春 日 虎 綱



上総介 高坂弾正が正しくは春日虎綱とするならば、虎綱の「虎」の字は信虎からの一字書下しと考えられますよね。
 高坂の生年、事績が検討されるということはないですか。何方か御教示して頂けませんか。


宮下帯刀  香坂虎綱の生年は大永七年(『武田信玄大事典』・・・典拠まで分かりませんでした)で、信虎の追放は天文十年です。虎綱が信虎より「虎」の字を与えられたのは、十五歳ということになります。
 当時の慣習から考えると不自然とも思えません。生年を「大永七年」と記載している史料が知りたいですね。もしかしたら小林計一郎氏「高坂弾正考」(『日本歴史』245号)あたりに載っているかも知れません。
 没年については平山優氏が論文(『甲斐路』80号)で触れておられ、天正六年六月十四日(『武田家過去帳』)が正しいようです。
 虎綱の名乗りを纏めてみました。
  春日源助→春日源五郎虎綱(信虎の一字書出)→香坂源五郎虎綱(佐久郡香坂氏へ養子)→香坂弾正左衛門尉→香坂弾正忠→春日弾正忠虎綱(本姓へ復す)


上総介

> 香坂虎綱の生年は大永七年(『武田信玄大事典』・・・典拠まで分かりませんでした)
 虎綱の生年を「大永七年」とするのは、『甲陽軍鑑』にある没年の年齢から逆算したものようです。

>虎綱が信虎より「虎」の字を与えられたのは、十五歳ということになります。当時の慣習から考えると不自然とも思えません。
 この点、問題となるのは武田家譜代の家臣ではない豪農・春日源五郎に何故、信虎が一字書下しをしたかということだと思います。私には異例のように見えます。よっぱどの勲功があったのか、豪農・春日家は侮れない力を保持する家だったのでしょうか?
 信虎から一字書下しを他に受けた武田家臣は源五郎とは世代が違いますよね(甘利、飯富、小幡、原)。私は伝えられる生年が不自然に見えます。

>もしかしたら小林計一郎氏「高坂弾正考」(『日本歴史』245号)あたりに載っているかも知れません。
 私も読んでいないのですが、この年代は武田家臣の研究が現在のように進んでいなかった(現在でも更なる研究が必要とされている)頃の論文ですよね。それでも期待したいですね。

> 没年については平山優氏が論文(『甲斐路』80号)で触れておられ、天正六年六月十四日(『武田家過去帳』)が正しいようです。
 没年が天正六年とするのは、まず間違いなさそうですね。海津の明徳寺にある墓には何と刻まれていますか?私は行ったこと無いので御教示御願いできませんか。
 香坂家を継いで、姓を改めたことを示す文書は存在しますか。確か、現存する確認できる文書は全て春日姓でしたよね。
 著名な割に謎が多い人物ですね。


小林(1)


宮下帯刀

>信虎から一字書下しを他に受けた武田家臣は源五郎とは世代が違いますよね(甘利、飯富、小幡、原)。私は伝えられる生年が不自然に見えます。
 信虎は、「虎」の字を譜代家老衆ばかりではなく、漆戸虎光・楠浦虎常ら後の義信家臣にも与えています。正確な生年までは分かりませんが、虎綱とは近いように感じられます。

>海津の明徳寺にある墓には何と刻まれていますか?私は行ったこと無いので御教示御願いできませんか。
 私も伺ったことまではないですよ(笑)。当寺の記録には「五月初七日死去」と書かれています。しかし、六月十二日の時点で生存していたことが武田信豊書状から窺えますので、明徳寺の記録は間違いのようです。

>香坂家を継いで、姓を改めたことを示す文書は存在しますか。確か、現存する確認できる文書は全て春日姓でしたよね。 
 高野山成慶院の『武田家過去帳』には、「香坂弾定(正)」「香坂弾正忠」と見られ、虎綱が香坂姓を称していたことは間違いなかろうことかと思います。
 それにしても『甲陽軍鑑』の「昌信」という諱は、実際のところどうだったんでしょうかねぇ。


上総介

> 信虎は、「虎」の字を譜代家老衆ばかりではなく、漆戸虎光・楠浦虎常ら後の義信家臣にも与えています。正確な生年までは分かりませんが、虎綱とは近いように感じられます。
 私は漆戸、楠浦も生年の見直し(確定)が必要に感じています。宮下さんの虎綱と年齢が近いとする判断の基準はなんでしょうか?御説をお聞かせ下さいませんか。

> 当寺の記録には「五月初七日死去」と書かれています。しかし、六月十二日の時点で生存していたことが武田信豊書状から窺えますので、明徳寺の記録は間違いのようです。
 生年は?が正しいようですね。

>高野山成慶院の『武田家過去帳』には、「香坂弾定(正)」「香坂弾正忠」と見られ、虎綱が香坂姓を称していたことは間違いなかろうことかと思います。
 高坂ではなく、正しくは香坂ですよね。現在、御子孫と名乗る方は高坂姓を拠り所としていますが、微妙ですね。高坂甚内は子孫(子供)といわれていますが、どうなんですかね。

>それにしても『甲陽軍鑑』の「昌信」という諱は、実際のところどうだったんでしょうかねぇ。
 「昌」の字を使用する武田家臣は多いですよね。烏帽子親になった人物からの一字書下しでしょうか。特定できる有力な人物はいますか。


宮下帯刀

>私は漆戸、楠浦も生年の見直し(確定)が必要に感じています。宮下さんの虎綱と年齢が近いとする判断の基準はなんでしょうか?
 漆戸、楠浦は『甲州二宮造立帳』(永禄八年)にその名が見えますが、義信の側近です。私は、老臣飯富兵部は別として、皆若かったのではないかと考えております。義信の重臣として長坂源五郎昌国(釣閑斎の嫡子)、曽根周防守(昌世の嫡子)、跡部昌忠(天文十三年生)らが知られており、虎綱よりは若いと思われます。確証は無いのですが、単純にそう感じられただけです。それ以上、つっこまないでください(笑)。

>高坂ではなく、正しくは香坂ですよね。現在、御子孫と名乗る方は高坂姓を拠り所としていますが、微妙ですね。高坂甚内は子孫(子供)といわれていますが、どうなんですかね。
 直系のご子孫でも、江戸期において帰農していると、姓が変わってしまうことがあります。伊那郡にも香坂氏がいるのですが、現在は高坂姓を用いておられます。武家の場合ですと、まず考えられないでしょうね。

>「昌」の字を使用する武田家臣は多いですよね。烏帽子親になった人物からの一字書下しでしょうか。
 「昌」の字も、「信(信玄時代)」や「勝(勝頼時代)」の字とともに武田氏が許可していたのではないかと思います(『武田信玄大事典』の受け売りです・・・笑)。


小林 跡部昌忠も義信側近だったのですね。父の勝忠は竜朱印奏者・勘定奉行?で、勝頼側近として名前が見えますよね。こうしてみると、義信の側近も勝頼の側近も国人領主に近い部将が多いような気がします。
 何かしら信玄に考える所があったのでしょうか…。


宮下帯刀

> 跡部昌忠も義信側近だったのですね。
 そうなんです。しかしその後は勝頼の側近(近習番頭)になっています。実直型の人物だったのでしょう。

>勝忠は竜朱印奏者・勘定奉行?
 おっしゃる通り、昌忠の父美作守勝忠は勘定奉行であり、竜朱印状の奉者を多く勤めていることで知られています。

> こうしてみると、義信の側近も勝頼の側近も国人領主に近い部将が多いような気がします。
 そうですね。没落した甲斐国人衆が多いように感じられます。有力国人衆の子息を付けなかったのは、自分の身が危うくなると感じたからでしょうね。


小林  少なくとも、跡部一族に付いては大勢力だと思うのですが…。昌忠・勝忠と跡部尾張守勝資とはどのような関係だったのでしょう?


宮下帯刀 義信・勝頼の側近を務めた跡部昌忠(勝忠の嫡子)の家系は跡部氏の庶流で、本家の勝資(信秋の嫡子)とは区別して考えるべきだと思います。
 跡部勝忠は譜代家老衆、同心衆十五騎の財政を司る官僚ともいうべき存在で、”有力”国人衆とは言い難いと思います。また、跡部氏嫡流の勝資は同心衆三百騎の宿老ですが、勝頼の側近に付けられたという訳ではなく、信玄の元で活躍した家臣です。勝頼の時代になって政治的立場が著しく向上した為、勝頼の家臣と考えられがちではありますが、実はそうではないのです。
 勝頼の側近は跡部昌忠の他に、向山出雲守・小田切孫右衛門・安部宗貞・竹内与五右衛門・小原継忠・同下総守(継忠の兄)・秋山紀伊守の八人が有名ですね。


小林 勝資と昌忠が、出自が同じだけの遠い親戚か、関係の近い親類か悩みますね。何れにしろ、300騎という大動員数を誇る跡部が、新田次郎の小説にあった様に内務臣僚であるということはなさそうですね。
 武田家の家臣は、いままで一般に考えられてきたものとは大きく性格が異なるようですね。


上総介

>義信・勝頼の側近を務めた跡部昌忠(勝忠の嫡子)の家系は跡部氏の庶流で、本家の勝資(信秋の嫡子)とは区別して考えるべきだと思います。
 跡部勝資は武田家滅亡の一因のように言われてきましたが、天目山で殉死している点は注目ですね。
 個人的には豊臣家における石田三成みたいな感じがあります。もっと評価されていい人物なんですが、史料が少ないですね。

>跡部勝忠は譜代家老衆、同心衆十五騎の財政を司る官僚ともいうべき存在で、”有力”国人衆とは言い難いと思います。
 跡部家の威勢を考える上では明海・景家父子でしょうね。「武田信昌」でも少し触れましたが、跡部家をあそこで滅亡させたのは、その後の武田家にとって大きいです。


宮下帯刀

>跡部勝資は(中略)天目山で殉死している点は注目ですね。
 武田氏滅亡時は、保身のことしか頭にない家臣が大多数でした。その状況下にあって、勝資はよく殉じたと思います。果たして名補佐役であったかはどうかは疑問ですが、最後まで責務を全うした行為は賞賛に値すると思います。

>個人的には豊臣家における石田三成みたいな感じがあります。
 そうですね。政敵が多いことも共通していますね(笑)。

>史料が少ないですね。
 竜朱印状の奉者としての史料は幾らでもあるのですが、本人の事績を窺い知るような史料は少ないですね。後世の人達によって、滅失されてしまったのでしょうか。

>跡部家の威勢を考える上では明海・景家父子でしょうね。「武田信昌」でも少し触れましたが、跡部家をあそこで滅亡させたのは、その後の武田家にとって大きいです。
 そのようですね。「武田信昌」の項で勉強させて頂きました。また教えて下さいね。


上総介

> 政敵が多いことも共通していますね。
 三成の政的を近江派vs尾張派、官僚派vs武功派、中央集権派vs地方分権派という対立図式で従来は語られてきましたが、実際は複雑で物凄く入り組んでいますよね。
 跡部・長坂も山県・内藤・馬場との対立が官僚派vs武功派、先代vs次代の対立などがいわれていますが・・・これは『跡部尾張守勝資』で続きは述べさせて下さいね。

> 竜朱印状の奉者としての史料は幾らでもあるのですが、本人の事績を窺い知るような史料は皆無に等しいですね。後世の人達によって、滅失されてしまったのでしょうか。
 言葉足らずでした。確かに竜朱印状の奉者としての書状は垣間見られますが、本人の事績を窺がわせる史料は『甲陽軍艦』が中心にならざるをえないですね。
 跡部勝資の史料は後世の人達によって、意図的に減失されたのでは無く、武田家が天目山で大名として滅亡したこと(その後の信長の武田一族・家臣への処断)が一番に考えられます。馬場美濃守も史料が少ないですが、故意に減失したとは考えられないですよね。
 武田氏研究の中でも家臣団の研究は全体的に考えれば、まだまだ遅れています。特に信虎以前に関する史料は微少です。信虎の見直しが急務かと感じています。
 石和・春日家と信州・春日家は親戚でしょうか?親戚だとすると、どちらが本家でしょうか。通称に「源」の字、諱に「昌」の字の共通性から何となく感じたのですが如何でしょうか。室町時代の文献でも垣間見られる信州・春日家と虎綱の家が親戚とするならば、疑問も多少解けるのですが。


宮下帯刀

>跡部勝資の史料は後世の人達によって、意図的に減失されたのでは無く、武田家が天目山で大名として滅亡したこと(その後の信長の武田一族・家臣への処断)が一番に考えられます。
 そうでしょうね。滅亡した大名家の文書は残らないのが相場と決まってますからね。

>武田氏研究の中でも家臣団の研究は全体的に考えれば、まだまだ遅れています。特に信虎以前に関する史料は微少です。信虎の見直しが急務かと感じています。
 私もそう感じます。信虎発給文書は41点しか知られていないようです(「甲斐武田氏文献目録」)。信虎研究は困難をきわめるでしょうが、目を向けて欲しいテーマですね。
 信虎文書については高島緑雄「武田信虎文書の編年」(『歴史論』1)が参考になると思います。

>石和・春日家と信州・春日家は親戚でしょうか?親戚だとすると、どちらが本家でしょうか。通称に「源」の字、諱に「昌」の字の共通性から何となく感じたのですが如何でしょうか。室町時代の文献でも垣間見られる信州・春日家と虎綱の家が親戚とするならば、疑問も多少解けるのですが。
 信濃の春日氏は滋野姓禰津氏流(刑部少輔貞親が春日を称す)で、その直系が春日昌吉と考えられます。詳しくは分かりませんが、故太田亮博士は信濃・甲斐の春日氏はおそらく同族であろうと述べておられます。そういえば、伊奈郡(現伊那郡)にも春日氏がおりまして、春日城に拠っておりました。





小林(1)

 香坂を豪農の子だとしていたのは甲陽軍鑑ですよね?ここで私が疑問に思うのは、当時では豪農=有力な寄子ではなかったのだろうかと言うことです。当然軍役の負担を強いられる筈ですし、若しかしたらそれなりの軍功があったのかもしれません。武川衆の馬場も身代的には同じ程度のものだったのではないでしょうか?
 私は、信虎が武田家の組織を強化するに当って、それほど身代の大きくない者を自らの旗本として登用していった中で香坂も馬場も取り立てられていったのだと思います。言うことを聞かない国人領主との対抗上、武田家の手足となって働く者を養成していったのだと思います。
 信玄前期の足軽大将といわれる部将達は浪人衆が圧倒的に多いですし、侍大将衆といわれる部将は国人領主が多いと感じています。信玄後期になると、国人領主的なものは多くは淘汰されていったのではないでしょうか。例えば栗原、諸角などその代表例のように思います。
 また、国人領主の次男・三男にとっては旗本になることが良い就職先であったのでもないでしょうか。(笑)
そこで旗本として扶持を与えたものに軍功を立てさせて、一家を立てさせる・本家を相続させる、ということを行えば大きな反感を受けることもなく中央集権化を進めることが出来るようにも思えますよね。
 甲陽軍鑑が何故に香坂を゛豪農"の出自とするかは分かりませんが…。


上総介

>香坂を豪農の子だとしていたのは甲陽軍鑑ですよね?
 そうです。

> ここで私が疑問に思うのは、当時では豪農=有力な寄子ではなかったのだろうかと言うことです。
 江戸期の農民と戦国期の農民は違いますからね。

>武川衆の馬場も身代的には同じ程度のものだったのではないでしょうか?
 馬場も春日(香坂)同様、有名な割に事績がはっきりしない人物ですね。彼の発給した文書は現在のところ1通も確認されていないですし、諱も信房、信春、信武、信政、氏勝など複数伝わっています。武田家臣は調べがいがありますね。

> 私は、信虎が武田家の組織を強化するに当って、それほど身代の大きくない者を自らの旗本として登用していった中で香坂も馬場も取り立てられていったのだと思います。
 従来、春日(香坂)、馬場は信玄子飼いの武将に言われてきましたね。信虎の事績を見直すことが、春日(香坂)、馬場の研究を深めるかもしれませんね。

>信玄後期になると、国人領主的なものは多くは淘汰されていったのではないでしょうか。例えば栗原、諸角などその代表例のように思います。
 何故、淘汰されていったのでしょうか。この点、御説をお聞きしたいです。

>また、国人領主の次男・三男にとっては旗本になることが良い就職先であったのでもないでしょうか。(笑)
 織田家では前田利家がそうです。真田家では昌幸ですね。

>甲陽軍鑑が何故に香坂を゛豪農"の出自とするかは分かりませんが…。
 『軍鑑』が高坂弾正(春日)、縁者の筆(一部)という割には事績がハッキリしないんですよね。


小林

>何故、淘汰されていったのでしょうか。この点、御説をお聞きしたいです。

 まず、淘汰(表現が適切かは分りませんが)されていったと感じるのを説明しますと、信玄後期の大身の部将を列記すると(甲陽軍鑑からの数字です)香坂450騎(これについては数字が本当かどうか…)山県300騎・跡部300騎・内藤250騎となります。跡部氏以外は旗本出身の部将です。
 親類衆・先方衆以外で100騎以上の部将を挙げると馬場・栗原・浅利・甘利・原(隼人)・土屋・板垣等となります。ここで有力国人領主であった栗原氏ですが、栗原昌清の代には200騎と見えますが、後を継いだ詮冬になると100騎と動員数が減少しています。両角家は虎定以降あまり資料等にも登場しないようです。(資料には疎いので、間違いがありましたらご指摘下さい)
 また、信虎時代・信玄前期に宿老であった板垣・甘利の両家も身代が大きくなっていない=厚遇されていたとは言えない状況だと思います。信玄前期と後期では、完全に武田家中の勢力図が変わっています。これは意図的に旗本出身の部将を取り立て、国人領主の力を削ごうとした結果だと思います。
 では、何故山県ら旗本出身の部将が取り立てられていったのかと言うと、目的としては領国内での武田家の影響力・直接支配権の増大を狙ったものに他ならないと思います。国人領主の支持を受けて家督を相続した晴信ではあっても、必ずしも武田家を第一義と考えない国人領主は、晴信にとっては決して扱い易い存在では無かったはずです。(支持基盤であれば尚更)
 他国を侵略するに当たって、国内の利害・意見を纏めるのにエネルギーを浪費するのは避けたいと誰もが考えると思います。自分の息の掛かった者に力を付けさせることが出来れば、自然に組織内の纏まりも強くなるはずです。
 信玄の国人領主に対する考え方を象徴する行動としては、葛山氏元の謀殺と飯富兵部の処断が挙げられると思います。駿東を基盤にした葛山氏は、武田家でいうと穴山氏か郡内小山田氏のような大変力のある国人領主でした。扱いに困るような勢力は、機会があれば直ぐにでも粛清するという感じを私は受けました。


上総介

> 香坂450騎(これについては数字が本当かどうか…)
 香坂の450騎というのは他の武田家武将と比較して異様に多いですね。検討の余地のある箇所と感じています。

> ここで有力国人領主であった栗原氏ですが、栗原昌清の代には200騎と見えますが後を継いだ詮冬になると100騎と動員数が減少しています。両角家は虎定以降あまり資料等にも登場しないようです。
 室住家については虎定以降の資料が確かに見当たりませんね。栗原家は勝頼が出した書状で詮冬が武田家中で重きをなしていたと考えられます。

> また、信虎時代・信玄前期に宿老であった板垣・甘利の両家も身代が大きくなっていない=厚遇されていたとは言えない状況だと思います。
 厚遇されていないとする(冷遇)逸話があるのですか?もう少し、御言葉を頂けませんでしょうか。板垣信憲は自身に問題があるので別ですが、信玄は家を絶やしていないですよね。甘利昌忠もそれなりに優遇されていますよね(事故死)。私は力量に合わせたものと考えています。

>信玄前期と後期では、完全に武田家中の勢力図が変わっています。これは意図的に旗本出身の部将を取り立て、国人領主の力を削ごうとした結果だと思います。
 他の戦国大名の家臣が非常に在地性が強く残っていて問題になっていた点を考えると注目する所ですね。

>では、何故山県ら旗本出身の部将が取り立てられていったのかと言うと、目的としては領国内での武田家の影響力・直接支配権の増大を狙ったものに他ならないと思います。国人領主の支持を受けて家督を相続した晴信ではあっても、必ずしも武田家を第一義と考えない国人領主は、晴信にとっては決して扱い易い存在では無かったはずです。(支持基盤であれば尚更)
 武田家重臣の中でその在地性を温存されていた穴山・小山田・木曾が武田家滅亡の危機に際して、揃って反旗を翻しているのが注目されますね。

>信玄の国人領主に対する考え方を象徴する行動としては、葛山氏元の謀殺と飯富兵部の処断が挙げられると思います。
 義信事件ですね。信玄は父にしたことを息子にされかかった両事件の本質は国人の意志ですからね。葛山については駿河領有の面で問題になったのでしょうね。葛山氏は全盛時には駿東郡から富士郡の一部にまで支配を広げた一族でしたね。確か、検地をやっていたと記憶しています。

>扱いに困るような勢力は、機会があれば直ぐにでも粛清するという感じを私は受けました。
 信玄の果断な政策を感じさせますね。


小林

>室住家については虎定以降の資料が確かに見当たりませんね。栗原家は勝頼が出した書状で詮冬が武田家中で重きをなしていたと考えられます。
 永禄年間の書状でしょうか?室住氏が200騎→100騎となっていることは、何らかの正当な理由があるにしろ信玄の国人領主弱体化政策(と便宜上呼びます)の延長線上のものと考えるのは穿ち過ぎでしょうか。

>厚遇されていないとする(冷遇)逸話があるのですか?もう少し、御言葉を頂けませんでしょうか。板垣信憲は自身に問題があるので別ですが、信玄は家を絶やしていないですよね。甘利昌忠もそれなりに優遇されていますよね(事故死)。私は力量に合わせたものと考えています。
 例えば甘利ですが、甘利信康幼少の為米倉丹後を陣代にしたというような記述が確か甲陽軍鑑にあったと思います。実力主義と言うこともあるでしょうが、甘利家の家宰でも家来でもない米倉を抜擢したことに恣意的なものを感じます。今福・駒井などの国人領主も、信玄期より勝頼期に多く名前が出てきます。信玄期には、やはり国人領主たちは窓際だったのではないでしょうか。能力の有無と言うより機会の有無により加増がなかったのではないでしょうか。
 勝頼期には、激戦地帯の東海方面に多くの国人領主系の部将が配置されています。自らの支持基盤である国人領主系の部将を頼みにしたと言う理由のほかに昇進のチャンスを与えたと言う見方は…


上総介

> 永禄年間の書状でしょうか?
 永録十一〜十二年(1568〜1569)頃と推定される書状ですから勝頼が主人ではないですが、武田家次期家督の有力候補の地位にありましたから目安にはなると考えています。

> 例えば甘利ですが、甘利信康幼少の為米倉丹後を陣代にしたというような記述が確か甲陽軍鑑にあったと思います。実力主義と言うこともあるでしょうが、甘利家の家宰でも家来でもない米倉を抜擢したことに恣意的なものを感じます。
 幼少のために軍役を果たせないためというのはどうですか。米倉は抜擢と考えた方が自然ではないでしょうか?丹後の子息・彦次郎の馬糞汁の逸話(事実かは不明ですが)から両者は友好な関係に思えるのです。

> 信玄期には、やはり国人領主たちは窓際だったのではないでしょうか。能力の有無と言うより機会の有無により加増がなかったのではないでしょうか。
 武田譜代と呼べる家臣は義信付きの傾向が見えますね。このことは武田の歴史を考えると国人の反乱に悩まされたという思いで意図的に弾かれたのか、難しい所ですね。
 武田家がいかに有力国人たちの力を削いでいったかを考えるのは棟別銭を考えた方が鮮明ですね。


小林

> 永録十一〜十二年(1568〜1569)頃と推定される書状ですから勝頼が主人ではないですが、武田家次期家督の有力候補の地位にありましたから目安にはなると考えています。
 確かその頃から信玄と連署の書状も見られるようになりますよね。

> 幼少のために軍役を果たせないためというのはどうですか。米倉は抜擢と考えた方が自然ではないでしょうか?丹後の子息・彦次郎の馬糞汁の逸話(事実かは不明ですが)から両者は友好な関係に思えるのです。
 ありましたね、その話し。青木氏・桜井氏・米倉氏などについて、もっと知りたいですね。

>武田譜代と呼べる家臣は義信付きの傾向が見えますね。このことは武田の歴史を考えると国人の反乱に悩まされたという思いで意図的に弾かれたのか、難しい所ですね。武田家がいかに有力国人たちの力を削いでいったかを考えるのは棟別銭を考えた方が鮮明ですね。
 武田氏の国人領主の領地に対する二重支配のことでしょうか?郡内小山田氏に付いても通行税などで干渉していますよね。
 国人領主系の部将の子息が義信・勝頼の側近に多いことは、次代に国人領主の家臣化を容易に行えるようにという信玄の深謀遠慮でしょうか?

上総介

> 郡内小山田氏に付いても通行税などで干渉していますよね。
 天文十八年十一月に棟別役が賊課されたのを機に武田家への家臣化が進展していますよね。

> 国人領主系の部将の子息が義信・勝頼の側近に多いことは、次代に国人領主の家臣化を容易に行えるようにという信玄の深謀遠慮でしょうか?
 上野晴郎氏は自身を推し立てた有力国人たちへの、やむをえない恩賞の一つが、この人事を生んだと考えられているようですね。義信へのハク付けの一環でしょうか(宮位、足利将軍からの一字書下し)。
 お話しが香坂から外れましたので、戻させて下さいね。香坂の出身といわれる甲斐国・石和は甲府の中心として早くから文化が開け、生産性の高い土地ですから、豪農の春日家は頷ける所ですね。虎綱は後年、香坂姓から春日姓に復していますが、由緒ある家だったのでしょうか?


小林 申し訳ありません、香坂から大分話しが飛躍してしまいましたね。しかし、非常に勉強になりました。
今回の討論で、信虎の武田家における功績について再認識する必要があると感じました。意見を交換して色々考えると、今まで思い浮かんでこなかった考えも出てきて良いようです。



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