第4回川中島合戦は・・・



石野真琴 戦国の両雄並び立たず、竜虎相撃つ大合戦。武田方12000余、上杉方10000余。前半は上杉方の有利、後半は武田方の有利。軍師山本勘助は啄木鳥戦術を進言し、信玄は兵を二手に分けて一隊をもって上杉本陣に夜襲を実行させた。一方上杉謙信は武田陣営から炊煙が多く上がるのを見てこれを看破、朝靄立ち籠もる川中島へ本陣を移動させる。
 うーん、血沸き肉踊る戦国時代を代表する大激戦。でも、これって本当にあった合戦だと思います?
 武田本軍と上杉本軍の激突、川中島合戦が無かった推論
 1.数千人近い死傷者を出した合戦の翌年には、武田・上杉両方共に兵を繰り出し激しい合戦を繰り広げている。
 2.上田原合戦、砥石崩れ、長篠合戦等の武田の敗戦後には、決まって反乱が発生する信濃で、国人衆に反乱が起きた形跡が見られない。
 3.2と同様にいかに御屋形の権威があろうとも、甲斐国内でも反乱があってしかるべきであろう。
 私の推論
 武田勢と上杉勢が睨み合う川中島合戦はあった。第四回のこの時期、典厩信繁率いる別働隊と上杉勢本隊との遭遇戦があり、信玄は援軍を送ったが間に合わず、信繁隊は全滅近い損害を出し、典厩信繁、山本勘助他はこの合戦で討ち死にした。
 この時、信繁率いる別働隊の兵力は3000近かったものと思われる。
 皆さんの御意見を伺わせて下さい。 


三浦一郎(1)


甲斐の虎 まず、甲陽軍鑑を読む際には、それが後世に書かれたことを意識しなければならないでしょうな。戦の展開に関してはどうあれ、戦死者の数はあてにしないほうがよいでしょう。
 上杉軍は結局武田軍を「破った」わけではないので、反乱が起きる理由はないでしょうな。あと、「妻女山」ではなく「西條山」らしいですな。この事の真相は……


石野真琴 仰ることはごもっともです。甲陽軍鑑は良質な資料とは言えないでしょう。幾つもの戦が否定されています。瀬沢の合戦、海ノ口の平賀源心入道など、枚挙すればもっとあるでしょう。
 ただ、川中島合戦が本当にあったとして、数千人もの死傷者を出せば、それが例えば勝った戦だとしても、武田家による信濃・甲斐経営、上杉家の越後経営の基盤は崩れたはずです。それだけの死傷者に対する保証、同じように数千の首を上げたことに対する恩賞が必要となるはずですが、これだけの大激戦を行っても、得た地はほとんど無いわけです。これで甲斐や信濃の国人衆が黙っているとは、とても思えないのです。
 僕が思うに戦国時代の御屋形、領主は一種の強力なカリスマ性によって、その領国を支配していたと思います。武田信玄公は家督相続後、ほんの数年で諏訪郡の平定を成し遂げて、その強力なカリスマ性を家臣団及び近隣諸国に提示して見せた訳です。だからこそ一度敗北すれば領国経営は危機的な状況に陥ったと見る事が出来ます。
 武田信玄が上杉謙信と決戦を挑まなかったのは、そのような状況を考慮した為だと考えて良いと思います。そこで思ったのが、典厩信繁率いる別働隊の遭遇戦と言うわけです。
 後の時代の秀吉が朝鮮出兵を考え実行したのも、家臣に対して与える恩賞の地が足りなかったわけで、恩賞の地が手に入らない戦を信玄公は望まなかったと思うのです。


甲斐の虎  前回の書き込みで「戦死者の数はあてにしないほうがよい」と書いたはずですが……(^^;
 第四次川中島合戦といいますと、決戦の一日を以って終了したと思われている場合が多いのですが、ある寺院の遺した記録や信玄自身の書状からするに、両軍の対陣はその後も場所を北へ移しながら、かなりの日数に及んでいたようで、武田・上杉両軍とも、一日の決戦で数千単位の死傷者を出してはそのようなことはできませんから、戦闘はあったとしても一部の部隊に損害が出た程度であり、作戦の続行が可能な部隊を残していたと考えるのが自然です。「激戦」であったことは疑われねばなりませんが、合戦があったことそのものは『妙法寺記』などの確かな史料にもあるようですから、疑うことではないでしょう。また『妙法寺記』は別働隊の存在にも触れているようですから、そういう意味では石野殿の信繁率いる別働隊による遭遇戦という推理は、なかなか真実に近いものかもしれません。


石野真琴

> 前回の書き込みで「戦死者の数はあてにしないほうがよい」と書いたはずですが……(^^;
 その通りですね。私が言いたかったのは勝った負けたで反乱が起こるのではないと言う事でした。わかりにくかった事をお詫びして訂正させていただきます。

> 第四次川中島合戦といいますと、決戦の一日を以って終了したと思われている場合が多いのですが、ある寺院の遺した記録や信玄自身の書状からするに、両軍の対陣はその後も場所を北へ移しながらかなりの日数に及んでいたようで、(中略)また『妙法寺記』は別働隊の存在にも触れているようですから、そういう意味では石野殿の信繁率いる別働隊による遭遇戦という推理はなかなか真実に近いものかもしれません。
 実はこの推論は、出典を忘れてしまいましたが、新たに別の場所に信繁公の討ち死に場所が見つかった。という情報を小耳に挟んだ時に、第四回川中島合戦に疑問があるなと考えたしだいです。
 ただ、山本勘助の存在が疑問視されていた時代であれば、それを持って第四回川中島合戦が疑問であると短絡的に考えたくは無かったので、幾つかの傍証を提示してみたものです。
 基本的には甲斐の虎様も、同じような意見と言う事で、少し安心致しました。今後ともよろしく参加下さい。


荒法師  川中島合戦場に、かなり訪れました。その結果、まず武田信玄陣跡は、陣跡としてかなり信憑性があります。次に妻女山の上杉本陣も事実かもしれません。しかし、陣跡を検出できません。しかも啄木鳥の戦法で、背後から攻めることは実質困難です。背後は険しい山です。したがって、本当に妻女山が陣跡かというと、実地踏査した結果では陣跡と認めることは困難です。
 荒法師がもし上杉謙信で妻女山に布陣していれば、すぐに目の前の海津城を攻めました。上杉謙信の本陣について精細な軍事的検証が必要と思います。





三浦一郎(1)

  おじさんにも一寸言わせて下さい。
 小生にとってこの合戦は特別な意味をもっているのです。つまり、川中島合戦が小生を研究の泥沼に引きずり込む鍵となったからです。あれからすでに三十余年が経ちました。今でも「川中島」と聞くだけで目頭が熱くなります。故に、この地を何度訪れたか分からない程です。長野オリンピックを境にこの地は大きく変貌しました。その中央には広い国道が敷かれ、高速道路は山を削り、今となっては長閑だったあの風景が何とも懐かしい限りです。
何度も足を運ぶ内に地元にも知人ができ、その彼ら(多くは亡くなられた)から聞いたことに真実の合戦の様相が想像できたのです。
 昔、海津城から妻女山への山越えにも挑戦しました(途中で断念)。妻女山から海津城も見ましたし、言われている伝承の場所はかなり歩いたつもりです。
 しかし、それよりも前述の戦前まで残っていたという遺構が、合戦の真意を説く鍵となると思ったからです。
永禄当時この地は荒野で、雨が降れば川幅が増し一面があさく水に浸かったといいます。甲越両軍が騎馬や歩兵を繰り出して、この地でいかなる戦闘をみせたのか興味をそそるところです。そこで、当時の騎馬戦や歩兵戦がどのようにして展開されたのか。これを具体的に示す江戸期の文献はほとんど皆無にに等しいのです。実際にどのように歩兵を配し、彼らがどのように自らを防御しながらどのような攻撃をしたのか。ここが一番知りたいところです。しかし、文献はその部分に関してどれもあいまいで、深く探求すればするほど明確さに欠けてくるのです。それに、いかにも漠然と書かれている部分が多く、それに翻弄されてしまうのが研究する者の現状だと思います。
 つまり、江戸期の兵学者がそこのところ知らないから書けないのだと思うのです。恐らく『甲陽軍鑑』を書いた学者も、現地を調べた訳でもなければ、甲越両軍が用いた武具を調べた訳でもないのです。はっきり言えば机上の空論に他ならないということです。しかし、江戸期の学者はこれでよかったのだと思います。なぜならば、それこそが戦の真意から遠ざけたい幕府の方針だったからです。


荒法師 

> 恐らく『甲陽軍鑑』を書いた学者も、現地を調べた訳でもなければ、甲越両軍が用いた武具を調べた訳でもないのです。はっきり言えば机上の空論に他ならないということです。

 妻女山の上杉謙信陣跡について、三浦さんと同様疑問を感じています。川中島の合戦は、私もかなり現地踏査を行いました。
 まず、妻女山にもし上杉謙信が寄ったら、妻女山の真上にある山に天城城、鞍骨城が築かれており、これを上杉が押さえたということになります。詳細は、城郭研究家中田正光著「戦国武田の城」をご参照下さい。
 戦国の合戦の習いとして、武将は着陣すると直ちに築城を行います。雨露をしのぐ小屋も運んできて組み立てます。戦に出るときには必ず徴用しました。そして軍を必ず城にいれるのです。城は鎧です。これは戦に勝つ鉄則なのです。
 もし、川中島合戦で、この山上の城が武田だったら、山上の城から上杉謙信本陣に駆け下ったろうと思います。このような敵の城の真下に本陣を造ることは絶対にあり得ません。従って、妻女山に謙信が拠ったら、山頂の城は上杉が押さえていたはずです。とすれば啄木鳥の戦法は疑問です。それは、武田信玄が拠る海津城から山上の鞍骨山を攻めることは困難だからです。なぜなら、山上は一万を越える兵で埋め尽くされていました。合戦は八幡原ではなく海津城で起きていたはずです。とすれば、「甲陽軍鑑」の川中島合戦の記述を再検討する必要があるでしょう。


三浦一郎

> まず、妻女山にもし上杉謙信が寄ったら、妻女山の真上にある山に天城城、鞍骨城が築かれており、これを上杉が押さえたということになります。
 鞍骨城は当時清野氏の居城だったといわれていますし、海津城が築かれた位置はもともと清野氏の居館だったともいわれています。『甲陽軍鑑』の信濃先方衆の清野清受軒なる人物がみられ、合戦当時すでに清野氏が武田方に属していたと思われます。

> 戦国の合戦の習いとして、武将は着陣すると直ちに築城を行います。雨露をしのぐ小屋も運んできて組み立てます。戦に出るときには必ず徴用しました。
 そのとおりです。当時は野戦といえども陣城を構えるのは通例だったと思われます。ここで注目。江戸期の文献にこうしたこと書かれていないでしょ。どれもこれも勇猛果敢でかっこよく、まさに「戦艦大和かっこいい!」てな世界でしょ。人間ってそんなに強くないし、かっこよくない。後から「行け!進め!」って言われて行く?進める? こうした誤った歴史認識が戦前戦中の嫌な時代を作ったのですよ。

> そして軍を必ず城にいれるのです。城は鎧です。これは戦に勝つ鉄則なのです。
 ほとんど無防備だったと想像される当時の軍装を考慮すると、城や砦はまさに「甲冑」だったでしょう。そのとおり鉄則でしょう。

> もし、川中島合戦で、この山上の城が武田だったら、山上の城から上杉謙信本陣に駆け下ったろうと思います。このような敵の城の真下に本陣を造ることは絶対にあり得ません。
 妻女山の一帯は武田方にとって海津城の後詰に位置しています。

> 従って、妻女山に謙信が拠ったら、山頂の城は上杉が押さえていたはずです。とすれば啄木鳥の戦法は疑問です。それは、武田信玄が拠る海津城から山上の鞍骨山を攻めることは困難だからです。なぜなら、山上は一万を越える兵で埋め尽くされていました。
 論ずるまでもない。

> 合戦は八幡原ではなく海津城で起きていたはずです。とすれば、「甲陽軍鑑」の川中島合戦の記述を再検討する必要があるでしょう。
 そこなんですよね。川中島を歩いて分かったのはそこなんです。なぜ、上杉方が真っ先に海津城を攻めなかったのか。このときの謙信の目的は海津城を攻略して、武田方による北信四郡の領国経営を阻止することだったと思います。しかし、それができなかったのです。
 なぜかって、さあ、みんなで考えよっ!


三浦一郎

> 過激なプランですが、今の八幡原には、上杉謙信が布陣していたというのはどうでしょうか。
 面白そうですね。自論の如く陣城を構えてですか。

> 一ついえるのが、武田と上杉では築城法が違うということが上げられます。川中島周辺には、実に多くの城が築かれています。しかし、築城流を見ると、北は上杉、南は武田になるようです。
 確かに沢山の城がありますね。詳しくは知りませんが、この地はもともと村上氏や高梨氏の領地でしょ。そんなにはっきりと善光寺平の南北で築城方法が分かれるものなのですか。

> 築城流を馬鹿にすることは出来ません。
 それはそうでしょう。詳しく現地調査を行い、これを分析して明らかに築城方法が分かれるのであれば、これは認めざるを得ません。しかし、甲州流とか越後流とかいう江戸期の軍学は、まったく充てにはならないと小生は思いますが。

> 次に、当時の合戦法を良く理解することだと思います。一級の武将であれば、敵陣との間合いを取って布陣します。城攻めの場合、数百メートル離れて布陣する事例が多いです。
 これは一般に近世の布陣の仕方だと思います。中世の史料にこのように具体的に記したものは無かったと思います。もしあれば是非出典史料を教えて下さい。

> 上杉謙信は、海津城の武田に対して八幡原に布陣したとしても良いのです。
 くどいようですが陣城を構えてですね? 憶測するのはかまいませんが、何か越軍が布陣したという痕跡のようなものが八幡原にあるのですか。

> そこを、広瀬の渡しを渡って武田が攻めたというのも面白いと思います。力攻めで午前中は武田に損害が出たが、午後には上杉を北へ押し返した。どうでしょうか。
 ここまでの経緯をどう説明するのですか。単に越軍が川中島に侵入してきて八幡原の陣城を構えて布陣した。これを甲軍が粉砕することで合戦は終結したのですか。そして、言われているように一日で合戦は終結したのですか。
 ここで考えなくてはならないのは海津城の持つ性格です。小生は、これは単に防衛目的だけの城ではなく、北信の領国経営の中心的役割を果たす行政の拠点だったと推測しています。故に山城ではなく平山城なのです。すなわち北信の経済の中心都市としての構築を信玄はもくろんでいたと考えます。これをどうしても阻止したいというのが、旧領の回復を切に願う土豪達です。これが川中島合戦を引き起こしたいわば根幹の部分でしょ。では、北信の防衛はどのように行っていたのか。そして、越軍はそれに敗れたから川中島を撤退したのでしょ。


荒法師

>甲州流とか越後流とかいう江戸期の軍学は、まったく充てにはならないと小生は思いますが。
 築城法は、上杉と武田では、明瞭に異なります。堀と土塁の用い方が違うのです。これは事実です。踏査の結果判明しました。甲州流とか、武田流というのは、私が言っているので江戸期の軍学ではありません。詳細は、以下のサイトの「越の築城史」をご笑覧下さい。

>これは一般に近世の布陣の仕方だと思います。中世の史料にこのように具体的に記したものは無かったと思います。もしあれば是非出典史料を教えて下さい。
 具体的な史料は「辺春・和仁仕寄陣取図」が山口県立文書館の毛利文書から発見されました。これから、私が「天正10年魚津の役」を執筆しています。また、熊本県玉名郡三加和町教育委員会発行の「田中城跡 11・12集」に「辺春・和仁仕寄陣取図」について、石井進先生が執筆されています。

>くどいようですが陣城を構えてですね? 憶測するのはかまいませんが、何か越軍が布陣したという痕跡のようなものが八幡原にあるのですか。
 痕跡は八幡原にある陣跡です。この陣跡は、土塁を突き固めてあると思われ、臨時の保塁ではありません。築城には数日かかると思います。武田信玄が突然ここに陣を築くことは不可能です。

>ここまでの経緯をどう説明するのですか。単に越軍が川中島に侵入してきて八幡原の陣城を構えて布陣した。これを甲軍が粉砕することで合戦は終結したのですか。そして、言われているように一日で合戦は終結したのですか。
 上杉軍の本陣は、葛山城であることは明白です。上杉謙信はここから出撃し、八幡原で千曲川を挟んで、海津城と対陣したのです。これは、双方が一万を越す大軍であれば洋の東西を問わず、一般的に取る陣形です。
 たとえば、元亀3年、加賀一向一揆が大挙して富山城を制したとき、上杉謙信は新庄城から更に前進し、一向一揆が拠る鼬川から程近い稲荷に砦を築き、一向一揆を打ち破りました。これが良い例です。
なお、一日で終息したかどうかは判りません。

>ここで考えなくてはならないのは海津城の持つ性格です。小生は、これは単に防衛目的だけの城ではなく、北信の領国経営の中心的役割を果たす行政の拠点だったと推測しています。故に山城ではなく平山城なのです。すなわち北信の経済の中心都市としての構築を信玄はもくろんでいたと考えます。
 これはちょっと違うと思います。平地に城を築いた理由は、野戦において決戦を行うため、大軍を収容する総構えが必要だったからです。後に城は、織田信長が開いた「天下布武」の象徴として天守閣が構えられるようになりました。近世城郭は権威の象徴でしかありません。
 経済の中心都市という発想は信玄には無く、海津城は、部隊の収容陣地であったと考えます。だから戦国時代の城郭の外郭はとんでもなく広大なのです。
 なお、これは私の考える仮説の一つです。


小林(1)


三浦一郎


> 痕跡は八幡原にある陣跡です。この陣跡は、土塁を突き固めてあると思われ、臨時の保塁ではありません。築城には数日かかると思います。武田信玄が突然ここに陣を築くことは不可能です。
 あの八幡原にある土塁ですか。ありゃ駄目ですよ。戦前にはあんなものなかったし松林だってなかったんですから。まさに何もない野原だったんですよ。それが観光化が進んで、何にもないのは淋しいからっていって信玄の陣らしく捏造して作ったんです。小生も気になっていたので、地元のお年寄に聴いて廻ったことがありました。

> 上杉軍の本陣は、葛山城であることは明白です。上杉謙信はここから出撃し、八幡原で千曲川を挟んで、海津城と対陣したのです。これは、双方が一万を越す大軍であれば洋の東西を問わず、一般的に取る陣形です。
 双方が万を越す兵力だと思われるのですか。何にそんなに兵がいるのですか。その各々の武装はいかがなものでしょう。

> 経済の中心都市という発想は信玄には無く、海津城は、部隊の収容陣地であったと考えます。だから戦国時代の城郭の外郭はとんでもなく広大なのです。
 海津城は永禄三年に城としての機能を果たしています。つまりは、これ以前に築城されていたことになります。つまりはこの間に武田は北信を領国としてすでに経営していたのではないでしょうか。
俗にいう戦国大名っていう奴らは決して戦ばかりしていた訳ではない。何のために戦をするのかといえば、領国を拡大したいからでしょ。彼らに課せられた真の課題は戦ではなく、それを円滑に経営していくことなのです。永禄四年以降、越軍の侵攻がなくなります。以後天正十年までの二十一年もの間、海津城の果たした役割とは何かを考えて下さい。

> なお、これは私の考える仮説の一つです。
 小生のも一仮説です。


荒法師

> あの八幡原にある土塁ですか。ありゃ駄目ですよ。戦前にはあんなものなかったし松林だってなかったんですから。まさに何もない野原だったんですよ。それが観光化が進んで、何にもないのは淋しいからっていって信玄の陣らしく捏造して作ったんです。小生も気になっていたので、地元のお年寄に聴いて廻ったことがありました。
 そうですか。それは良かったと思います。
  仮説1はかなり過激な案でしたから、もし本当だったらどうしようと思っていました。
  仮説2を提示しなければいけませんね。
  仮説2は、チョット現実的です。
武田信玄は、海津城にあって上杉謙信の動きを窺っていました。上杉謙信は、葛山城にあったと考えます。これを誘い出すため、八幡原に出動した。上杉謙信は八幡原付近に急行するから、別働隊を雨宮の渡から側面を突かせる。ところが、葛山にいたはずの上杉謙信がいたのです。そこで乱戦になってしまった。

> その各々の武装はいかがなものでしょう。
 これは専門で無いのでわかりません。

> 海津城は永禄三年に城としての機能を果たしています。つまりは、これ以前に築城されていたことになります。つまりはこの間に武田は北信を領国としてすでに経営していたのではないでしょうか。
 これは否定できないと思います。

> 俗にいう戦国大名っていう奴らは決して戦ばかりしていた訳ではない。何のために戦をするのかといえば、領国を拡大したいからでしょ。彼らに課せられた真の課題は戦ではなく、それを円滑に経営していくことなのです。
 そうだと思います。戦ばかりが能じゃない。しかし、城郭は、戦国期に異常発達します。総構えが特にそうです。これは、小林さんのレスに書きました。ご覧下さい。

> 永禄四年以降、越軍の侵攻がなくなります。以後天正十年までの二十一年もの間、海津城の果たした役割とは何かを考えて下さい。
 たしかこの後も、川中島を巡って合戦が続きますが、武田信玄は一向一揆を動かして、謙信を越中に釘付けにしました。すごいですね信玄は。
 ただ、この地域は善光寺が主です。海津城は光りません。歴史では上杉景勝も、北信の中心とて押さえていますが、善光寺を除いてと考えています。お城の役割は色々ありますが、善光寺に関する評価が低いですね。


三浦一郎

> 仮説1はかなり過激な案でしたから、もし本当だったらどうしようと思っていました。
 小生の仮説に近いものがありました。いずれ発表したいと思っております。

> 武田信玄は、海津城にあって上杉謙信の動きを伺っていました。上杉謙信は、葛山城にあったと考えます。
 葛山城って落合一族の城でしょ。以前にもお聴きしたかったのですが、謙信がこのときに葛山城を本陣に定めたと力説される根拠を教えて下さい。

>これを誘い出すため、八幡原に出動した。
 やはり八幡原でやったと思われるのですね。この場合もお説のとおり当然陣城を構えたとお考えですか?

>上杉謙信は八幡原付近に急行するから、別働隊を雨宮の渡から側面を突かせる。
 変形「啄木鳥の戦法」みたいですね。

> そうだと思います。戦ばかりが能じゃない。しかし、城郭は、戦国期に異常発達します。総構えが特にそうです。これは、小林さんのレスに書きました。ご覧下さい。
 具体的に城郭の形式が変わるのは、織豊政権下でのことではないでしょうか。当時は堀切、石積、土塁などから曲輪を形成し、多少その配置に個性があるにせよ基本的に大差はないように思います。それは、永禄年間に武具の変化がほとんど見受けられないからです。未だ中世そのものなのです。つまり、直接戦闘に用いる武具に変化が見らないのに、城郭のみが独走して発展したというのに大きな矛盾を感じるからです。
 織豊政権下での武具の目覚しい変化に呼応して城郭も変化したとする方が妥当に思います。つまりは戦のやり方がこの時期に一変したということでしょう。そこには鉄砲の導入、槍の多用化、団体戦への移行などの理由が挙げられます。無論、「安土城」や「天守を築く」などというレベルの話ではありません。

> ただ、この地域は善光寺が主です。海津城は光りません。
 善光寺には本尊はなく、いわば蛻の殻状態です。信玄はこの地域での絶大なる善光寺の権威を十分知っていた。故に本尊を甲府に移し、新しい権威を示すために海津城を築いたと思います。
織豊政権下では旧なる権威は微塵もなく粉砕したのですが、この時代の支配体制は非常に柔軟性を持っています。現代人には到底理解できないファジーな世界を思い浮かべると共に、そこには高度な精神性をも垣間見られます。それを支えたのが仏教だと思います。この世界を織豊政権の野望から守るために一向門徒は命をかけて戦ったのです。
 話が反れましたが、改めて信玄ってすごいですよね。


荒法師

> 小生の仮説に近いものがありました。いずれ発表したいと思っております。
 ぜひ拝聴したいと思っています。

> 葛山城って落合一族の城でしょ。以前にもお聴きしたかったのですが、謙信がこのときに葛山城を本陣に定めたと力説される根拠を教えて下さい。
 この根拠は、前に述べましたが城の縄張です。

> やはり八幡原でやったと思われるのですね。この場合もお説のとおり当然陣城を構えたと考えですか?
 いいえこの場合(仮説2)は遭遇戦でしたから陣は築きませんでした。

> 具体的に城郭の形式が変わるのは、織豊政権下でのことではないでしょうか。当時は堀切、石積、土塁などから曲輪を形成し、多少その配置に個性があるにせよ基本的に大差はないように思います。
 いいえ、そうではありません。上杉は畝堀を用いますが、武田や織田は用いません。武田や織田は、郭に土塁を盛りますが、上杉は土塁を用いません。武田の虎口は丸馬出ですが、織田は桝形です。これで、城の形がまるっきり変わってしまいます。ただ、合戦にどの程度役立つのか誰も実証していませんが。

> それは、永禄年間に武具の変化がほとんど見受けられないからです。未だ中世そのものなのです。つまり、直接戦闘に用いる武具に変化が見らないのに、城郭のみが独走して発展したというのに大きな矛盾を感じるからです。
 これは良く判りません。私は武具を見るのは好きですが、武具の研究では素人です。

> 織豊政権下での武具の目覚しい変化に呼応して城郭も変化したとする方が妥当に思います。つまりは戦のやり方がこの時期に一変したということでしょう。そこには鉄砲の導入、槍の多用化、団体戦への移行などの理由が挙げられます。無論、「安土城」や「天守を築く」などというレベルの話ではありません。
> 善光寺には本尊はなく、いわば蛻の殻状態です。信玄はこの地域での絶大なる善光寺の権威を十分知っていた。故に本尊を甲府に移し、新しい権威を示すために海津城を築いたと思います。
 しかし、善光寺には寺内町がありました。石野さまにレスを入れておきました。私はすごく善光寺にこだわります。

> 織豊政権下では旧なる権威は微塵もなく粉砕したのですが、この時代の支配体制は非常に柔軟性を持っています。現代人には到底理解できないファジーな世界を思い浮かべると共に、そこには高度な精神性をも垣間見られます。それを支えたのが仏教だと思います。この世界を織豊政権の野望から守るために一向門徒は命をかけて戦ったのです。
 「天下布武」の思想に反発したと思います。

> 話が反れましたが、改めて信玄ってすごいですよね。
 同感です。上杉謙信と正反対なので、武田と上杉の抗争史は、何度読み返しても面白いです。


三浦一郎

> ぜひ拝聴したいと思っています。
 近く披露できると思います。

> いいえこの場合(仮説2)は遭遇戦でしたから陣は築きませんでした。
 単なる遭遇戦で典厩が討たれたのですか?

> いいえ、そうではありません。上杉は畝堀を用いますが、武田や織田は用いません。武田や織田は、郭に土塁を盛りますが、上杉は土塁を用いません。武田の虎口は丸馬出ですが、織田は桝形です。
 あまり大差がないように思われますが、これが城郭研究上の大差だと言われるのであれば認めざるを得ません。ご専門ではない分野で恐縮ですが、甲冑研究の大差とは武士の発生、元寇、鉄砲伝来といった日本史上の大事件をもって大きく変化しています。この大きな流れから思えば、この程度のことは個性として捕らえるべきではないでしょうか。

>これで、城の形がまるっきり変わってしまいます。
 これは織豊政権下ではじめて言えることではないでしょうか。

> ただ、合戦にどの程度役立つのか誰も実証していませんが。
 そうでしょう。そのように具体的でないことに築城方法なんて形式ばったことが言えるのですか。合戦って人殺しでしょ。死ぬか生きるかということを考えれば、もっと具体性のある築城の仕方があってもいいと思います。
 中世の山城の場合、まず絶対条件として地形を無視できません。その限られたスペースの中に生活の空間と有事に際しての防御をいかに配置するかにおいてはあまり大差ないと思います。この件に関しては、当時の合戦がどのように展開されていたのかという認識にも拘わってくるでしょう。

> しかし、善光寺には寺内町がありました。石野さまにレスを入れておきました。私はすごく善光寺にこだわります。
 なぜ信長のように善光寺を焼き討ちしなかったのか。それは信玄がこの権威を十分に認めていたと共に自身が熱心な仏教徒だったからだと思われます。これがファジーな中世社会なのです。権威を互いに認め合い共存しているのです。海津城は善光寺の存在を十分に認め、反対に善光寺も海津城(武田の権威)を十分に認めていたのです。

> 「天下布武」の思想に反発したと思います。
 当時の人間はやっていいこととやってはいけないことの判別をはっきり持っていたと思います。この思想背景には大きく仏教が拘わっています。いわば、室町時代の日本は仏教大国と言っても過言ではないと思います。それを真っ向から打ち破ったのが信長です。
 おっと、お坊様を前に仏教の熱弁をして済みません。

>  同感です。上杉謙信と正反対なので、武田と上杉の抗争史は、何度読み返しても面白いです。
 信長と謙信は似ています。どちらも裕福な土地に生まれ自らを神だと信じています。ところが信玄の居た甲斐は貧しい。その中で彼らと同等の渡り合えるまでになったのです。信玄って立派ですよ。


荒法師(1)


上総介


> なぜ信長のように善光寺を焼き討ちしなかったのか。それは信玄がこの権威を十分に認めていたと共に自身が熱心な仏教徒だったからだと思われます。
 信長も善光寺の権威、効力は認めていたと考えています。信長が善光寺仏を持ち去っています。


三浦一郎  「なぜ信長が比叡山を焼き討ちしたように、信玄は善光寺を焼き討ちしなかったのか。」と書くべきでした。誤解を与えて申し訳ありませんでした。





荒法師(1)

 昨日は短時間にたくさんレスしたので、誤字脱字の嵐でした。このような掲示板の誤字はお許しください。

> 単なる遭遇戦で典厩が討たれたのですか?
 仮説では、八幡原の西側で上杉謙信と激突し、千曲川まで押し戻され、背水の陣を引いて戦っていたところ、遊撃隊が到着し、謙信が陣を引いたと考えます。この乱戦で典厩等、名だたる武将が討ち死にしたのです。

> あまり大差がないように思われますが、これが城郭研究上の大差だと言われるのであれば認めざるを得ません。ご専門ではない分野で恐縮ですが、甲冑研究の大差とは武士の発生、元寇、鉄砲伝来といった日本史上の大事件をもって大きく変化しています。この大きな流れから思えば、この程度のことは個性として捕らえるべきではないでしょうか。そのように具体的でないことに築城方法なんて形式ばったことが言えるのですか。合戦って人殺しでしょ。死ぬか生きるかということを考えれば、もっと具体性のある築城の仕方があってもいいと思います。
 実はすごく具体性があるのですよ。多分、この上に構造物が建つと城の形が変わって見えると思いますよ。私だって、最初は全く同じに見えたのですから。でも、この世界にも先生がいて、ご教示賜る内に違いが見えてきました。今度の週末に、佐々成政の加越国境の陣城シリーズを、私のサイトにアップしますのでご笑覧ください。

> 中世の山城の場合、まず絶対条件として地形を無視できません。その限られたスペースの中に生活の空間と有事に際しての防御をいかに配置するかにおいてはあまり大差ないと思います。この件に関しては、当時の合戦がどのように展開されていたのかという認識にも拘わってくるでしょう。
 三浦さんもそうだと思いますが、私も私の人生のかなりの部分を裂いてかなり勉強させていただきました。これは、物の見方、考え方なのです。

> おっと、お坊様を前に仏教の熱弁をして済みません。
 私はお坊様ではありませんよ。
本来、「椎名康胤」と称したいところ、皆さん(三浦さんを除いて)が、余りに江戸時代の価値観でお話になるものですから、あえて「荒法師」と名乗らせて頂きました。「一寸法師」では様になりませんから。
 たとえば、出羽庄内に羽黒山があり、これは江戸時代、幕府朱印状をもつ寺院でした。庄内藩と同格で、羽黒山には、家老がおり町奉行所があったのです。
遡れば、戦国時代庄内は、武藤氏が領したと教科書に書いてあります。でもこれは間違いで、実際には、武藤氏の血筋が住職を務めた、「大宝寺」が羽黒山別当として庄内を領していたのです。大宝寺は、羽黒山大衆を率いて合戦に及びました。酒田は東禅寺が城郭を構えていました。しかし、この事実は取り上げられず、庄内は武藤氏という大名によって制されたと書いてあります。庄内の中世の文書には、大宝寺はあっても、一度も武藤氏は登場しません。このように歴史を誤ってしまった背景には、江戸時代の価値観で日本史を書いた為だと思い、今もう一度歴史を見直すべきだと考えているのです。


小林(2)


上総介


> 皆さん(三浦さんを除いて)が、余りに江戸時代の価値観でお話になるものですから
 荒法師さんが寺院、宗教の造詣が深いこと、歴史において重要と説くところは私も理解していますが、御考えは絶対ではないですよね。何百年も昔のことを話題にしているのですから、ゆっくり話しませんか?レスは急いで書く必要は無いですよね。十分に練って書けばこのような事は起きない筈です。御気持ちの方が先行されてしまう所が残念です。


三浦一郎

> 昨日は短時間にたくさんレスしたので、誤字脱字の嵐でした。このような掲示板の誤字はお許しください。
 なかなか面白いじゃないですか。この議論にこれほどの波紋があるとは嬉しい限りです。皆さん戦争がお好きのようで(小生はファシズムではありません)。

> 仮説では、八幡原の西側で上杉謙信と激突し、千曲川まで押し戻され、背水の陣を引いて戦っていたところ、遊撃隊が到着し、謙信が陣を引いたと考えます。この乱戦で典厩等、名だたる武将が討ち死にしたのです。
 川の持つ意味は重要だと思います。典厩が千曲川を背にして討ち死にしたと小生も推測しています。

> 実はすごく具体性があるのですよ。多分、この上に構造物が建つと城の形が変わって見えると思いますよ。
 恐らく貴台が言いたいのはそこんところなんでしょう。しかし、その建造物の現物はおろか信憑性の高い史料ですらないのが現状だと把握しています。もし、貴台が言われるとおりであるなら、城を見ただけで武田、上杉、織田等についている城と分かるでしょう。こうした城を攻略後は自らの城の形式に改築して使うのですか。

> 三浦さんもそうだと思いますが、私も私の人生のかなりの部分を裂いてかなり勉強させていただきました。
 いえいえ、どうしてどうして。「好き」だからやっているだけです。そうでしょ。「好き」なことっていうのは苦労だとは思わないでしょ。だから、できるんだと思います。

> これは、物の見方、考え方なのです。
 前にも言いましたが何かを探求する上で、まず常識とされていることでも「疑う」ことが大切だと思います。

> 私はお坊様ではありませんよ。
 それはどうも失礼しました。

> 「一寸法師」では様になりませんから。
 そちらの方が優しそうでいいかも知れませんよ(ジョークジョーク)。

> 遡れば、戦国時代庄内は、武藤氏が領したと教科書に書いてあります。でもこれは間違いで、実際には、武藤氏の血筋が住職を務めた、「大宝寺」が羽黒山別当として庄内を領していたのです。大宝寺は、羽黒山大衆を率いて合戦に及びました。酒田は東禅寺が城郭を構えていました。 しかし、この事実は取り上げられず、庄内は武藤氏という大名によって制されたと書いてあります。庄内の中世の文書には、大宝寺はあっても、一度も武藤氏は登場しません。
 そこのところは詳しく知りませんので何とも言いようがありません。しかし、中世の支配体制が江戸期のようにはっきり一本化したものではないことは事実でしょう。その実態は現代人には到底理解し難いことなのでしょうが。
 その点を十分踏まえた上で、松代は中世から城下だったと推測しています。確かに今の長野市は善光寺のあたりを中心に栄えています。市政が敷かれる前はあのあたりを善光寺村と称していました。十万石以上の城下で県庁所在地になっていないのは、この松代だけだとも聞いたことがあります。その理由として土地が狭すぎるというのです。確かに前面に千曲川が流れ背後には険しい山がそそり立つ。しかし、それこそが中世城郭のまさに基本ですよね。そして城があれば城下ができるのは当然です。貴台もまさか松代の地が荒野で、ポツンと海津城のみが独り立ちしていたとは言い切れないでしょ。何等かの基盤があった上に近世の城下が築かれたという方が自然ではないでしょうか。善光寺の権威や門前町も当然あったでしょうし栄えてもいたでしょう。しかし、直接行政に携わっていたのは武士です。その武士がいるのは海津城です。


荒法師 三浦さんが、武将とお城の特徴がよくわからんとおっしゃることもあってサイトをかなり補強しました。ご笑覧ください。しかし、私の知人が私のサイトを見て「さっぱりわからん」と言っていましたが、ごもっともだと思います。ある程度、お城を歩いた人を対象にしていますから。

>貴台が言われるとおりであるなら、城を見ただけで武田、上杉、織田等についている城と分かるでしょう。こうした城を攻略後は自らの城の形式に改築して使うのですか。
 これも仮説なのですが、戦国武将は戦に出かけるときは、お城セット(城門・柵・櫓)を運んだと考えます。陣小屋は運んだことが武将の書状にありますから明白です。柴田勝家が魚津城を攻めたとき数キロも陣や櫓を上げ、その址が残っていると江戸初期の文書にあります。
これらは、事前に調達したものだと思います。このセットにあわせて、お城を築いたので城の形が決まったと思っています。だから、変えざるを得ないのです。

> 「好き」だからやっているだけです。そうでしょ。「好き」なことっていうのは苦労だとは思わないでしょ。だから、できるんだと思います。
 しかし、最近は苦痛になってきました。私はビジネスマンです。社会が非常に厳しく、このようなことを続けられなくなっています。論文の執筆はやめました。私の活動は、大幅に縮小していっていますね。

>善光寺の権威や門前町も当然あったでしょうし栄えてもいたでしょう。しかし、直接行政に携わっていたのは武士です。その武士がいるのは海津城です。
 本来、武家というのは公家などの警護役です。その琵琶湖の警護役の武家の支配は延暦寺が執り行っていましたと、豊田武著の本に書いてあった記憶があります。戦国時代、斎藤道三は「あぶら屋」ではなかったでしょうか。飛騨から越中に攻め入った塩屋は、塩の専売人だったと言われています。越中にある椎名康胤の家老、武隈氏は源氏を血を引く武家ですが、敗れて後、郷里に帰ったとき、佐々成政から、武家になるか、百姓になるかと迫られたそうです。本来、斎藤や塩屋は武家ではなく、「百姓」(農民の意味ではなくそれ以外と言う意味)なのでしょうが、戦国時代はめちゃくちゃな時代ですよね。豊臣秀吉だって本来「武家」でなく「百姓」でしょうね。だから、あまり武士に執着するのはどうかと思います。僧の中には、武具や鉄砲も作っていたのでしょだから、川中島合戦も海津城が主であるとは思いませんけど。でも善光寺でもありませんよ。あれは非武装中立都市でしたから。


三浦一郎

> しかし、私の知人が私のサイトを見て「さっぱりわからん」と言っていましたが、ごもっともだと思います。
 まあそうでしょう。小生が書く武具の論文と同様ですよ。素人に説明するのにどうすれば理解頂けるかと悩んだことがありました。しかし、それは土台無理なのでしょう。ある程度の足と努力を要し、必死となって分かろうとした結果だけを聞いて理解できるものではありません。

> これも仮説なのですが、戦国武将は戦に出かけるときは、お城セット(城門・柵・櫓)を運んだと考えます。陣小屋は運んだことが武将の書状にありますから明白です。
 これは納得できます。そう推測してもいいと思います。

> 柴田勝家が魚津城を攻めたとき数キロも陣や櫓を上げ、その址が残っていると江戸初期の文書にあります。
 これも真実を伝える数少ない貴重な史料だと思います。

> このセットにあわせて、お城を築いたので城の形が決まったと思っています。だから、変えざるを得ないのです。
 なるほど。当時だったらやっていてもおかしくありません。

> しかし、最近は苦痛になってきました。私はビジネスマンです。社会が非常に厳しく、このようなことを続けられなくなっています。論文の執筆はやめました。私の活動は、大幅に縮小していっていますね。
 実は小生も去年の春にリストラされました。今では家族の理解のもとで細々ながら事業を起こして、何とか生きていますよ。ハッハッハー(大笑い)
 今となっては好きなことで食べていますよ。

> 本来、武家というのは公家などの警護役です。その琵琶湖の警護役の武家の支配は延暦寺が執り行っていましたと、豊田武著の本に書いてあった記憶があります。
 えらく古い時代の話になりますね。

> 戦国時代、斎藤道三は「あぶら屋」ではなかったでしょうか。飛騨から越中に攻め入った塩屋は、塩の専売人だったと言われています。
 塩は生きる上での必備品です。内陸に向かう街道を「塩の道」と呼ぶほど重要な物資であり、その輸送にも相当のウエートを占めていたため、そう呼ばれるようになったのでしょう。

> 越中にある椎名康胤の家老、武隈氏は源氏を血を引く武家ですが、敗れて後、郷里に帰ったとき、佐々成政から、武家になるか、百姓になるかと迫られたそうです。
 天正十八年に秀吉が「百姓が武士になることは許すが、武士が百姓になることは許さぬ」と御触れを出していますが、これが唯一の兵農分離の最初の段階を示す史料だと認識しています。それまでは百姓なのか武士なのか商人なの分からない。それが中世の身分制度だったと思ます。

> 本来、斎藤や塩屋は武家ではなく、「百姓」(農民の意味ではなくそれ以外と言う意味)なのでしょうが、戦国時代はめちゃくちゃな時代ですよね。豊臣秀吉だって本来「武家」でなく「百姓」でしょうね。
 その秀吉が兵農分離の足がかりを作ったなんて何とも面白いですよね。

> だから、あまり武士に執着するのはどうかと思います。僧の中には、武具や鉄砲も作っていたのでしょ。
 奈良や京都の寺院には思わぬ中世甲冑があるものです。その逆に近世甲冑がないのには、江戸期の身分制度の確立が影響していると思います。

> だから、川中島合戦も海津城が主であるとは思いませんけど。
 それはどうかなあ。武田が統治する意味がないでしょ。多くの犠牲の代償として北信の利権を勝ち取ったというのも、貴台が言われる「江戸期的発想」ですかね。

> でも善光寺でもありませんよ。
 そうなんですよね。そこんところが現代人には理解できないところなんです。恐らく、いい世の中だったんじゃないですか。江戸期に書かれた文献はそれとして。最近、特にそう思んです。川中島で戦はあったでしょう。これは事実だと思います。しかし、その内容においては探求すればするほど皆無の状態に陥る。しかし、小生が言えることは「啄木鳥の戦法」や「車懸かりの陣」なんてものは江戸期の学者の机上の空論であるということだけです。

> あれは非武装中立都市でしたから。
 これも認めます。


荒法師

>貴台が言われる「江戸期的発想」ですかね。
 それもありますが、歴史には迷信みたいのがあります。たとえば「城下町」ですが、城下町には食い違いの路地が多く、これは敵兵が城門に近づけないための防衛的措置だというのがどの本にも書いてありますね。これは疑問ですね。私も各地の城下町を歩きますが、戦国末から江戸の始めにかけて城下町が出来ますがたいていは平行な町筋です。ところが、江戸末の絵図を見ると、食い違いの町筋となっていますが、この理由は、防御的な原因ではなくて、町の新規造成に原因があると思うのです。これは現代の中小の不動産屋が開発した新興住宅地がそうです。町が迷路になってしまっているでしょ。このように真実は何か、定説を疑いましょう。問題意識を持って歴史を読み解かないと真理が見えません。
 話がずれてしまいましたが、川中島の合戦はどうなったのでしょうか。武田信玄が千曲川を渡った原因が良く判らないですね。上杉謙信を誘ったとは思いません。武田騎馬隊はどうしていたのでしょうか。信玄の作戦が良く見えないのです。





小林(2)


> 本来、「椎名康胤」と称したいところ、皆さん(三浦さんを除いて)が、余りに江戸時代の価値観でお話になるものですから、あえて「荒法師」と名乗らせて頂きました。
 私の個人的意見ですが、断定的に話しても良い事とそうでない事があると思います。ここに書き込まれている方で、明らかに江戸時代の価値観(何をもってそう判断するかも曖昧ですが)でもって意見を述べられてる方はいないと思いますが?
 主観的な意見であれば、断定する事は避けられた方が宜しいかと思います。特に他の方を評される場合は。


荒法師  私の発言が波紋を呼んで大変うれしく思います。私の過激な発言や発想へのご批判は私の不徳の致すところで申し訳ありません。お許しください。
 私が「荒法師」を名乗ってサイトを開いたのは、このサイトが出来るかなり以前です。ここで言う「江戸時代」価値観、身分制度などへの批判、特に武士が主である考え方への批判は、私は色々な人と議論しています。
 歴史において、特に中世のその価値観・概念が完全に埋没しています。私は「切腹」とは武士がするものだと思っていましたが、お坊さんでも切腹をすることを数年前に知って、それから寺社について調べました。それまでは、お寺は見るのも近づくのも嫌でした。最近ようやく武家も寺社も公平に見えるようになりました。そして、最近は中世史への見直しの機運が高まってきたように思います。それをサイトを活用した議論によって歴史認識が変わっていけば本望に思います。





小林(1)

 ちょっと疑問点があったので、横レス失礼します。

> これはちょっと違うと思います。平地に城を築いた理由は、野戦において決戦を行うため、大軍を収容する総構えが必要だったからです。後に城は、織田信長が開いた「天下布武」の象徴として天守閣が構えられるようになりました。近世城郭は権威の象徴でしかありません。
 経済の中心都市という発想は信玄には無く、海津城は、部隊の収容陣地であったと考えます。だから戦国時代の城郭の外郭はとんでもなく広大なのです。
 @武田家に野戦決戦する必要性があったのでしょうか。後詰め決戦ならともかく、最初から遭遇戦を想定して城を築くことは不可能だと思うのですが。というよりも、例え上杉謙信でも態々不利な場所で野戦を行うことはないと考えます。
 A海津城は小諸城・高遠城と比べても小振りです。とても大軍を収容する為に築かれた城とは思えません。また、総構えとは城下までも外塁内に取り込んだものをいうのではありませんか?
 B平城が権威の象徴であるということは100%否定はしませんが、もっと実利的なものだったのではないでしょうか?経済(商業)の重要性を認識した上で築いたものと考えた方が妥当であると思います。特に海津城を築いた永禄年間という時期を考えれば。
 C常時多数の兵が駐屯していたとは考えられないと思います。いざ戦ともなれば付近の豪族に召集を掛けるのであろうし、兵農未分離です。軍役から徴収したとしても、普段は精々1千から2千程度の兵力しか常駐していなかったと考えるのが自然と思われるのですが。
 DつまりCから、武田家の基本的な防御思想は後詰め決戦であったと考えるのが妥当と思われ、野戦決戦用の城という解釈は成り立たないと思います。
 以上疑問点でした。


荒法師 質問にお答えします。

> @武田家に野戦決戦する必要性があったのでしょうか。後詰め決戦ならともかく、最初から遭遇戦を想定して城を築くことは不可能だと思うのですが。というよりも、例え上杉謙信でも態々不利な場所で野戦を行うことはないと考えます。
 野戦の決戦ですが、実際に川中島合戦があったのでしょ。でも,川中島の戦いは、後詰決戦ではありませんよ。後詰決戦というのは、本城による敵を誘い出して決戦するため別の城を攻め、途中で待ち伏せして、ここに救援に訪れる敵の大将を討ち取る事を言います。織豊系の武将の戦法によく見られます。
  また、仮説のその1の場合、上杉謙信の陣も不利ではありません。万余の兵を従え、その全面には千曲川があるからです。

> A海津城は小諸城・高遠城と比べても小振りです。とても大軍を収容する為に築かれた城とは思えません。また、総構えとは城下までも外塁内に取り込んだものをいうのではありませんか?
 総構えというのは、城下も取り込んでいます。海津城の場合、総構えの北は千曲川でした。この総構えの存在が実際に発見され、城郭の見方が変わったのがこの10年間ですね。私のサイト(以下のURL)で、「越の築城史」に、「南加賀一向一揆系城郭」で、岩淵城を掲載しています。
 この城の総構えは、アップした図面の遙か北にあって、谷を封鎖して壮絶なものであったようです。これを表すためには、1/25000の地形図が必要です。同様の虚空蔵城の城は、城の遙か北に総構え(地名で残る)がありました。ここで織田勢と合戦が行われ、一向一揆が破れ、城兵は城(私達が城といっているところ)を捨てて退去した伝説があります。これを知って、私達が唖然としたものです。この総構えの多くは利用する必要が無く、多くが農地となり破却され、忘却されました。総構えの概念は、1キロメートルスパンで考えましょう。必要であれば、考古学研究会に報告した概要をサイトにアップしたいと思います。

> B平城が権威の象徴であるということは100%否定はしませんが、もっと実利的なものだったのではないでしょうか?経済(商業)の重要性を認識した上で築いたものと考えた方が妥当であると思います。特に海津城を築いた永禄年間という時期を考えれば。
 商業の重要性とありますが、この地域の中心は善光寺でした。善光寺を中心に川中島を考えないといけませんよ。また、海津城は現在の城だけに留まらず、海津城の背後の山は全部城でした。この認識が必要です。

> C常時多数の兵が駐屯していたとは考えられないと思います。いざ戦ともなれば付近の豪族に召集を掛けるのであろうし、兵農未分離です。軍役から徴収したとしても、普段は精々1千から2千程度の兵力しか常駐していなかったと考えるのが自然と思われるのですが。
 これは、その通りと思います。後に上杉景勝から海津城を与えられた、須田満親は所領2万石だったと思います。違っていたらごめんなさい。

> DつまりCから、武田家の基本的な防御思想は後詰め決戦であったと考えるのが妥当と思われ、野戦決戦用の城という解釈は成り立たないと思います。
 海津城が、野戦決戦用の城とは申しておりません。しかし戦国大名の合戦は、野戦での決戦が雌雄を決するので結果的にはそうかもしれません。軍団駐屯地であると申したのです。野戦は結果的にそうなったのです。
 中世のお城を考えるとき、近世に生まれた概念は捨てる必要があります。例えば、安土城は近世の城の先駆けと言われますが、発掘の結果、どうもこれが近世に入って埋められたようです。武家の世にその構造が相応しくないからでしょうね。
 しかし川中島の戦いに武田の騎馬隊が活躍しません。なぜでしょう。仮説がいくつも考えられます。


石野真琴(1)


小林


> 野戦の決戦ですが、実際に川中島合戦があったのしょ。でも,川中島の戦いは、後詰決戦ではありませんよ。後詰決戦というのは、本城による敵を誘い出して決戦するため別の城を攻め、途中で待ち伏せして、ここに救援に訪れる敵の大将を討ち取る事を言います。織豊系の武将の戦法によく見られます。また、仮説のその1の場合、上杉謙信の陣も不利ではありません。万余の兵を従え、その全面には千曲川があるからです。
 海津城に侵攻して来た越軍を甲斐から軍勢を率いて迎撃する=後詰めではありませんか?待ち伏せしたりするのが後詰めではなく、援軍を派遣して攻城軍と戦うのが後詰めです。戦国時代一般的な戦闘ですよ。棒道(軍事専用ではないにしても)・狼煙台ネットワークなどはそのためのものであると思いますが。
逆に後詰め(篭城戦)の様式を一変させたのが信長の兵農分離だと思います。
 また、拠点を構える敵の勢力範囲内に侵攻することは、戦術的な地の利があったとしても、兵站等を考慮すれば戦略的には明らかに不利です。

> 総構えというのは、城下も取り込んでいます。海津城の場合、総構えの北は千曲川でした。
 本城に対し支城をいくつか築き、地形を利用して(必要なら土木工事を行って)防衛する方法は戦国時代一般的な防御思想です。総構えと言う表現は、例えば末期の小田原城などに付いて用いるべきものではないのでしょうか?

>商業の重要性とありますが、この地域の中心は善光寺でした。善光寺を中心に川中島を考えないといけませんよ。また、海津城は現在の城だけに留まらず、海津城の背後の山は全部城でした。この認識が必要です。
 善光寺があったからこそ商業に結び付けて考えました。例えば郡内小山田氏も富士浅間神社・富士講の関税で莫大な収入を得ており、有力寺社を勢力圏に持つことは、信仰を利用した求心力だけで無く人を集める=金を集めるという実利も得ることができるということです。

>海津城が、野戦決戦用の城とは申しておりません。しかし戦国大名の合戦は、野戦での決戦が雌雄を決するので結果的にはそうかもしれません。軍団駐屯地であると申したのです。野戦は結果的にそうなったのです。
 兵農未分離の武田軍が、常時大部隊を海津城に留め置いたとは考え難いですね。また、戦国大名家の戦いは攻城戦とそれに伴う後詰め決戦が中心であり、野戦で雌雄が決した例は非常に少ないと思います。





石野真琴(1) 議論が専門的な分野に移っておるようなので、私ごとき者が出る幕は無さそうなのですが、一言だけ言わせて頂きます。

>商業の重要性とありますが、この地域の中心は善光寺でした。善光寺を中心に川中島を考えないといけませんよ。また、海津城は現在の城だけに留まらず、海津城の背後の山は全部城でした。
 この認識は多少間違っていると思われます。善光寺平は現在の長野県の県庁所在地である長野市となっておりますが、善光寺平が発展を遂げたのは江戸時代に松代で大火事があって、この火事で焼け出された人々が松代から移り住んだと聞いた事があり、それ以来松代を超える賑わいを見せるようになったと聞きます。まあ大火事云々はどうか解りませんが。
 つまりこの時代のこの地域の中心は、海津城を中心とする松代であったと言う事です。松代がさらに盛んになるのは真田家10万石の拠点となってからですが、江戸時代になると牛に引かれて善光寺参りと言われるように善光寺参りが盛んになり、それに連れてこの地域が発展していったものと推測できます。
 また、武田信虎が甲斐源氏500年間の拠点、石和の地から甲斐府中を開き(永正16年頃)、ここに軍事的商業的中心地を作り上げます。その中心が躑躅ケ崎館ですが、この館は甲斐領主が住む屋敷であると同時に軍事拠点の一つ、平城であったと見て良いと思います。
 この時期に作られた平城の全てとは言いませんが、防御力の弱い平城は、その地域の中心として築かれたと見るべきではないでしょうか。
 このような流れは、それまでの農村部の分散的な社会から、地方でも一極集中化、地方都市化への発展過程と捉えられるべきものと考えられます。
 このような大きなメリットがなければ、防御力の高い山城から、防御力の弱い平城に、防御拠点を移して行く理由が無いと思われ、この時代はそのような過渡期ではなかったと思います。


荒法師(2)


三浦一郎 「石野真琴」というのは本名ですか?だったら敬意を持って議論ができます。小生は正真正銘三浦一郎です。本名を明かしての議論には責任と勇気がいります。中世の武士は戦の前に名乗りあい、互いに敬意を持って戦ったのです。

> この認識は多少間違っていると思われます。善光寺平は現在の長野県の県庁所在地である長野市となっておりますが、善光寺平が発展を遂げたのは江戸時代に松代で大火事があって、この火事で焼け出された人々が松代から移り住んだと聞いた事があり、それ以来松代を超える賑わいを見せるようになったと聞きます。まあ大火事云々はどうか解りませんが。
 貴台もそう思われますか。小生も松代は永禄年間から江戸期にかけて城下として大いに栄えた町だと思います。

>つまりこの時代のこの地域の中心は、海津城を中心とする松代であったと言う事です。松代がさらに盛んになるのは真田家10万石の拠点となってからですが、江戸時代になると牛に引かれて善光寺参りと言われるように善光寺参りが盛んになり、それに連れてこの地域が発展していったものと推測できます。
 そこに基盤となるものが必ずあったと思います。地元ごとに例えで言うと「清洲越え」で名古屋に城下を移すときも、荒野に突如として移す訳ではなく、中世都市の那古野という基盤をもって移したのです。このように権力体制に拘わらず中世都市から近世都市に移行したケースは沢山あります。松代もその一つと考えるべきでしょう。

>また、武田信虎が甲斐源氏500年間の拠点、石和の地から甲斐府中を開き(永正16年頃)、ここに軍事的商業的中心地を作り上げます。その中心が躑躅ケ崎館ですが、この館は甲斐領主が住む屋敷であると同時に軍事拠点の一つ。平城であった見て良いと思います。
 そういえば甲府もそうです。しかしこの場合でも、なるべく旧権力の痕跡をあらわにしないよう、多少城下の位置を移したりはしていますが。

>この時期に作られた平城の全てとは言いませんが、防御力の弱い平城は、その地域の中心として築かれたと見るべきではないでしょうか。
 「城を中心に城下が広がる」という言い方が正しいと思います。

> このような流れは、それまでの農村部の分散的な社会から、地方でも一極集中化、地方都市化への発展過程と捉えられるべきものと考えられます。
 これは経済構造の変化と位置付けるべきでしょう。つまり、これは農耕社会から商工の発展から生じた社会構造の変化であり、すでに中世武家社会の段階で大きく発展していたものと考えられます。近世初頭になれば一層如実に表れてきますが。

> このような大きなメリットがなければ、防御力の高い山城から、防御力の弱い平城に、防御拠点を移して行く理由が無いと思われ、この時代はそのような過渡期ではなかったと思います。
 防御の拠点がたとえ山城にあっても、領主は麓に館を構えて経済を掌握しているのです。これが中世の城郭形成のもとです。戦国時代(個人的には使いたくない言葉)といえども年がら年中戦ばかりしている訳じゃない。その多くの時間は領国経営のための手腕に費やされていたと思います。


石野真琴 初めまして、石野真琴こと石野保志と申します。保志は両親が付けてくれた名前でありまして、これが本名であります。真琴と言うのはペンネームです。高校時代から既に20年間使ってきたペンネームでありまして、ネットの世界でもこの名前で通しております。以後、石野真琴としておつきあい願えれば幸いです。まさか三浦先生よりレスが頂けるとは思わなかったので、こうして本名を出してきました。これからもよろしくお願いいたします。
 ただ、このインターネットと言う世界のHPで、本名や住所、電話番号等を明かすと言う事は、ある種の危険が伴う事でもあります。特に有名な方、例えば三浦先生のような方は、その辺を良く考えておく必要があると思われます。先生は常に堂々とされていて、非常に清々しい方であると思っておりますが、この世界ではそれがそれなりの危険を伴うという認識が必要だと思います。蛇足ですがここで付け加えておきます。どのような危険なのかと言う事が知りたいのであれば、HP主殿より私の方にメールでも送って頂ければ、詳しく説明致します。

> 貴台もそう思われますか。小生も松代は永禄年間から江戸期にかけて城下として大いに栄えた町だと思います。
 賛同を頂けて、有り難いと思っております。

> そこに基盤となるものが必ずあったと思います。地元ごとに例えで言うと「清洲越え」で名古屋に城下を移すときも、荒野に突如として移す訳ではなく、中世都市の那古野という基盤をもって移したのです。このように権力体制に拘わらず中世都市から近世都市に移行したケースは沢山あります。松代もその一つと考えるべきでしょう。
 仰る通りであります。善光寺平はその名の如く比較的平らな土地で、古くから宗教的威信があった土地だと考えるべきでしょう。

> そういえば甲府もそうです。しかしこの場合でも、なるべく旧権力の痕跡をあらわにしないよう、多少城下の位置を移したりはしていますが。
 甲府の縄張りに関してはそれほど詳しくないので、賛同も批判も出来ませんが、甲斐は武田信虎という領主を得て、騒乱の信濃よりも一足早く近代国家?(戦国国家?)への道を進んだのではないでしょうか。もっともこれが後に駿河へ追放される原因の一つになったのは、まだ甲斐国内の認識がそこまで成長していなかった、と言うことではありませんか。

> 「城を中心に城下が広がる」という言い方が正しいと思います。
 その通りであります。城が作られそこを中心に物資と人(兵士)が集まれば、そこに町が出来上がる。そう言うものだと思います。ただそれまでの山の中の城、山城ではそうは行かないと言う事で比較対象として出しました。もちろん、それまでの中心地である領主館も同じ働きを持っていたのでしょうが、平城の築城はそれを加速したと考えております。権威の象徴とでも言うのでしょうか。江戸城がまさにお手本だと思います。

> これは経済構造の変化と位置付けるべきでしょう。つまり、これは農耕社会から商工の発展から生じた社会構造の変化であり、すでに中世武家社会の段階で大きく発展していたものと考えられます。近世初頭になれば一層如実に表れてきますが。
 仰る通りで、戦国期と言うかこの時代は、その過渡期にあたり。地方によってその変化の度合いは違う、という認識を持っております。甲斐で何年も前からそれが進み始め、やっと信濃でも始まったと言う認識です。
 信濃という国は面積が広く、幾つもの山地で区切られており、その山地の間にある盆地状の平地に分散して人が暮らしてきた国であると思います。その為に信濃の中心となる場所はあちらこちらに移動し、それが為にこの国を統一する戦国大名が生まれなかった。そんな認識であります。

> 防御の拠点がたとえ山城にあっても、領主は麓に館を構えて経済を掌握しているのです。これが中世の城郭形成のもとです。戦国時代(個人的には使いたくない言葉)といえども年がら年中戦ばかりしている訳じゃない。その多くの時間は領国経営のための手腕に費やされていたと思います。
 賛同致します。武田信玄や武田信虎はその人生において、ほぼ毎年と言って良いほどに戦を行っているようですが、領国経営にを入れるか、あるいはその手腕に優れた家臣がいなければ、毎年多数の兵を繰り出す戦など、出来るはずはないと思います。
 ここで引き合いに出せるのは信玄堤ぐらいですが、大雨との戦いは国の元を作る戦いであり、その戦いに勝つ事は敵の武将に勝つ事と同じぐらいに大事なこと、そう言う認識も持っていたのでは無いでしょうか。
 武田信玄の旗下にある武将の中で、戦の中で活躍した武将の名は後世まで伝わりますが、治世に尽くした人物の名のほとんどは、歴史の中に埋もれてしまうものだと思います。中には善政を引いたことで知られる武将もおります。しかし大半はその事績も伝わらないのは、残念な事であります。





荒法師(2)

  石野さまの考え方は、武家中心の発想ですね。これは江戸時代の価値観から来た考え方です。中世において最も経済活動を行ったのはどこだと思います。それは寺院です。寺院は、広いネットワークを持ち、門前町、寺内町を持っていました。伊藤正敏氏は、「日本の中世寺院」で、「かりに寺院の特徴を一言で述べよといわれれば、「職種と人数の多さにおいて他に比類のない商工業者の集住地」と定義しています。私はこの説に賛同します。
 富山の事例を述べますと、慶長の始め、前田利長が富山城を隠居城として富山町を整備するとき、富山のメインストリートの東に勝興寺の通坊(布教所)を移し、寺内町を認めこの門前に一里塚を立てました。理由は富山の町作りです。善男善女がこの通坊を訪れ商家が立ました。これは、終戦後まで続きましたね。
 寺社には、門前町やの寺内町といわれた町屋が付属していました。現在もその景観を色濃く残すのが、三重県一身田にある高田山専修寺です。寺院の仏事扱う商家が立ち並んでいます。またご参考までに、長野歴史博物館をお尋ねください。中世の善光寺寺内町が再現されています。中世のこの地域の経済文化の中心地は善光寺であることは明白です。ただ、歴史認識を変えるのには時間がかかると思いますが。


三浦一郎

> 石野さまの考え方は、武家中心の発想ですね。これは江戸時代の価値観から来た考え方です。中世において最も経済活動を行ったのはどこだと思います。それは寺院です。
 それを認めた上で掌握していたのは、やはり権力を握って武力を発動できる武士だと思います。

> 寺院は、広いネットワークを持ち、門前町、寺内町を持っていました。伊藤正敏氏は、「日本の中世寺院」で、「かりに寺院の特徴を一言で述べよといわれれば、「職種と人数の多さにおいて他に比類のない商工業者の集住地」と定義しています。
 ○○氏がとか○○先生(そんな人、突然出されても知らないでしょ)がという議論ではなくて、貴台はどう思うのかという議論をして欲しいと思います。その上で出典資料を聴かれてから紹介すべくように思います。小生は、貴台から提示された史料に関して、小生なりの意見として精一杯述べているつもりです。

> 寺社には、門前町やの寺内町といわれた町屋が付属していました。現在もその景観を色濃く残すのが、三重県一身田にある高田山専修寺です。寺院の仏事扱う商家が立ち並んでいます。
 こうした町屋の治安や秩序を円滑に守るのが武士だったと思います。最終的にいえば中世は武家社会です。このことに対して言い換えるのなら、江戸期は逆に町屋中心の資本主義社会になりつつある状況だったと認識しています。

> 中世のこの地域の経済文化の中心地は善光寺であることは明白です。
 それも当然あるでしょうが、松代をまるっきり認めないのには納得できません。貴台は、松代という町が江戸期に城下として発展していく過程をどのようにお考えなのですか。まさか、海津城の周辺は何の発展もない荒野だったとは思われないでしょ。

> ただ、歴史認識を変えるのには時間がかかると思いますが。
 確かにこの認識をご理解いただくのに時間はかかりますが。


荒法師

三浦さんの松代執着はすごいですね。

> それも当然あるでしょうが、松代をまるっきり認めないのには納得できません。貴台は、松代という町が江戸期に城下として発展していく過程をどのようにお考えなのですか。まさか、海津城の周辺は何の発展もない荒野だったとは思われないでしょ。
 現在もそうですが、川中島の中心はどこだと思います。松代ではありませんよね。これは中世ではもっと明白でしたよ。私は事実を列記し、科学的に述べているだけです。歴史を変えることは私にはできません。




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