持ち物について


三浦一郎 過去にこんな話を先輩に聞きました。関ヶ原に程近いある寺の縁の下から頭蓋骨が付いたままの兜が二頭出土したそうです。文字通りの兜首です。当時の武士は互いに敬意をもって戦に臨んでいます。勝鬨を挙げるや否や敵の武具をひっぱがすなんてことは江戸期以降の発想だと思います。この兜首と同様に供養をし丁重に扱われたでしょう。小生はこの寺を尋ね、兜の話をしました。すると住職の顔色が変わり話が食い違ってきたのです。どうやらすでに売ってしまったようなのです。地元にあれば貴重な文化財だったものを。これがすなわち江戸期以降の価値観なのです。
 刀や馬だって甲冑と同じだと思います。当時は討ち取った敵の持ち物にも、敬意をもって大いに供養されたでしょう。但し、これは織豊政権が台頭してくる以前のことです。両者を合わせて戦国時代という人がいますが、これは明らかに異質のものであります。哲学や宗教、ものの価値観等の面で大きな違いがあったと思われます。この時期、戦における思考を大きく左右したのが朝鮮の役だったと思います。いわば、ここでなされた傍若無人な行為こそが江戸期においての戦国時代のイメージなのでしょう。


宮下帯刀 参考になればと思いまして書かせて頂きました。 

>勝鬨を挙げるや否や敵の武具をひっぱがすなんてことは江戸期以降の発想だと思います。この兜首と同様に供養をし丁重に扱われたでしょう。

 『池田家譜集成』に池田勝入斎を討ち取った長田伝八郎(後の永井氏)が、刀・脇差・槍と共に黒糸威の甲冑も分捕ったと書かれています。これは永井家の家宝となったそうです。
 また、松浦静山の『甲子夜話』に同じく長久手の合戦で討死した森長可の兜について興味深い記述がありました。「兜は討死のとき首とともに敵に渡したれば、家になく、いま井伊家に伝う」とあります。これは首とともに兜が戦利品として持ち去られたということだと思います。
 河尻秀隆の兜も、首を挙げた者の家(三井家)に伝わっております。




                次 の 国 宝 甲 冑


 一昨年になりますか、岡山県蔵「赤韋威大鎧」が国宝になりました。指定されるべくして指定されたという感じです。これで甲冑関係の国宝は十七件になりました。そこで、次に国宝に指定されるであろう甲冑は何か?
 小生であれば岡山県林原美術館蔵「縹糸威胴丸」を挙げます。奥州南部家に伝来し、兜、胴、袖の三者を完備。現存する南北朝期の三大胴丸に数えられる内の一領です。残る二領は春日大社蔵と厳島神社蔵の「黒韋威胴丸」で共に国宝に指定されています。そう言えば南部氏は甲斐源氏の一党でしたね。




              投石と汗のメンテナンス


野崎 投石が・・というのは「年中行事絵巻」に出てくる「印地打ち」つまり投石機、スリングの事でしょうか? 福島県の博物館で「グイ投げ」という紐を編んで作ったスリングを見たことがあります。どこか武士の家で伝承していたらしいのです。
 もうひとつ質問です、籠手は鎖帷子を内蔵している場合、木綿の下に麻布や真綿を詰めて衝撃を和らげていますが、それで汗まみれになった後のメンテナンスはどうするのでしょうか?甲冑を着ての古式泳法など見るたびに気になるのですが。いちいちほどいてオーバーホールするのでしょうか?



三浦一郎 投石は南北朝以後の戦闘ではかなりしていたと思われます。楠正成に代表されるように、ろくな武装もできない彼らにとって石は絶好の武器だったでしょう。そうした思いよらない戦闘に、かえって幕府軍は翻弄したと思います。
 甲冑に用いる布帛の部分を家地といいます。通常(足軽のものを除く)は表家、中家、裏家と三層構造からなっています。江戸期になると表家には金襴や緞子も使われますが、これ以前は三層とも麻布がほとんどです。実用期は丈夫さや水切、通気を考慮したものと思われます。機会があれば、この家地に施した針仕事をじっくりと見て下さい。いい仕事してますよ。


野崎 末永雅雄先生の著作でしたか「八丁つぶての喜平次」なる人物が軍記にあって、これだけの距離は手で投げるのでは無理だから印地のような投石機を使ったのだろうとあります。
 中沢厚『つぶて』物と人間の文化史・法政大学出版 にも投石紐について考証しております。
 八王子城から出土する土玉については火縄銃では使えないから弾弓、つまり中国の投石弓があったとする説もありました。
 そういえば青空骨董市で見つけた鎧の袖は木綿がすり切れる程使われているのに中の鎖帷子は漆焼き付けでほとんど錆がありませんでした。確かに昔の人はいい仕事をしてますなア。




                手 造 り 甲 冑


ぷーよん プラ板を主な材料とする甲冑作りを趣味としていましたが、できるだけ実物に近い材料、拵えで作ってみようと思い立ちネットで検索しているうちにここにたどり着きました.こちらにいらっしゃる方々は甲冑に詳しそうなのでいろいろと教えていただけたら幸いです.
 まずは威糸からと思い、組紐の本で調べてみましたが、鎧と関連付けて記述されている訳もなくお手上げ状態です.逆に鎧の本には啄木、樫鳥等々の表記がありますが、そのパターンにまで言及しているものを知りません.どなたかご存知ないですか?


三浦 まず、お聴きしますが、何時代のどういう甲冑を作りたいのですか?素材にこだわるときりがありません。甲冑一領作るだけで、原材料で数百万円はかかるでしょうか。まあ、これは趣味の段階を脱出した人が集める材料ですが。
 プラ板でも紙でもいい。とにかく作る前に何を作りたいのかを明確にし、その現物をじっくり観察することです。組糸なんかは後でもいい。甲冑本体がどのような構造のもとで構成され、各時代によってそれがどのような変遷を辿ったか。それによって、さらに作りたい甲冑を絞り込んで下さい。具体的に作るのはそれからです。


ぷーよん 何時代と言われると困るんですが、具体的には兜:日根野形、胴:横矧桶側(アクセントに胸取か腰取)、籠手:五本篠、佩楯:伊予佩楯、臑当:五本篠、シコロ(変換できません)、袖、下散は切付札毛引威しとするつもりです。色は金蒔絵が映える黒漆塗りがいいかなと思っています.
 特に威糸について述べたのは近所で手に入り難くなったため、自分で組めた方が良いと考えたからです。


三浦 いきなり当世具足ですか。こりゃ驚いた。日根野形って日根野頭形のことですか? 板物の当世具足って一番難しいんですよ。プロの甲冑師だって嫌がるし、この程度のものなら実物を買った方が安いと思います。甲冑って案外安いんですよ。少々傷んだのを買って、自分で直してはどうでしょう。博物館なんかで見たって細部まで見るらないし、図鑑だってそのとおりです。甲冑師の言葉ですが「先生は実物だ!」っていうのがあるくらいなんです。因みにプロに頼むと一千万ではできないでしょう。実物を買えば百万くらいのものです。
 シコロって「革」に「毎」と書く字ですよね。小生は一年がかりで二千余語に及ぶ甲冑用語集を作成しましたが、この字だけが無いのです。あとは驚くほどの専門用語でのみ使う字までありました。



ぷーよん 確かにネットオークションなどで見かける安いものを買って修理した方が勉強にもなり手っ取り早くもあると思います。資料として買うつもりであれこれ物色はしています。
 板物の難しさはそれなりにわかってるつもりです。日根野頭形と横矧桶側胴は2度目のチャレンジです。かつては慣れ親しんだ材料ということでプラ版を使いましたが、3次曲面を表現するには加熱しながらの絞りが不可欠です。着用できるくらいの大物を加工するにはそれなりの設備が要るのであきらめガスコンロであぶりながら手曲げで作りました。日根野頭形に関しては申し分ない強度でしたが、眉庇の捻り返しの曲面が表現できませんでした。胴は材料の尺の問題で二枚胴は無理だったので五枚胴にしました。プラ版で蝶番は加工も強度も論外だったので古い学生カバンの合成皮革を切り出し蝶番がわりに各パーツを繋ぎました.強度は悲惨なもので着ているうちに肩上は根本から折れ背中中央の溝にも亀裂がはいってしまいました。
 これらの反省から次は伊予札丸胴を作りました.理由は
1.丸胴だと蝶番が要らない
2.板物と比べ応力集中による破損が少ない
3.伊予札だと本小札より重なりが少ない分少しの数ですむ
です。そんな経緯があってのチャレンジなのでいきなりでもないんです。鉄で作るといっても加工しやすい薄さの鉄板を買ってきて打ち出し、市販の鋲で留める程度ですので何とかなると思っています。既に籠手から作り始めています。これが上手くいかなかったらあきらめます。
 シコロってそうだったのですか。道理で変換できない訳だ。



三浦 我々はよく「線が出ない」という言い方をします。板物は特にそれが言えるのです。頭形兜にしろ桶側胴にしろこの線(シルエット)を出すのが難しいんです。
 甲冑展を見にいって同じような当世具足が十領並んでいるとします。これを遠目で見ただけで、ほぼ勢作年代が分かるものです。これは胴丸から当世具足への変遷、さらには当世具足完成後の変遷に特有の線があるからです。これを把握して作らないと化物になってしまいます。
 過去にいろいろと当世具足を着ましたが、慶長期頃の比較的古いタイプのものは着ていてもシャキとします。これに比べて江戸後期頃のものになると着ていて楽なんですがダラ〜とする。こんなところにも各時代の思考が感じ取れるものです。
 平成九年に愛知県日進市の依頼で当世具足の変遷を書いたものがあります。ご参考になるかと思いますので、よろしければ問い合わせてみて下さい。





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