跡部尾張守勝資について




小林  武田家中に於いて動員力300騎という、信玄股肱の臣・山県三郎兵衛と並ぶ勢力を誇り、竜朱印奏者・勝頼時代の重臣として知られる跡部尾張守についてですが、その評価は甲陽軍鑑の影響もあり概ね低い様です。
 @初期からの勝頼側近・跡部勝忠との関係。
 A信玄期における勝資の家中における地位。
 B勝頼の政策の多くに関わったと思われる勝資の、部将としての資質。
 C何故に甲陽軍鑑において、執拗なまでに非難されるのか。
 D実績としてはどのような事が残っているのか。
といった事に興味があります。
 ちなみに、好きな部将の一人として私は跡部勝資の名を武田軍団組織表のプロフィール上で挙げていますが、単純に興味のある部将・再評価が必要かもしれない部将という意味で名を挙げています。


上総介  小林さんの五つのご質問の回答は既に御読みかもしれませんが、『定本 武田勝頼』上野晴郎著、『武田信玄大事典』柴辻俊六編(共に新人物往来社)が参考になると思います。『武田信玄大事典』の跡部勝資の項には参考論文も記述されています(『戦国大名武田氏』「跡部伊賀守信秋とその系譜」服部治則)。
 ご質問のCは石田三成、長束正家たち(官僚派)vs加藤清正、福島正則たち(武功派)の図式、奸臣・石田三成像に酷似していますね。


小林 資料をお教え下さりありがとうございます。定本武田勝頼は確かあった筈なんですが、何処に紛れたか…。探し出して再度読んでみたいと思います。武田信玄大事典は購入するのに勇気がいりそうですね。

> ご質問のCは石田三成、長束正家たち(官僚派)vs加藤清正、福島正則たち(武功派)の図式、奸臣・石田三成像に酷似していますね。
 私はどちらかというと官僚対武功派といよりも、単に現主流派対旧主流派の争いではないかと思います。
 一般には、勝頼側近のわずかなブレーン(跡部や長坂等)が専横を極めていたという見方が多いと思いますが、古くからの人脈・地縁の無い信玄子飼いの侍大将衆と跡部ら国人衆を推す派閥とどちらが数的には優位であったかと考えると、これは憶測ですが、国人衆側を推す方が多かったのではないかとも考えられると思います。ここに親類衆・信濃他の先方衆も絡んでくると複雑ですね。


上総介

> 武田信玄大事典は購入するのに勇気がいりそうですね。
 現在、古書店で『武田信玄大事典』の相場は¥4.000ぐらいだったと記憶しています。

> 私はどちらかというと官僚対武功派といよりも、単に現主流派対旧主流派の争いではないかと思います。
 私が三成らを例に挙げたのは実像が跡部・長坂同様に歪められた点を述べたかったのです。

>ここに親類衆・信濃他の先方衆も絡んでくると複雑ですね。
 これは上野晴郎氏も『定本武田勝頼』で述べていました。三つ巴の様相ですね。

>@初期からの勝頼側近・跡部勝忠との関係。
 この点、『定本武田勝頼』の「長坂・跡部の系譜」に記述があります。ですが、更なる研究が求められます。

>A信玄期における勝資の家中における地位。
 名族の出身でもあり、有能であったために武田氏一門、譜代重臣、先方衆の取次を務めています。

>B勝頼の政策の多くに関わったと思われる勝資の、部将としての資質。
 三方ヶ原、長篠合戦などの主要な合戦に参戦しているのですか、武功は見当たりません。現時点では未知数といった所でしょうか。

>C何故に甲陽軍鑑において、執拗なまでに非難されるのか。
 上野晴郎氏は『軍鑑』の作者と見られる小幡景憲の小幡家に跡部・長坂が辛く当たった腹いせと言う推測をされていました。
 私は長篠合戦の敗戦から勝頼が領国に増収を懸けた点を考えています。『軍鑑』は遠まわしに勝頼を非難していますよね。側近である跡部・長坂の批判が勝頼に向けられているとは考えられないでしょうか。また、跡部勝忠が武田家の為に税を積極的に徴収したようにも感じられます(『山梨県史』 P103)。
 話しが反れますが、御館の乱における武田家中の意見の不統一は考えられないでしょうか。跡部のワイロ云々では無く、武田家中の利害関係のもつれも考えています。
 
>D実績としてはどのような事が残っているのか。
 武田家当主である信玄・勝頼に常に側近くで補佐した軍事(300騎の記述が事実なら)、行政面に通じた有能な家臣といった人物。実績としては、竜朱印状の奉書が多数見られます。


宮下帯刀

>現在、古書店で『武田信玄大事典』の相場は¥4.000ぐらいだったと記憶しています。
 そんなに安くなってしまったのですかぁ。それにしても古書の相場にお詳しいですね!日本史の古書ブローカーになれますよ(笑)。

> A信玄期における勝資の家中における地位。名族の出身でもあり、有能であったために武田氏一門、譜代重臣、先方衆の取次を務めています。
 少し補足しますと、勝資の父信秋は度々奉者を務めており、また叔父は信玄の御守であった関係から、若年より信玄に近侍していたと考えられます。父の隠居(永禄十年頃か)に伴い、重要な責務に携わるようになったようです。

> B勝頼の政策の多くに関わったと思われる勝資の、部将としての資質。三方ヶ原、長篠合戦などの主要な合戦に参戦しているのですか、武功は見当たりません。現時点では未知数といった所でしょうか。
 そうですね。しかし内務官僚ですので、武功がないのは当然と言えるかもしれません。私は、勝資というのは勝頼の完全なイエスマンであったのではないかと考えております。勝頼は決して優柔不断なタイプなどではなく、明確な自説を持っておりました。それを勝資が忠実に実行したのではないでしょうか。

>武田家中の利害関係のもつれも考えています。
 この問題は信玄の死を契機として爆発した観がありますね。内藤昌秀や春日虎綱が対上杉氏とのことを考慮して、織田・徳川氏ばかりに気をとられている勝頼らを諫めていることが顕著な例ですね。


上総介

> それにしても古書の相場にお詳しいですね!日本史の古書ブローカーになれますよ(笑)。
 一度、考えたことがあります。ですが、良い本は自分が買ってしまうから向いていません(笑)。私が相場に詳しいのは安く良い本を買うためですから。それにしても、『戦国史料叢書』高くなりましたね−。
  
> 勝資の父信秋、叔父
 跡部家は系図がハッキリしない一族ですよね。彼ら、いきなり現れるんですよね。景家とはどう繋がるのでしょうか?もし、武田家が天目山で滅亡することがなくても、跡部家の系図に景家は記されなかった可能性は高いですね。武田家に反旗を翻した人物の存在は甚だ拙いですからね。

> しかし内務官僚ですので、武功がないのは当然と言えるかもしれません。
 あの時代に完全な内務官僚な武将が存在しますか。三成も内務官僚型ですが、武将の資質は高いです。増田長盛は渡辺勘兵衛を用いて補っています。
 跡部家の実態がわからないので難しい所ですが、働く場所が他にあったからではないでしょうか。武田家には優秀な武将が多いですが、勝資の仕事は彼にしか出来なかったのではないでしょうか(資質、家柄)。
 
> この問題は信玄の死を契機として爆発した観がありますね。内藤昌秀や春日虎綱が対上杉氏とのことを考慮して、織田・徳川氏ばかりに気をとられている勝頼らを諫めていることが顕著な例ですね。
 昌秀は勝頼と上州の事、家中の諍いでも揉めたようですね。齟齬があったのは想像に固くないですね。


宮下帯刀

>一度、考えたことがあります。ですが、良い本は自分が買ってしまうから向いていません(笑)。
 (笑)逆に考えると、購入して失敗したと思った本が、処分できる利点がありますね。古書目録に掲載された書名に翻弄されることってありませんか?
 
>景家とはどう繋がるのでしょうか?
 跡部氏の系図は現存していませんね。二度も滅亡しているので、無理からぬことです。

>もし、武田家が天目山で滅亡することがなくても、跡部家の系図に景家は記されなかった可能性は高いですね。武田家に反旗を翻した人物の存在は甚だ拙いですからね。
 考えられますね。武田氏治世下において、系図を改竄していた可能性もありますね。

>武田家には優秀な武将が多いですが、勝資の仕事は彼にしか出来なかったのではないでしょうか(資質、家柄)。
 そうですね。長坂釣閑斎の口才にしても跡部勝資の資質にしても、武田氏家臣の前では他を圧するものがあったのでしょうね。
 前に勝資のことを完全なイエスマンと申しましたが、勝頼に進言した文書が残されていますね。訂正致します(もう少し自分の意見に責任を持たなくては・・・笑)。


小林 ふと考えてみたんですが、武田家に好意的、若しくは早くから武田家に付属する部将に北巨摩の国人が多いような気がします。甘利・長坂・駒井、広意でいえば馬場など、信玄前期に活躍した部将が多いようです。本来石和に本拠を置いた武田氏と考えると中巨摩・八代の部将が主となる様に思うのですが、逆にこれらの地域の部将の方が反乱等を多く起こしている様です。信虎時代の国人領主との関係はどのようなものだったのでしょう?甲斐中部を制圧するために北巨摩の国人と同盟を結んだということでしょうか?


宮下帯刀 北巨摩と中巨摩・八代の在地領主ですが、いまいち区別がつきません(場所がピンとこない)。信虎に叛いた国中の領主は、栗原・工藤・上条・河村・大井氏でしたね。うーん、それ以上分かりません。誰かご教示ください。


小林 国中地方では
 北巨摩…甘利、長坂、駒井、青木、入戸野
 中巨摩…大井、沢登、加賀美、今福、金丸、秋山?
 南巨摩…飯富、穴山
 山梨…栗原、初鹿野
 八代…浅利、曽根、米倉
といったところだと思います。現在手元に資料が無いため、正確でないところもありますが…。
北巨摩の国人が、早い時期から武田家に協力的だったような印象を受けます。
 ちなみに叛いた国人ではなく、どの辺りの出身かという意味で名前を挙げました。


宮下帯刀

>北巨摩…甘利、長坂、駒井、青木、入戸野
>北巨摩の国人が、早い時期から武田家に協力的だったような印象を受けます。

 北巨摩の国人について、いつから信虎・晴信に属したか判別しかねるので、とりあえず文献(初出を中心に)を調べてみました。

 甘利虎泰…天文九年 代官(窪八幡普賢寺記録)
 長坂虎房…天文十一年 諏方蓮芳を討ち取る(『高白斎記』)
 駒井周防守…文亀元年 討死(『一蓮寺過去帳』)
 駒井越後守…大永三年 平瀬村地頭(細草明神棟札)
 青木信種…?(信虎に仕えたという)
 青木満懸…天文九年 武田八幡宮造営奉行
 入戸野(にっとの)氏…?(信玄に仕えたという)

 信虎時代は文献が少なくて調べようがないですね。
それよりも、甲斐の小林氏は活躍してますね〜!
 小林(藤原姓)尾張入道道光、小林刑部左衛門、小林一兵衛、小林和泉守房秀(宮内丞)、小林雅楽丞、小林対馬守、小林内匠助、小林文三、小林実吉、小林長吉・・・



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